2 小学校の開設

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 学制によって我が国近代学校制度の構想が立てられたが、これをいかなる順序で実施するかについて、明治五年六月二十四日に文部省が指令を出している。それによると、学制発布後ただちに着手すべき順序は左の九ケ条によって定められた。
 一 厚ク力ヲ小学校に可用事
 二 速ニ師表学校ヲ興スヘキ事
 三 一般ノ女子男子ト均シク教育ヲ被ラシムヘキ事
 四 各大学区中漸次中学ヲ設クヘキ事
 五 生徒階級ヲ踏ム極メテ厳ナラシムヘキ事
 六 生徒成業ノ規アルモノハ務テ其大成ヲ期セシムヘキ事
 七 商法学校一二所ヲ興ス事
 八 凡諸学校ヲ設クルニ新築営繕ノ如キハ務テ完全ナルヲ期ス事
 九 反訳ノ事業ヲ急ニスル事
 すなわち、まず第一に小学校を開設してその普及充実に努むべきこととした。政府はこのように、小学校開設について非常に熱意をもち、全国に向かって強く奨励したから、各町村でも万難を拝してこれに当たったのであった。
 小学校を開設するに各府県は左の三様をとった。
第一は従来あった寺子屋私塾を全廃して新しく小学校を設置したもの

第二は、寺子屋・私塾をそのまま存置して、これとは別に公立小学校を設け、しだいにその中に生徒を吸収し、徐々に古い形の教育機関を整理したもの

第三は、寺小屋・私塾等を学区制に基づいて併合して、そのままこれを小学校に再編したもの

 右のうち、第三様式をとったものがもっとも多く、本県の実情も大体これによるものであった。したがって、校舎も寺院や民家を借用したものが多く、教師も手習師匠をそのまま小学校教師に任用したものが多かった。
 小学校開設に当たっては、各町村ごとに開学願書を県に提出させ、県はこれに許可証を与えて開学のはこびとしたのである。
 このようにして小学校は続々と開校されたが、肝心の就学率はあまりかんばしくなかった。要するに就学についての親の理解と、子供自身の意欲の問題であったろう。
 明治六年栃木県全体の小学校生徒の状況は、次のとおりである。
 学齢総計 一〇一、一一六人内男五五、六八二人、女四五、四三四人
 就学総計 二三、五七二人内男一七、四一六人女六、一五六人
 就学率 二三・三三%男三一・二八%女一三・五四%
 明治六年から明治十年までの、本県就学率および、日本全体の就学率は左のようである。
年次明治六年明治七年明治八年明治九年明治十年
性別全国栃木県全国栃木県全国栃木県全国栃木県全国栃木県
39.931.246.259.450.568.354.267.356.061.5
15.113.517.222.518.626.421.029.422.524.3
平均28.123.332.341.835.247.338.849.139.943.3

 明治十年の小学校一覧表(抜粋)
 明治十一年五月、本県は「栃木県小学校一覧概表」という冊子を発行した。ここには本村に関係したもののみを抜粋し、参考に供したのである。現在と比較して隔世の感があり、興味あるものがあろう。
小学区番号校名位置開業学区内人員同就学人員
同学令人員同不就学人員
第四十番中学区第七十七番温習舎湯津上村同八年三月八五五七一
四二九四九
四二六二二
一五一八〇
七一二二
八〇五八
第七十九番正風学校新宿村同七年四月九五〇五二
四七二四三
四七八
一四七九四
七四三一
七三六四
第八十番咲山分校蛭畑学校蛭畑村同九年五月二〇二二四
九八一七
一〇四
三三
一九
一四
第八十番修斎分校毓民学校佐良土村同八年四月五九七三七
三一五二八
二八二
七八四一
四五一七
三三二四
 
小学区番号校名生徒階級学資金歳出入教員学区内町村
下等小学上等同校掌(事務官)
第七十七番温習舎八級五一四級積金九二円三〇銭六厘二毛藪惣之助湯津上村
七〃三〃八円八一銭六厘一毛挟原村
六〃二〃九二円三〇銭六厘二毛深沢惣吾小船渡村
五〃一〃
第七十九番正風学校八級三一四級寄付金八一五円七二銭九厘七毛原蕃二郎片府田村
七〃三〃二、七七六円六一銭新宿村
六〃二〃八〇八円九八銭七毛深沢政十郎倉骨村
五〃一〃蛭田村
第八十番咲山分校蛭畑学校八級一五四級寄付金一六四円三二銭四厘七毛蛭畑村
七〃三〃一、〇八〇円六二銭
六〃二〃一五五円七五銭三厘六毛吉成喜十郎
五〃一〃
第八十番修斎分校毓民学校八級一一四級寄付金一二七円四七銭七厘佐良土村
七〃三〃一、〇〇一円
六〃一〇二〃保護金一二五円五二銭五厘佐藤清一郎
五〃一〃一二五円五二銭