[昭和五九年]

昭和五九年一月 (無題)(五首)
 傾きて立つ松林秋の海の風見の羽根はすぐひるがへる
 熱気球は忽ち遠くゴンドラに振るハンカチのひらひらも消ゆ
 返り咲くはまなすの花見て来しにやいばの如く光る波寄す
 砂山を降りてほどきて体温よりかなり冷たき手と思ひたり
 吊り革に男の立ちて夕凪の海の見えゐし視界ふさがる
 
昭和五九年二月(木俣修追悼號) (無題)(五首)
 先生のいまさぬ思ふ仙台の駄菓子のねぢり折りてはみつつ
 早馬を駆りてゆきなば何を見むサラブレッドは目の前を過ぐ
 人形の斬られてがばと打ち伏せばいづこかわれの関節ゆるむ
 石鹸の匂ひのあらぬ石鹸もこころもとなし今朝の寝醒めに
 結論のまろびて出づることなきか瞼の重き日の続きをり
 
昭和五九年三月 (無題)(五首/一首印度の果実)
 ナレーションの絶えし画面に音もなく噴水三基もりあがりゐつ
 方向音痴のままに終らむひと世とも見知らぬ坂を従きて登れり
 持ちあがらぬ大き袋は何なりし何を運びゐし夢かと思ふ
 目分量の塩を掴みて振りゆくにしなふは菜ともわれとも知らず
 
昭和五九年四月 (無題)(五首)
 道の上に不意に日ざしの濃くなりて鈴懸の木の影を踏みゆく
 持ち時間幾何われに残れるやハングライダーを飛ばす若きら
 春の日は傾きそめてゆるやかに弧を描きつつ波の引きゆく
 土手の上を駆けゐる子らの影絵なす一時ありて海暮れむとす
 バスの来てその儘乗りて行きにしが真顔に何を告げむとしたる
 
昭和五九年五月 (無題)(五首/一首印度の果実)
 東京の空にひばりのあがる見て電車は王子の駅に入りたり
 いくたりを見送りにけむ遍路して果てむ願ひのよぎることあり
 十四年ゐたる犬なり今会はば生きてゐし日のままになつくや
 しづかなる夜となりたり届きたる大判の辞書を机に置きて
 
昭和五九年六月 (無題)(五首/一首印度の果実)
 うづもるる思ひにをればテレビの中の陽明門にも雪降りしきる
 夕焼けを見むと二階の戸を繰れば川原を埋めし雪も染まれる
 遠景に相争へるさま見えてそのまま雪にくづほれゆけり
 かなしみの漸く過ぎてしづけきに前触れもなくまた何が来む
 
昭和五九年七月 (無題)(五首)
 つらなれる古墳の丘は稜線のけばだつさまに芽ぶきそめたり
 桐の実の鳴ることもなく立つ見ればあはく渦なす思ひも過ぎぬ
 植ゑぬ田のかたちに芦の枯れ残る広野の道をバスにゆれゆく
 病むことは何もせぬことたゆたひて繭なす雲を窓に見てゐる
 駅前に駐在所ありてふるさとは雪解の水のささらぐころか
 
昭和五九年八月 (無題)(五首)
 風邪に寝て一日をあれば知らざりし日中の音のくさぐさ聞こゆ
 黒豆を煮て浮く灰汁をすくひつつすくひ切れざる澱もあるべし
 好奇心の強き子と言はれ育ちにき日に幾たびも辞書を引き寄す
 こみあへる葉をぬきんでし著莪の花紫と黄のまだらがあはし
 乱るるはわが言の葉よ噴水の風に吹かれてひろがりやまず
 
昭和五九年九月 (無題)(五首)
 幾月か空き家となりてゐし軒に風鈴吊られうれしげに鳴る
 ユツカ蘭のまだ珍しきころなりき移り住みたる大宮に見き
 夕焼けに染まるガラスを見てをればつくねんとわれは黒き塊
 背後より襲ふがごとくかたはらをすりぬけて行きし無灯自転車
 呼びとめて何ひさぎゐし人の影ビルのあはひに吸はれてゆけり
 
昭和五九年十月 (無題)(五首)
 リラの雨くちなしの雨と過ぎゆきていま軒を打つ夕立の雨
 気にかかりゐたりしが今朝の外電は事故によるとふ死因を伝ふ
 つねよりも大きく見ゆる路線バス暗き顔のみ乗せてとまれる
 一滴の黄の除光液たちまちにコットンに吸はれてまるく広がる
 マニキュアをしをれば不意に騒立ちて時雨の音の窓を過ぎゆく
 
昭和五九年十一月 (無題)(五首)
 かなしみの身に添ふごとし夜の更けて盆燈籠を組み立てをれば
 眠られぬ病を持ちてコーヒーも紅茶のたぐひもいつしか飲まず
 行き止りに幾度も出会ふ夢なりき最後は如何になりしや知れず
 砂利はじく音をあらはに人声の絶えししじまを自転車行けり
 気のつけば指輪ゆるめる薬指思ひ痩せつつ夏過ぎむとす
 
昭和五九年十二月 (無題)(五首/一首印度の果実)
 病みをれば思はぬいとまの湧く如しモーツアルトをFMに聴く
 うす味の食事にも慣れてゆくらむか心もとなきことばかりなる
 ゆるみゐるコートの釦そのままに出で来て遠しバスまでの道
 ちぎり絵を始むと言へり捗りてたのしからむとわれさへ思ふ