昭和六四年一月(平成元年一月) (無題)(五首)
地謡のうたひて成せる空間に鬼気のごときがせりあがりくる
駐車場の闇深きなか車より降りて木枯らし二号に巻かる
榾の束をほどきては炉にくべくるる祖父を訪ひしは五十年前
孫といふやはらかきもの抱かしめず送りし父母を不意に悲しむ
野球して遊ぶ医師らのはずむ声聞こえずなりぬ日の詰まり来て
平成元年二月 (無題)(五首)
数殖えし鴉の鳴きて秋毎の威し銃など今年は聞かず
倒れしは二、三日前忽ちにペースメーカーを埋められしとぞ
夜の庭の闇の深さをきはだてて宙に浮くごとし残菊の黄は
腑に落ちぬ一語なりしが夕まけて炊かねばならぬ飯思ひ出づ
夜に及ぶ工事の音はわづらはし昼よりはひびく電気鉋も
平成元年三月 (無題)(五首)
ダムになる村里に人の影なくて置き去りの猫が啼きてゐしとぞ
傘なしてゑんじゆ白花咲きゐしが冬はバスさへかよはずといふ
満員の電車のいづこ火のつきし如くにまこと泣けるみどりご
いつ癒ゆる人とも知れずむかへれば筆談の文字乱れてゆけり
遠ければただにきらめき金属の音を立てゐるごとき夕波
平成元年四月 (無題)(五首)挿し替え
開場を待つ列にゐてヒロインのごとき少女がわれに手を振る
下山せぬ人のありとぞ夕ぐれの余光のなかに甲武信岳見ゆ
片栗を探さむと行く草のなか胴つぶれたる空き缶まろぶ
田の畦のすずめのゑんどうこまごまと絽刺しの如き花を綴れる
伝令といへるがありてましぐらに走り去りにき夜霧のなかを
平成元年五月 (無題)(五首)
北東の鬼門出づれば川岸ははやさみどりの土手となりゐる
たんぽぽの黄の一輪は舌状の花びらあまた寄せて咲き出づ
桐の花の匂へるころを見ず過ぎて指ひろげゐる枯れ木を仰ぐ
男性が弾けば男性の音となり津軽三味線十人そろふ
約束を違へて雨が降り出づと言ふ母なりき五十年過ぐ
平成元年六月 (無題)(五首)
一枚の水の矩形も光りゐて冬のあひだは魚を飼ふとぞ
流離の思ひの不意に兆しつつコインランドリーの前を過ぎたり
冬越して今日見る夕日武蔵野の雑木林のかなたに沈む
帰巣性といふを習ひて何がなし少女ははかなき思ひ持ちにき
時経れば思はぬかたに飛び火してゆける噂の経路も見え来
平成元年七月 (無題)(五首)
三階の窓に見をれば行列の後尾ほどけて人波のなか
子供連れもあまたまじりて病院の受付は市のごとく賑はふ
臘梅の花びらが更に薄しとぞ山茱萸と決めて垣を離るる
花粉症は苦しと聞けど朝明より風のさわだつ弥生の十日
こののちを何に癒やされゆくわれか曇り帯び易し珊瑚の粒は
平成元年八月 (無題)(五首)
ポストまで行きて戻るに摘み草の位置も移さず二人まだゐる
菜の花が剥がれて飛びて来しごとき黄の蝶はまた花にまぎれぬ
竹林の根締めの著莪の咲きそろひ裾をとりまくほのじろき花
ほんものの郭公の声を聞きたりと少女ら言へり旅を終へ来て
送り来て部屋に戻ればテーブルにこぼれて光るグラニュー糖は
平成元年九月 (無題)(五首)
ONとOFFの表示のみなる器具幾つ使ひ馴れつつ厨ごとする
どこか遠くに置きて来にけり屈りて火をおこしゐし幸せなども
竜宮と謂へる楽園ありにけり彼方に深く見えてゐにけり
眠らねばならぬ時刻となりてをり明日のことは何も知らねど
浅間嶺の麓の村のいづこにか「草笛」と呼ぶ地酒ありとぞ
平成元年一〇月 (無題)(五首)
しづかなる園にのみ実は生るといふ穂先すぼめて南天の花
風のなか野を歩む日はいつならむ夏の帽子を久しく買はず
ゆきずりの窓より洩るる灯あかりにダチュラの花を叩く夜の雨
睡眠薬の効きくる待ちて起きてゐる余白のごとき時間のあはれ
くらがりにうすく目をあけ西域のおもかげにいます観音像は
平成元年一一月 (無題)(五首)
越して行きまた越して来て新しき人の吊りたる風鈴が鳴る
ロシア名ユジノサハリンスク豊原と呼びて習ひしことも遙けし
花火焚く何か危ふきくらがりをよろこぶ子らかささめきあひて
夜の更けに広くともして芝生よりゴルフボールを集むる仕事
朝市の帰りに人の提げて持つ三尺ほどは何の苗木か
平成元年一二月 (無題)(五首)
背伸びして人は叫べり拾ひものの小さき扇子開きて見せて
流灯につられてわれも行きにしか足もと暗く立ちあがりたり
登校の子らが通りて散らばりてしまひぬ梔子の花の匂ひは
木枯らしの如くに音のする日ありクーラーだのみに身を養ふに
迷走の台風が海にありといふいたくしづかにここは雨降る