立命館 史資料センター/西園寺公望関係資料デジタルアーカイブ
西園寺公望年譜

※ 明治5年までは月日は旧暦、明治6年以降は月日は新暦としています。

西園寺公望年譜 年表一覧
年号 西暦 西園寺公望年譜 日本と世界の動き
嘉永2 1849 10月23日 右大臣徳大寺公純(きんいと)の次男として生まれる。母は徳大寺家の家女房千代浦(末弘斐子)。幼名美丸(よしまる)。  
嘉永4 1851 この春、右近衛中将西園寺師季(もろすえ)の養嗣子となる。
7月19日 養父師季没す。
10月20日 従五位下に叙せられる。
 
嘉永5 1852 1月27日 西園寺家を継ぐ。従五位上に叙せられる。  
嘉永6 1853 1月21日 正五位下に叙せられる。
5月15日 侍従に任ぜられる。
アメリカの使節ペリー浦賀来航
嘉永7 1854 1月22日 従四位下に叙せられる。  
安政2 1855 1月23日 従四位上に叙せられる。  
安政3 1856 2月5日 正四位下に叙せられる。  
安政4 1857 10月7日 元服、昇殿を許され、右近衛少将に任ぜられる。  
安政5 1858 7月3日 養母定君没す。  
文久元 1861 3月27日 右近衛中将に任ぜられる。
4月25日 従三位に叙せられる。
5月7日 古義堂に入門し、伊藤輶斎に学ぶ。
 
文久2 1862 1月5日 正三位に叙せられる。  
慶応3 1867 12月20日 参与職に任ぜられる。 大政奉還、王政復古の大号令
慶応4/明治元 1868 1月4日 山陰道鎮撫総督に任ぜられ、5日、京都を出発する。(資料
3月20日 権中納言に任ぜられる。
4月19日 但馬府中裁判所総督に任ぜられる。
閏4月5日 東山道第二軍総督に任ぜられる。
閏4月23日 北国鎮撫使に任ぜられ、5月10日、京都を出発する。
閏4月24日 陸軍三等将に任ぜられる。
6月14日 会津征討越後口総督仁和寺宮嘉彰親王のもとに、壬生基修とともに参謀に任ぜられる。
10月28日 新潟府知事に任ぜられる。
戊辰戦争起こる
明治2 1869 1月5日 新発田を出発して上京。新潟府知事を辞職する。
この頃、木戸孝允・大村益次郎らの知遇を得て開成学校に入学する。
2月 陸軍三等将の辞表を提出し、3月25日願により免ぜられる。
6月2日 軍功により300石を永世下賜される。
7月3日 勤学中の官位辞退を許され(資料)名を望一郎と改める。
9月 この頃京都の私邸内に家塾立命館を開く。
10月29日 進退伺いをせずに京都に戻ったため、謹慎7日を仰付られる。
12月17日 長崎留学を許される。
 
明治3 1870 4月 長崎の広運館に入学し、レオン・デュリーよりフランス語を学ぶ。
4月23日 家塾立命館、官により差留められる。
11月20日 フランス留学を仰付られる。この月、家禄465石8斗が永世下賜される。(注:明治3年11月20日は、西暦1871年1月10日にあたる)
12月3日 グレート・リパブリック号で横浜を出港する。同船者は伏見宮能久・東久世通暉・森有礼ら。アメリカ・イギリスを経てフランスに向う。
12月17日 京都府貫属を仰付られる。(資料
 
明治4 1871 2月7日〈西暦3月27日〉 パリに到着。パリ・コミューンの一連の事件を目撃する。 パリで民衆蜂起
明治5 1872 7月21日 木戸孝允をはじめ、岩倉使節団の一行と邂逅する。  
明治6 1873 10月 官費留学を辞退する。  
明治7 1874 3月 東京府貫族を仰付られる。  
明治8 1875 11月4日 パリ大学に入学しラシーヌ街23番地のホテルに下宿生活を送る。パリ留学時代、エミール・アコラースに出会い、生涯の師とする。また留学生仲間の中江兆民、光妙寺三郎らと交遊。ジュディット・ゴーチェ、エドモン・ゴンクール、フィリップ・ビュルティ、フランツ・リスト、ジョルジュ・クレマンソーらと知り合う。  
明治10 1877   西南戦争始まる
明治11 1878 12月29日 正三位に復叙される。(資料  
明治13 1880 10月21日 タイナス号で横浜に入港(帰国)する。  
明治14 1881 1月 明治法律学校(明治大学の前身)の講師となり、(資料)法論会の会頭をつとめる。
3月18日 中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊。社長となる。
4月8日 勅命により東洋自由新聞社を退社する。こののち、西園寺退社一件をめぐって『大坂日報』や、松沢求策をはじめとする東洋自由新聞社員に譴責処分が加えられる。
11月24日 参事院議官補に任ぜられる。(資料
 
明治15 1882 3月14日 参議伊藤博文の憲法調査に随行するため、横浜を出港する。(資料1 資料2  
明治16 1883 8月 帰国。
12月24日 参事院議官に任ぜられる。(資料
 
明治17 1884 5月8日 法制部勤務となる。(資料
7月7日 華族令の公布により、侯爵を授けられる。(資料
パリで『蜻蛉集』が刊行される。
 
明治18 1885 2月14日 オーストリア駐在特命全権公使に任ぜられる。(資料1 資料2
4月18日 出発し、6月20日ウィーンに到着する。
 
明治19 1886 6月5日 帰国。
8月6日 法律取調委員に任ぜられる。(資料
 
明治20 1887 6月4日ドイツ公使に任ぜられる。(資料
6月28日 ベルギー公使兼勤となる。(資料
10月8日 出発。ドイツ公使時代にパリの酒井雄三郎のもとを訪れる。
 
明治22 1889   大日本帝国憲法発布
明治24 1891 8月 帰国。
9月4日 賞勲局総裁に任ぜられる。(資料
 
明治25 1892 10月7日 民法商法施行取調委員長に任ぜられる。(資料  
明治26 1893 4月13日 法典調査会副総裁に任ぜられる。(資料
11月13日 貴族院副議長に任ぜられる。(資料
12月11日 従二位に叙せられる。(資料
 
明治27 1894 5月10日 枢密顧問官兼賞勲局総裁に任ぜられる。(資料1 資料2
5月12日 貴族院副議長を免ぜられる。(資料
8月20日 日清戦争の勃発にあたり朝鮮へ大使として派遣される。(資料
10月3日 井上毅の後任として第二次伊藤内閣の文相に任ぜられる。(資料)牧野伸顕が文部次官、中川小十郎が文部大臣秘書官をつとめる。
日清戦争始まる
明治28 1895 6月5日 陸奥宗光外相病気のため、外務大臣臨時代理に任ぜられる。(資料  
明治29 1896 5月30日 陸奥外相辞任のため、外務大臣兼任となる。(資料
7月25日 陸奥・竹越与三郎らと雑誌『世界之日本』を創刊する。
9月22日 兼官を免ぜられる。(資料
9月28日 文相を免ぜられる。(資料
11月5日 法典調査会副総裁を免ぜられる。(資料
同年末より
1897(明治30)年10月 ヨーロッパに遊ぶ。
 
明治31 1898 1月12日 第三次伊藤内閣の文部大臣に任ぜられる。(資料
1月21日 法典調査会副総裁に任ぜられる。(資料
3月30日 法典調査会副総裁を免ぜられる。(資料
4月30日 文相を免ぜられる。(資料
12月20日 正二位に叙せられる。(資料
 
明治33 1900 5月19日 中川小十郎、私立京都法政学校(立命館大学の前身)を創設する。
9月15日 立憲政友会の創立に参加する。
10月27日 枢密院議長に任ぜられる。特に国務大臣として内閣員に列せられ、内閣総理大臣臨時代理に任ぜられる(第四次伊藤内閣)。
12月12日 内閣総理大臣臨時代理を免ぜられる。
 
明治34 1901 5月2日 伊藤首相辞任のため、内閣総理大臣臨時代理に任ぜられる。
5月10日 内閣総理大臣臨時兼任となる。
5月14日 渡辺国武蔵相罷免のため、大蔵大臣臨時兼任となる。
6月2日 兼官を免ぜられる。
 
明治36 1903 7月13日 枢密院議長を免ぜられ、特に前官の礼遇を賜わる。
7月14日 立憲政友会第二代総裁となる。
 
明治37 1904 9月14日 上海・揚子江地方へ渡航を出願。(資料
11月8日 帰国。
日露戦争始まる
明治38 1905 4月 私立京都法政大学に「立命館」の名称継承を許諾する。  
明治39 1906 1月7日 内閣総理大臣に任ぜられる(第一次西園寺内閣)。臨時兼任文部大臣に任ぜられる。
3月3日 臨時兼任外務大臣に任ぜられる。
3月27日 牧野伸顕を文部大臣に任ず。
4月14日 非公式に満州視察に出発し、5月14日帰国。
5月19日 林董を外務大臣に任ず。
 
明治40 1907 6月17日~19日 駿河台邸に文士を招き雨声会を催す。以降、年をあけて6度開催。(資料1 資料2  
明治41 1908 7月14日 内閣総理大臣を免ぜられる。特に前官の礼遇を賜わる  
明治44 1911 8月30日 内閣総理大臣に任ぜられる。(第二次西園寺内閣)
8月31日 済生会顧問となる。
 
大正元 1912 12月21日 内閣総理大臣を免ぜられる。特に前官の礼遇を賜わる。  
大正2 1913 2月 立憲政友会総裁辞任の意を表明し、京都の別邸清風荘に退く。  
大正3 1914 6月10日 旧堂上華族保護資金調査委員に任ぜられる。(資料
6月18日 立憲政友会総裁を正式に辞任する。
12月1日 臨時帝室編修局顧問に任ぜられる。(資料
12月10日 私立京都法政大学が私立立命館大学と改称する。
第一次世界大戦勃発
大正7 1918 12月24日 世界大戦講和会議使節として、ヨーロッパへ出張を仰せつけられる。
12月27日 帝室経済顧問に任ぜられる。
 
大正8 1919 1月14日 丹波丸で神戸を出港する。牧野伸顕・近衛文麿ら同行。
6月28日 ヴェルサイユ宮殿で講和条約に調印する。(資料1 資料2 資料3
8月24日 帰国。
パリ講和会議開催、ヴェルサイユ条約調印
大正9 1920 9月7日 勲功により公爵を授けられる。 国際連盟発足
大正12 1923   関東大震災
大正14 1925   治安維持法・普通選挙法公布
昭和元 1926 12月28日 優詔をうけ、以降、最後の元老として内閣主班指名等の御下問に奉答。  
昭和5 1930 3月6日 政治秘書原田熊雄、「原田日記」の口述を開始する。速記者近衛泰子。  
昭和6 1931   満州事変始まる
昭和8 1933   国際連盟脱退
昭和11 1936 3月2日 二・二六事件後の政局につき、奉答のため静岡県興津の別邸坐漁荘より上京、参内する。 二・二六事件
昭和12 1937 10月13日 帝室経済顧問を免ぜられる。 日中戦争始まる
昭和14 1939   第二次世界大戦勃発
昭和15 1940 11月24日 坐漁荘にて没す。
12月5日 国葬。