[昭和六三年]

昭和六三年一月 (無題)(五首)
 方舟のごとくに島を離れゆく大きく白き船ありにけり
 後退を続くるトラックにゆすられて角の家なるわが家危ふし
 二カップの米研ぐ水を濁しゐて今日といふ日もたちまちくらむ
 ふさぎの虫もやうやく去りて出でくればみ冬の菊は細々と咲く
 買ふあてもなくて図鑑を繰りをれば野鳥らはみなまなこ鋭し
 
昭和六三年二月 (無題)(五首)
 斜めより日の射して来て用心に汲み置く水も冷たくなりぬ
 北国の冬を思へば暗然と矢をつがへたる案山子立ちゐき
 葡萄園も今はひそまり枯れがれのゑのころぐさが扉を蔽ふ
 箒目の寒く残れる道を来て思はぬときに溜め息が出づ
 顎埋めてゐたりし犬の起きあがり声を試すが如くに啼けり
 
昭和六三年三月 (無題)(五首)
 歳の市の雑踏を来ぬむづかれる幼子の手を引くこともなく
 帰りこむ人のあらねば常夜灯の幅にはららく雪を見てゐる
 上級生の一人を庫裏に訪ひゆきし雪の当麻の記憶も古りぬ
 急ブレーキ踏む音の遠く聞こゆれば人里を離れて住めるが如し
 ストーブをつけてまた消し自らに答への出づるさびしさ
 
昭和六三年四月 (無題)(五首)
 おくれ毛を吹く風寒く帰り来て消残る雪は不定形なす
 制限の増えし食事と思へども胡麻炒りをれば香りひろがる
 転校のかなしみも知らで育ちしとテレビのドラマ見をれば思ふ
 有様(ありやう)はほとけといふに遠くしてをりをり夢にくる家族たち
 五分計の古りし検温器振り下げて低き平熱は幼き日より
 
昭和六三年五月 (無題)(五首)
 偶然とも故意とも知れず紅梅のひと木まじれり白梅園に
 僧形のひとりと道にすれ違ひそのおもかげのさだかにあらず
 遠くより見られてゐたり水差して吸ひ殻を消す一部始終を
 回り道でもして会ひに行く如し郵便番号を調べてをれば
 幾日経て届く賀状の追ひ書きに浜水仙は咲きそめしとぞ
 
昭和六三年六月 (無題)(五首)
 たひらかに夕べをあらむ山の端に虹を残して雨もあがりぬ
 それぞれにところを得たるものの音子を叱る声遠くのピアノ
 しんとしてありたきものをエアコンの風に毛先の乱され易し
 適温の湯となりて出でてくるを待つ数秒間を吝しむことあり
 キュラソーの古りしボトルが出でて来て片付の手のまた滞る
 
昭和六三年七月 (無題)(五首)
 青々と芽ぶく柳のかたはらに手を垂れをればわれさへそよぐ
 幼くて見し日より経し幾代ぞ神域は今も鶏を飼ふ
 病むことは何もせぬこと東京のドーム球場賑はふといふ
 思はざる粗き音させ夕食ののちの薬を配るワゴン車
 終夜営業のマートが近くにあることも拠所の如し眠られずゐて
 
昭和六三年八月 (無題)(五首)
 素人の手品といへど振り上げし杖の先より薔薇生まれたり
 放鳥の美しかりしことを言ふ喪の旅を終へて帰れる人は
 騒擾を悦ぶとにはあらねどもモデルシップは帆を巻きしまま
 電文のややかすれゐて名指されしオオニシタミコ実在せりや
 前かがみに歩みいましし晩年の先生を思ふいつまた会へむ
 
昭和六三年九月 (無題)(五首)
 目に見えぬ天蓋ありて阻まれてそれ以上あがらず噴水の穂は
 左手の痺るる日にて君が代蘭と書かれしユッカの花を見てゐし
 人差し指を立てて何をか示したり男の世界に人は生きゐて
 三四人の声うちまじり過ぎゆけりなかの女性のうら若き声
 春ふけて密度濃くせる森が見ゆ横縞なして風に揺れつつ
 
昭和六三年一〇月 (無題)(五首)
 風によぢれし花びらももとに戻りゐて朝顔は藍の輪を広げたり
 翻車魚のごときが夢に見えゐしが体が軽くなりて目をあく
 黄の花が波だつといふ高原のひまはり畑見む日もあれよ
 縮尺に合はせて地図を測りゐてわれには遠しいづこの山も
 岩礁に乗り上げでもしたやうなひと日なりしがそのまま暮れぬ
 
昭和六三年一一月 (無題)(五首)
 看護婦のゆきかひもいつとなく絶えてどの川となく耳元に鳴る
 病室にまた朝は来て谷川に見たる氷の青かりしこと
 車にて五合目までは行けるとぞ足に踏みたし五合目の石塊
 夏休みも終りに近し子供らは路上に出でて遊ばずなりぬ
 夢見たることもあへなしずぶ濡れになりて走りて何処へ行きし
 
昭和六三年一二月 (無題)(五首)
 かすみ草しろじろと湧く玄関に履けなくなりしハイヒール置く
 聴覚の鋭きひと日夕まけて遠き林の蝉が音聞こゆ
 地に満つるこほろぎの声墨流しの雲を刷きたり夕べの空は
 幼くて見し夜祭りのみ社は森ごとともし賑はひてゐき
 カテーテルの検査を待ちて何事もなき日がわれを流れゆくなり