[昭和五七年]

昭和五七年一月 (無題)(八首/五首印度の果実)
 昼過ぎてまたたどきなく眠りゆく術後熱とぞ聞きて知れども
 雲を見てひと日ありしが山の端はげんげの花の色に染みゆく
 親猫と子猫とむつみゐたるのみ陽ざしあまねき枯れ野を渡る
 
昭和五七年二月 (無題)(七首/三首印度の果実)
 ケニアなど行く日もなくて終らむか縞馬の絵を見をれば思ふ
 いつとなく人に頼れるわれならむ部品の名など覚えてをらず
 新米といふを賜ひぬとぎをればとぎてゐるまにこころしづまる
 ふるさとを同じ北国と知れるのみはだれのやうな雲の湧く日よ
 
昭和五七年三月 (無題)(八首/四首印度の果実)
 点滴の痕を幾つも身に持ちて縛られやすく日々が過ぎゆく
 浮世絵の波の色よりなほ青く幾年も見ぬ海がひろがる
 横顔のまま歩み去る像ならむ髪の飾りの羽毛が白し
 言ひつのる口もとを見てゐたりしが次第にわれの戦意失ふ
 
昭和五七年四月 (無題)(七首/二首印度の果実)
 似かよへる顔を探して何にならむ石仏はみな雪をかづける
 旅先の雪に作れる雪うさぎ庭石にのせて別れ来にけり
 白梅は咲き終りたれ福寿草のつぼみ二粒いまだ開かぬ
 黄の花の多き季節よ人は去りまばらに墓の取り残されぬ
 花も葉も夜は閉ざすとふ草の名を数へあぐみてなほ眠られぬ
 
昭和五七年五月 (無題)(七首/一首印度の果実)
 ゆるやかに鰭をゆらして魚のゐるけはひと思ひ夜半を醒めゐつ
 しはぶける一人まじへて幾人か坂のぼりゆく夜の人声
 夜の鳥のかすかに鳴きて過ぎしあと家のめぐりのしづまり返る
 いまだ見ぬうすずみ桜思ひゐてわが目の前のふとくらみたり
 わが住むは平野のもなかくれがたに見ゆるのみなる何山ならむ
 われの道蝶の道目に見えねども古地図に江戸の街路ととのふ
 
昭和五七年六月 (無題)(七首)
 しろじろと煙ひろげて朝より川の向かうは何をか燃やす
 絵本見てゐたる児の忘れゆきにけむ玩具の鳥を誰かの鳴かす
 稚魚あまた一夜に死して水面に散りたる花のごとく浮かべる
 人の持つ習ひに似むかかたまりてやがて散りゆく魚を見てゐし
 釣り人の老いたる見れば亡き父の釣り竿などのいかになりけむ
 いつの日の逢ひとも知れず石仏の肩に夕陽の届きてゐたる
 つね仰ぐ欅の木ぬれて宿り木の黒きかたまりなす夕まぐれ
 
昭和五七年七月 (無題)(五首)
 しろじろと峡の桜は照りてゐむ相見にし夜の月を忘れず
 死の日まで黒きままなる猫ならむひんやり夜のかたはらを過ぐ
 いはれなきことも言はれてゐるならむ声こぼしつつ鳥渡るなり
 今日のわれには地上も奈落飾り皿に祀られてゐきマリアの像は
 ヒロインの異国へのがるる場面にて船腹を打つ波の荒れたり
 
昭和五七年八月 (無題)(五首)
 幾つものトンネルを抜けて旅ゆけば改まる如しわれの思ひも
 しろじろと谷のへに咲く何の花と見分かぬ速度に汽車は過ぎゆく
 未だ雪の残れる木の間山神をおろしまつると里人の寄る
 山あひの棚田のほとり木造の小さき校舎ありてしづもる
 能登の浦は夕凪のとき遠く来て人に負ひたる傷も癒えむか
 
昭和五七年九月 (無題)(五首/二首印度の果実)
 旅人と何か変はらむ血縁のひとりさへなき故郷に泊てて
 堂深く窓の明りに仰ぎ来し十一面観音は目とぢても見ゆ
 若草いろのデミタスカップ旅先に妹のありし日をまた思ふ
 
昭和五七年一〇月 (無題)(五首/二首印度の果実)
 くろぐろと森の芯より暮れそめてきらめく如きひぐらしのこゑ
 目の下に短き橋のかかりゐて身ぶりさまざまに人の行き交ふ
 ゆで玉子をむきつつあれば指先のいつしか荒れて秋は来向かふ
 
昭和五七年一一月 (無題)(五首/二首印度の果実)
 夜に入りて雨呼ぶ風のはげしきに門火も焚かで送りまつりぬ
 肩のへのまろやかにしてつめたけれ花を捨てたる壺を拭へば
 野菜籠をさげて歩めば主婦の顔に見ゆるならむか日傘のなかに
 
昭和五七年一二月 (無題)(五首)
 香水の匂ふ石鹸あわだてて勤めを持たぬ朝のしづけさ
 むらさきに片照る山よ秋づきて雲のかたちのやさしくなりぬ
 ふるさとに夜泣き石とふ岩ありき思ひ出づるは霧の夜ばかり
 傍らにありにしものを鳥などの飛びたつやうにわれを去りにき
 眠られぬ夜とまたならむ柩に入れし手毬の色のよみがへり来て