県立文化会館 万葉植物園
1949(昭和24)年、夫・博の伝手を頼り大宮へ移住した大西夫妻は、埼玉県立文化会館で働き始めました。
木俣修に入門を認めてもらい、1953(昭和28)年、短歌雑誌「形成」の創刊に参加。1956(昭和31)年には、民子は初めての歌集『まぼろしの椅子』を刊行します。生活の苦悩、不安などの感情を克明に表したこの歌集は、歌人としての地位を確かなものとし、民子は短歌の世界で実力を発揮していきました。
一方、生活のうえでは夫と上手くいかず別居状態となり、1964(昭和39)年ついに離婚しますが、大西の姓はペンネームとして使用することにしました。この間、上京して一緒に暮らしていた母が亡くなり、1972(昭和47)年には最愛の妹を亡くして、民子は天涯孤独の身となりました。