昭和六二年一月 (無題)(五首)
先々の思ひとめどなくありにしが立ちあがりたり雨戸締めむと
新字体といふに慣れつつ元の字を書きて試して雨の夜をゐつ
纜といふ文字鞴といふ文字を覚えゐしこと幸ひに似る
父の日も母の日も縁なく過ぎてわれにめぐりて来る忌の日あり
葉の重さ花の重さを束にして持てば詣でむこころととのふ
昭和六二年二月 (無題)(五首)
おもかげを時に呼びつつ賀状もてつなぐ程よきへだたりならむ
郵便の束ほどきつつ「不幸の手紙」届かずなりて幾年経けむ
終点の駅を出で来て時じくの雨に濡れたりコートの裾は
人間の持つぬくもりを思はせて冬は湯気たつ夜の多き川
何を運ぶ夢にありしや両の手にずんずん重くなるもの提げて
昭和六二年三月 (無題)(五首)
戦争をまだ知らざりき凍土といふ語を教はりし童女のころは
しみじみと父を悼みてをりにしが夢のなかにも雪が降りゐき
手袋を入れて膨らむポケットをそのまま今日はどこまで行けむ
土を掻きてゐたりし凧も舞ひあがり中空深く音さへ立てず
人工の滝は鳴りゐてわが待てるピザトーストはいづち行きけむ
昭和六二年四月 (無題)(五首)
その大き手が見えて来ぬ宝石を鷲掴みにして行けりと聞けば
ヘルメットに顔を覆ひてまなこのみ光りゐたりと人づてに聞く
表の日裏の日われにあるごとし温室のなかは冬の薔薇咲く
城塞のごときマンション暮れむとし六日ほどなる月を揚げたり
レストランの建ち並ぶアーケード街鈴蘭通りといまだに呼べり
昭和六二年五月 (無題)(五首)
雪のまま暮れむとしゐて点りたる向かひの店の蜜柑もおぼろ
奪はるる子とて無けれど恐ろしき大き手思ふ疾風吹く夜は
冴えざえとありし椿も紅褪せて酸化を急ぐものばかりなる
川岸のうるほひのなかほつほつと芽ぶきて高し銀杏並木は
たちまちに仕事まみれにならむとも帰りゆく家のある幸ひよ
昭和六二年六月 (無題)(五首)
亡き父の忌の日と知るはわれひとり積もらぬ春の雪を見てゐる
白梅のこまかくふるふ枝見えて木の葉は風の速さに飛べり
白梅に紅梅まじるしづけさに絵馬のうさぎは一羽づつゐる
お守りの細き指輪をそのままに朝摘みを賜びし苺を洗ふ
脇に置く本がはためく感じにて落ち着きのなくひと夜ををりぬ
昭和六二年七月 (無題)(五首)
目の前の踏切といふはいつにても危ふし電車の通り切るまで
左手に供華のストック持ち替へて久々に押す井戸のポンプを
幸運の手相といへど今朝見れば皺だらけなるわがたなごころ
紙屑か何かのやうに散りしけり白木蓮は大き花ゆゑ
屋上の駐車場に街を見おろして高所恐怖症なりし先生思ふ
昭和六二年八月 (無題)(五首)
町へ出づる通りすがりに人のゐて棕櫚の落花の黄の粒を掃く
桐は桐の高さに花を掲げゐて三日目の今朝は酸き匂ひせり
用水と今は呼べども西の田も東の田もみな夏草の原
編隊の飛行機なればふり仰ぐクローバーの原に散らばる児らも
洗ひたる髪にドライヤーを当てをれば何か不吉に待たるる如し
昭和六二年九月 (無題)(五首)
二十年へだてて町に今日会へばうすむらさきの似合ふよはひよ
隣室は外人の男女幾人か通訳もゐてざわざわとせり
服薬のあと口にがくありにしが午後の人ごみに紛れ来にけり
見て佇てるわれに気づきし少女らは声を大きく縄を回しぬ
まちまちの向きに手を伸べゐたりしが園児の踊りも漸くそろふ
昭和六二年一〇月 (無題)(五首)
身のうちに泉の湧くといふこともなくてふくらむ紫陽花の青
たんぽぽの堤も梅雨の雨のなか濡れて飛び得ぬ穂綿もあらむ
水面に黄みどり色を突き立てて睡蓮は未だつぼみを解かず
咲き出でて間なきくちなし外側にすでに錆びゐる花びらが見ゆ
咲き闌けしアメリカ芙蓉くれなゐの大き花ゆゑ風に裂かるる
昭和六二年一一月 (無題)(五首)
折り目よりうすれし地図に道切れていづこと知れず貝塚の跡
箱詰めの大き荷が運び込まれたる洋館ありてしづまりかへる
口笛を吹きて呼ばれしメアリとは異人をとめの犬の名ならむ
円陣を組むなかにつねにゐたりしがいかにかあらむ引退の野手
投手戦は敗れたれども球場に出てゐし望の月見むと立つ
昭和六二年一二月 (無題)(五首)
葉の黒くなりし欅にひそみゐてなめらかならず今朝啼く鳩は
蒸し暑きひと日とならむ薬湯の匂ひはタイルにまだ残りゐて
いろは順五十音順年の順何の順にか縛られて生く
いつのまに片側かげりかすかなる重さに垂れて風船かつら
夕餉のあとの食器を水に沈めゐて屈折率をはかる遊びす