[昭和三一年]

昭和三一年一月 湖心(一〇首/四首まぼろしの椅子・二首不文の掟)
 幾通の原稿依頼書き終へて事務服のまま投函に出づ
 出でて来て没り陽に草の影を踏む行き詰らむと言はれしことの寂しく
 偸安と言はれむかショパンのレコードも一二枚づつ買ひ揃へゆく
 日誌にはさみて秘めおく葉書読み返し或る夜は寂びし悖徳(はいとく)のごと
 
昭和三一年二月 火山灰地(一五首/一〇首不文の掟)
 返信を強ひ来し手紙も溜めしまま旅ゆかむ願ひのみつのりゆく
 碓氷越えてまたも旅ゆくわれのこと伝はりゆきて君に如何に響くぞ
 山上の驟雨に撃たれ来しこころ何か見失はむ危惧に眠れず
 女の智慧の足らはざりしを悔みたる日々もやうやく闌けし思ひす
 君の小説には描き得ざらむわが焦土いつよりか泉湧く苑を秘む
 
昭和三一年三月 冬草(一一首/六首不文の掟・一首形成二八年一〇月と同じ)
 身動きならぬ思ひに澱むわがいまの静謐をさへ母は恃めり
 何時われの書き散らしたる音符ならむ古きノートより五線紙の出づ
 母にも知らせず幾日かをひとり病む部屋にサフランの蕾ふくらみ初む
 事毎に家風とふ言葉もて責むる姑に抗ひきわれも若かりしかば
 
昭和三一年四月 遠景(一四首/九首不文の掟)
 何に倦める妹ぞ港を見にゆかむとせがまれて共に横浜に来つ
 G線の切れしままなるヴァイオリンのこと思ひ出でて夜半をひとり寂しむ
 原書にて読むリラダンの短編のたのしさも今日妹は告ぐ
 先生を持つが羨しと酔へる友に言はれしより涙ぐみて歩めり
 放埒の限りに小説書く夫を宿業のごとも或る夜は思ふ
 
昭和三一年五月 落花(九首/八首不文の掟)
 桟橋に堰かれつつ流れゆくばかり河はつくづく海より寂し
 
昭和三一年六月 季春(一二首/八首不文の掟)
 緑色の息たつごとき麦生来て憎しみに遠し今のこころも→「さみどりの」不文の掟
 作業衣の身につきし少年自転車よりバス待てるわれに声かけて過ぐ
 帰りのバスの窓より放たばよく飛ばむ風船を貰ひてデパートを出づ
 会はば手をとりて泣かむなど思ひゐしわが甘さ姑は端然と坐す
 姑としてかしづく最後の日と思ふ感傷にも紛れず長き苦渋は
 
昭和三一年七月 雨月(一一首/六首不文の掟)
 事務服のままぬけて来てバスに乗る聞かれたくなき電話かくるため
 昨日の続きの複写とりつつ午後となれば青く染まりし中指痛む
 掃きゆきて卓袱台をたてかけながら久しくあけぬ襖と思ふ
 釣合ひのとれぬ思ひのまま眠る贈られし版画壁に吊して
 すきとほるまで熟れし茱萸失ひしいつかの万年筆の軸の色なり
 
昭和三一年八月 雨後(九首/三首不文の掟)
 毛皮のコート着てゐしを見つといふ噂聞きてよりまた幾月かたつ
 試演終へ来る君を廊に待つ何告げむとわれをよびたるならむ
 汗拭きつつ戻れる君がピエロ帽ぬげばカールの髪肩に垂る
 嫁ぎたる友多きなかに安んじて子をうみ得るは幾人もゐず
 目標の旗は遠くて見えないとわが言ひしとぞ熱に浮されてゐて
 ぼんやり窓に凭るる時間がほし午後からは校正刷りが届くとぞ
 
昭和三一年一〇月 ものの音(九首/七首不文の掟)
 伸び放題の夏草のなかひいでたる幾茎ありて穂ばらみ始む
 身代りという語がいざなふ感傷か今日も来て埴輪の少女を眺む
 
昭和三一年一一月 豫後(一〇首/五首不文の掟)
 なんの色にも染まらぬ人といふ評語受けとめて重し今日の心も
 水争ひに昨夜は眠らずと言ふ君も座につきて今日の執務始まる
 すぐ汚さるる廊下幾度でも拭く友よ老いにふさはしき職と思へず
 老いて働く今を歎かず出稼ぎに出されし少女期のことかなしみて言ふ
 ねたみ深き目に遭ひしより足音をしのばせて歩むごとき日続く
 
昭和三一年一二月 風前(九首/二首不文の掟)
 今度来るまでに紫苑も咲かむと言ふ母を裏庭に残して帰る
 警戒の私服に答ふる朝鮮訛り若き女の声にてやさし
 朝鮮語をまじへて語る警官になみゐる君らつられて笑ふ
 朝鮮語と日本語たくみに使ひ分け鋭く光る目を持つひとり
 日本人には出来ぬ仕事をして富むと言ひ放つ朝鮮訛りあらはに
 暗号のやうに朝鮮語をまじへたり一人にて訪ひ来る日の君に似ず
 韓国より帰化せし君らと川をへだて住みゐて互に呼ぶこともなし