昭和六〇年一月 (無題)(一〇首)
幾千と知れぬ水鳥浮かびゐて四方八方鳴き声あがる
褐色にくぐまりゐしは何の鳥水をたたきて飛びたちゆけり
すきとほる翅などの背につきゐずや尾花のそよぐ道となりつつ
風景のぐらりと傾ぎ今われは堪へむとしをり野火の報いに
いくたびもシテの如くに立ち戻り舞ひて嘆かむ袖さへ持たず
シエーカーも使はずなりて久しけれ珈琲カップの奥にひそまる
帰りくる手負ひの獣を待つ如き夜々なりにしが過ぎてはるけし
鉛筆の軸にわが名を刻みゐき傷つかむ日のありとも知らず
吸ひ殻を溜めたるのみに夜の更けて雨にまじれる蟋蟀のこゑ
一つづついのちを持つといふ繭の一つにあらむわれのひと生は
昭和六〇年二月 (無題)(五首)
拾ひものをせし如き今日の暖かさトルコ桔梗はみな開きたり
上空は風あるならむ音立てて木の実降りつぐ落ち葉の上に
真っ黒の牡牛は目のみ光らせてにれがみゐたり油彩のなかに
所在なくバス待ちをればたかむらは風のまにまに透きて明るむ
うす皮を一枚一枚剥ぎゆきて何に到らむわれとも知らず
昭和六〇年三月 (無題)(五首)
刻印を打たれし材木積まれをり小さき駅舎を出でて来つれば
ゑのころ草吹かれゐるのみ石仏はすでに祠におはさずといふ
欄干は鉄のつめたき手を打ちて呼べば寄り来る鯉ありにけり
棕櫚縄の切り口未だ新しき筧と見つつ木戸よりの道
さまざまの花押を繰りて見てゐしが滅びて人の残すかたちよ
昭和六〇年四月 (無題)(五首)
漂ひてゐし夢のなか去るものは声も立てずに身をひるがへす
のがれ得ぬ罠にかかれるわれならむ結果はたちまち原因をなす
あきらめて眼鏡拭きをれば点かざりし蛍光灯の音してともる
いづこよりうつされて来し風邪ならむ臘梅の花も匂はずなりぬ
救はるる魂をわが持たざれば十日病みたる顔をとがらす
昭和六〇年五月 (無題)(五首)
強がりを言ひて来にしがネックレスはづせる襟のときのま涼し
忘れゐし記憶を呼びて飴いろに古りたる竹の物差が出づ
霧吹きて根元うるほす朝々にシンビジュームは絹のつや持つ
工務店近くにあればチェーンソーの音にも馴れて十五年経ぬ
鶴を見む旅も果たさで終わらむか春めきて来し夕映え仰ぐ
昭和六〇年六月 (無題)(五首)
雪吊りの松を見にしは五年前今日ひとり来て風を見てゐる
大鳥居すぎて露天の土産屋につるされしものこもごもに鳴る
聞き覚えある声なりし誰なりし松の手入れをしてゐし人は
存在が存在を狭めゐるごとく揉みあへる木々夜目にすさまじ
エレベーターのドア開かれて結束を解かれし如く人の出でくる
昭和六〇年七月 (無題)(五首)
石の礫のとびくるなかにゐたりしが何事もあらず夢より覚めて
棕梠の花も見慣れて今は驚かず北国に住みゐて知らざりし花
鍵しめて出づる習ひのふと寂し通りまで人を送らむとして
保育園の終わる時間か子どもらは紙の兜をかぶりて出で来
駅員の駆け寄るさまを見しのみに何の事故とも知らず発ち来ぬ
昭和六〇年八月 (無題)(五首)
丘の上にまばらに墓を置くのみに人影もなし青麦の野は
山の子栗鼠も殖えてゐるとぞこの町のリラは紫の花を盛り上ぐ
発車までの時間いくばく望遠鏡にとらへし鳶をどこまでも追ふ
なきがらの浮かぬ水深と言ひゐしがバックミラーに切岸は見ゆ
まどろみて津波の夢を見てゐたり湾岸道路を行くバスのなか
昭和六〇年九月 (無題)(五首)
かつて聞き忘れてゐたる噂なれ翳ふかめをり今日また聞けば
ひとりひとりの渚に帰りて眠るならむ笑ひ転げてゐる少女らも
瑠璃揚羽の縺れて飛べる見しのみにくるぶし濡らし畦道をゆく
農業の不安伝へてこの春はてふてふのいたく少なしといふ
大仰な広告のなかに誤植一つ見出でしのみに夕刊を閉づ
昭和六〇年一〇月 (無題)(五首)
くるりくるり日傘回して行きにしは在りしながらの妹ならむ
レッカー車の到着を待つ作業衣の二人所在なく芝生を踏めり
防虫剤を入れ足ししのみ抽斗に詰まれるものをそのままにして
結論を急がざらむと決めゐるにはやる思ひのをりをりきざす
運命といそしむ夜毎寝て覚めて地獄の底にゐるやも知れず
昭和六〇年一一月 (無題)(五首)
落し穴のやうな裂け目のある道と知りゐる足のおのづ右向く
ロビンソン風速計と謂ふのならむゴルフ場に低く椀が回れり
T型定規当てて図面を引きゐしが人を呼びたりののしるごとく
マンションの廊下ひそまり不意に誰か出でて来さうな扉が並ぶ
消幕の如きが目の前にかざされて隠されしものの何とも知れず
昭和六〇年一二月 (無題)(五首)
夢に見て教師のころを思ひたり黒板は背に大きかりけり
紙一枚へだてし砂鉄磁石もてあやつりゐしは幾つのころか
口数少なく座にありにしが最後までをりて茶托を重ねくれたり
川岸の虎杖も芦も枯れ伏して見通しのきくカーブとなりぬ
眼底に異常ありとふ右の目を閉ぢむに左の目も閉ぢゐたり