第二次世界大戦後、昭和二十一年三月米国教育使節団が来日し、我が国の教育について、昭和二十一年四月「第一次アメリカ教育使節団報告書」を発表し教育改革の基本的事項を指示した。その重な内容はつぎのようなものであった。
1 教育目的の自由主義化と個人主義化
2 そのための教育課程の全面改訂
3 国字の徹底的改良とローマ字の採用
4 教育行政の地方分権と公選制行政機関の創設
5 単線型・無月謝・男女共学を原則とする六・三・三制の樹立
6 詰め込み主義・画一主義的教授法の改善と教員養成制度の改善
この報告書によって、義務制・公費負担・男女共学・職業科の設置等の基本線が決められ、昭和二十二年三月三十一日に教育基本法・学校教育法が公布され、四月一日には新学制による六・三・三・四制の教育制度が実施され、新制中学校が発足したわけである。
つぎに湯津上中学校創設当時の様子をふりかえってみる。
文部省は、昭和二十二年四月九日教育課程等について学習指導要領を発表した。これに基づいて新しい中学校の教育内容は方向づけられたのであるが、戦争による荒廃で、国民自体が戦災、疎開等で住む家もない状況のもとで、新しい中学校どころではなく、小学校や寺院の間借りや、空いた兵舎等を校舎に用い、教科書も満足のものがなく苦労した時代があり、湯津上中学校も三小学校に併設して出発した状況である。
初代校長磯実義氏は創立当時を次のように語っている。
「当時はまだ終戦後日も浅く、国民はあらゆる物資の欠乏と道徳心の低下で、ただ生き抜くためのみの苦心と努力で精一杯の時であった。当時私は蛭田小の校長であったが、突然に湯中校長をとの報を受けた時ほど大きな驚きと、その職責の重大さを痛感したことはなかった。四月十日やっと職員のメンバーもそろったので、初の顔合せを兼ねて第一回の職員会議を開くことにして、先ず佐良土小の準備室の一隅を借りたが、中学校の施設として全く無一物であったので、取りあえず小学校より火鉢と薬缶を借り、五徳は私の家から古物を持参し、更に茶道具一式を谷国夫氏に寄付をお願いし、ようやく湯茶を飲むだけの設備ができたわけである。やがて古いテーブルを囲んで私達は今後立派な中学校を創設するため、鉄のような団結力を持って、あらゆる困難に打ち勝ち、死力を尽して中学教育に邁進しようと互いに誓い合った。それより後、独立校舎の新築を見るまでは、あらゆる不自然と不自由を忍んで、三小学校で分校経営にはいることにして、四月二十八日に開校の喜びの日を迎えた。やがて、授業は開始されたが、教具のほとんどが小学校よりの借り物で、当時の先生方の苦労が察せられることと思う。その時まず生徒の机・腰掛を作る計画をたてたが、当時は材料の入手も不如意なため、止むなく法輪寺の若水厚譲師にお願いして、奥の院の巨大な松と杉を戴き、全生徒が新しい自分の机で勉強ができるようになったのも思い出の一つである。当時の生徒達の笑顔が眼に浮かんでくる。その後村当局も、学校建築を強く望まれ、早速敷地さがしに着手したが、村の地形上、全村一致の適地を見出すことは極めて至難な事で、議会を始め関係者等の協議を重ねること数十回にも及んだ。かくして湯津上中学校は不自然な分校経営を続けること三年余にもなり、いよいよ敷地の決定を迫られた。昭和二十四年の暖かい春の日に、現敷地近くの松林の中で、村議会の協議会と湯津上村内小中学校職員が、お互に隣合って円陣をつくって話し合いの結果、双方とも現在村内三校より直線距離で約二千六百六十メートルの地点で、この村の中央に平和郷湯津上建設の教育の殿堂を建築することになったことは、まことに意義深いものがあったと信じる。校舎建築工事は早速進められ、昭和二十五年六月に第一期工事、続いて昭和二十六年に第二期工事も竣工し、やがて当時においては県北に誇る優秀な校舎に、全職員が眺望優れた雄飛が丘に集り、待望の中学校本来の姿の下に、充実した教育が行われることになった時の一同の喜びは、実に筆舌に尽せぬものがあった。」(湯中の想い出より)
また、当時の議会人よりは
「義務教育の最後を恵まれた環境の内で学んだ――はばたけ雄飛ケ丘の健児、花開け平和坂の乙女達――約五千名がそれぞれの職場、学校で活躍していることは誠に御同慶に堪えない。創立当時の植竹斐村長の苦労は、まさに身命をとする一語につきるものがあった。」と語り継がれている。
かくして、村民は中学校校庭の整備に汗を流し、幾日も奉仕作業を続け、山膚は現在のような敷地になったのも村民力を合わせて、子弟教育の充実を願ったお蔭である。毎年のように近代的教育のための付属建築工事を行って、名実ともに卓越した教育が行われていることは、村民の最も喜びとするところである。
第一校舎焼失
昭和三十三年六月一日の夜、突如火災に遭い、第一校舎(職員室応接室、普通教室)を全焼してしまった。重要書類並に教材の一部を焼失し、一時は思案にくれたが、地域社会の人達の励ましと関係当局の教育に対する情熱は議会を動かし、直ちに復旧工事に入り、年内に新校舎が落成し子弟の教育にあまり不便をかけなかったことはありがたいことであった。
創立三十周年
昭和五十二年九月三十日、湯津上中学校創立三十周年記念式典を挙行し、卒業生五、〇四〇名を社会に送り出した歴史と伝統に輝く本校の姿を祝福した。
村長、谷国夫の祝歌
一庭に学び一村を興すという湯中三十年の歩みを讃う