学童疎開

871 ~ 872
太平洋戦争末期の本土空襲など、戦局の悪化にともない、昭和十九年六月、政府は国民学校初等科三年~六年までの児童を近郊農村、地方都市へ集団疎開させる方針を含め、各地方の旅館寺院等に集団疎開をした。
 戦局が一層悪化し、最後の局面を迎えた昭和二十年三月十八日「決戦教育措置要綱」が決定され「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止ス」ということになり、学徒動員が行なわれるなど、総力を結集して戦争に対処したが、昭和二十年八月十五日無条件降伏により戦争の終結を見たものである。
 本村に関係した学童疎開について、関係者の記憶によると次のようである。
 学童疎開を引き受けたのは湯津上村西の根の威徳院・佐良土の法輪寺・蛭田の頂蓮寺・片府田の宝寿院で昭和十九年十月頃より昭和二十年十月頃までの期間、国民学校初等科の四年・五年・六年生が分散疎開し、先生と生活をともにし、学習は村内三小学校に通って行ない戦時下の不自由な生活を送っていた。疎開をして来た学校は、東京市小石川区追分町の追分小学校であり、児童数は七〇名位かと思われる。