[昭和三二年]

昭和三二年一月 淡水(一二首/九首不文の掟)
 夫に来し手紙の幾つを廻送し旅立つ思ひ整へむとす
 魯迅祭を終へて旅立つ夜半の駅滾ちし思ひなほ鎮まらず
 支線に入りて空きたる夜汽車窓ぎはに眠りゐし男不意に起きあがる
 
昭和三二年二月 剥落(八首/三首不文の掟)
 老いの身のいづくより湧くなまめきぞ増の面を著けて立ちゆく
 門閥の誇り捨て得ぬ老いゆゑに再起遅るるさまも見て来つ
 一代限りに絶えなむ芸を惜しむさへ冒瀆のごとく今は思ほゆ
 外したる能面を受けて佇ちつくす舞ひをさめ来し後姿さみし
 遠き国の動乱のなりゆき寂しきに相場のことのみ友ら言ひ合ふ
 
昭和三二年三月 冬土(八首/七首不文の掟)
 手を汚さぬ生き方と言はれ寂しかりきミシン踏みゐてまた思ひ出づ
 
昭和三二年四月 浅春(七首/四首不文の掟)
 姉妹らしき少女が二人手をつなぎ雪踏み固めつつバスを待つ
 さまざまに噂されつつしづかなるわれと思ひて夜の濯ぎ終ふ
 教へ子と思ふ名見ゆる詩の雑誌知らぬ町より送られて来ぬ
 
昭和三二年五月 風塵(七首/五首不文の掟)
 香水の瓶を入れおくオルゴール今朝も鳴らしつつ見繕ひなす
 小心を言はれゐる君酔ひゆきて仮面の紳士とみづからを謂ふ
 
昭和三二年六月 風の中(六首/三首不文の掟)
 入学式に子を連れゆきし使丁の仕事を分担してなごむ今朝の事務室
 ひき返す余力も今は持たぬ身にゆくてをふさぐ海見えて来つ
 もはやわがのがれがたかる思ひして灼けたる岩に掌を当つ
 
昭和三二年七月 雨後(六首/五首不文の掟)
 事務的に事運びつつ身はむなし家財移さむ手配も終へぬ
 
昭和三二年八月 古時計(七首/六首不文の掟)
 新しき幸に赴く日を待つと言はれてよりどなき涙落つ
 
昭和三二年九月 遠き記憶(六首/二首不文の掟)
 読みさしの本の幾冊移り来し部屋にまた積み幾日か過ぐ
 会果ててとり残されし夜の部屋に重み減りゆく如く酔ひくる
 石膏にまみれし手洗ふかたはらに復原成れる埴輪が親し
 土器の破片をさまざまに組み合はせつつ凝りゆかむ思ひ自ら怖る
 
昭和三二年一〇月 秋近く(七首/四首不文の掟)
 母の死を告げてをさなき少女の手紙漁期過ぎし三陸の浜も憶ほゆ
 藩史の空白埋めむてだてと托されて幾夜読みつぐ儒者の日録
 蒼みゆく花浮かべつつ昏るる水愛憎を超えて会はむ日ありや
 
昭和三二年一一月 月かげ(六首/四首不文の掟)
 拠り難き党ならば去れと割切りて言ひたれど今は友も忿らず
 見えがくれしつつ遠ざかる人のかげ月の光を避けて歩むや
 
昭和三二年一二月 危惧(五首/不文の掟)