2 公民館

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 昭和二十四年社会教育法の制定により、公民館の性格、事業内容が明確にされ、はっきり社会教育機関として位置づけられることとなり、本村も条例によって湯津上村公民館を設置した。建物は佐良土小学校敷地内の旧青年学校々舎が充てられた。
 初代館長は五味淵金蔵が起用され、総務部・文化部・体育部・青年部・婦人部を置き、それぞれ活発な活動を展開した。二代谷国夫館長は、湯津上村文化会を組織し、機関紙を発行するなど文化面の活動にみるべきものがあった。当時は、体育面の活動も充実して、年々の郡民体育祭(旧町村毎)には、常に優勝を争ってきた。また幻燈機やナトコ映写機を持って村内各地域を巡回し、地域住民や青年会との座談会などが活発に行われた。昭和三十六年頃から、青年団活動と相俟って湯津上村青年学級を開設し、年間五十時間程度の学習を行った。内容は農業振興に関するものを主とし、これにフォークダンスなどレクリェーション的なものを加え、昭和四十二年頃まで続いたが、青年団の解散とともに閉講するに至った。
 久しく要望されていた公民館建物の建設は、昭和四十年代に至ってようやくその構想が具体化し、四十九年三月、佐良土光風荘前、三、五七七平方米の敷地に、二階建延一、〇八六平方米の近代的な新館が竣工した。

湯津上村公民館

 現在の主な事業内容は次の通りである。
 1、乳幼児学級
 2、家庭教育学級
 3、婦人学級
 4、高齢者学級
 5、村民作品展
 6、ソフトボール大会
 7、文化講演会
 8、新生活運動推進

 分館(後地区館と改める)は、南部分館が本館に併置、昭和二十八年蛭田小学校西隣に西部分館を新築、昭和三十一年湯津上小学校敷地に東部分館を併置し、それぞれ地域住民の拠点として、戦後の社会教育に寄与してきた。その後西部地区館は、昭和五十年蛭田小学校の新築移転に伴ない、旧蛭田小学校の敷地・建物の一部を充てることになった。

湯津上村公民館東部地区館


湯津上村公民館西部地区館


狭原公民館


入山公民館


西の根公民館


岩舟会館


石田公民館


蛭畑公民館


上蛭田公民館


品川公民館


新宿公民館


田島公民館


片府田公民館

 一方、各地域毎に自主的な公民館設置の機運も高まり、次のようにすでに建設されたもの十一館に及び、尚現在侍塚に建築中のもののほか、建設の動きをみせている地域がほかにもある。

侍塚生活センター(建築中)

公民館運営審議会委員・社会教育委員(兼任)(昭和五三・四・一現在)
役職名氏名住所備考
学校長杉井力夫湯津上村大字湯津上三六四
大宮司敏晴西那須野町南郷屋三二―九
青年会長滝口義昭湯津上村大字狭原四四一
婦人会長笹沼芳野〃     佐良土八九五
農経会長稲村隆夫〃     蛭畑九三二
老人クラブ代表墨谷喜一〃     蛭田一、三八三
議会議長花塚直茂〃     小船渡二四一
学識経験磯繁〃     湯津上一、五六四
深沢政〃     〃  二、八三六
郡司清〃     佐良土九六七
渡辺博英〃     蛭畑一、三〇六
石山国一〃     蛭田一、九七八
小林倉三〃     新宿五六〇
鈴木芳男〃     片府田一、〇〇〇
菅野精一〃     蛭田二、二六三

歴代公民館長(昭和五十三年四月一日現在)
氏名就任備考
五味渕金蔵昭和二十六年五月
谷国夫昭和二十八年五月
大野三木昭和三十一年五月
吉成喜久一昭和三十五年四月
蜂巣丈平昭和四十三年六月
榊原英二昭和四十七年四月
植竹禄三郎昭和四十九年四月

地区館長(昭和五三年四月一日現在)
館名館長名対象地区備考
東部地区館佐藤金夫狭原・小船渡・湯津上
南部地区館小倉良一佐良土・蛭畑
西部地区館坂主清二蛭田・新宿・片府田

自治公民館の状況(昭和五十三年十一月現在)
名称所在地面積収容人員館長名備考
m2
狭原公民館狭原一三六九九一〇〇船山金正木造・平家
入山〃湯津上二一三八六六五〇菊地忍〃 〃
西の根〃〃  一三二一一二二一〇〇深沢平〃 〃
岩舟〃〃  一〇四四―二五七六〇深沢明〃 〃
石田〃〃  四五六一三〇二〇〇植竹俊一〃 〃
蛭畑〃蛭畑八六八―一一三八二〇〇高桑隼一郎〃 〃
上蛭田〃蛭田一一六三五〇五〇須藤庫一〃 〃
品川〃品川一九八一―四七一七八一五〇野崎正由〃 〃
新宿〃新宿五八八七一一〇〇蛭田宗作〃 〃
田島〃湯津上二三五六―一一二八一五〇清水倉雄〃 〃
片府田〃片府田三四六一四二二〇〇阿久津喜一郎〃 〃