平成三年一月 (無題)(五首)
花の日を知らずに過ぎて道のべの灌木は赤き実を綴りたり
いつのまに貝の風鈴も仕舞はれて風の音せぬ夜毎となりぬ
初めての人と出会ひし咄嗟にもことばやさしき女性でゐたし
たれもみな百五十糎ほどの身長かわれのコートを順に着て見て
幼くて読みし「放浪記」「蟹工船」翳りとなりてひと世残らむ
平成三年二月 (無題)(五首)
緋のいろのかたまりが水に映る見て近づきてゆく黄櫨の紅葉に
あこがれて言へどコスモス街道は車を降りて距離のありとぞ
島々を飛び石として渡るとふ渡りの鳥の羨しき日あり
何に対ふ構へなりしや小さき手に雪のつぶてをひしと握りて
蕁麻の四角の茎も木のやうに固くなりゐて年越さむとす
平成三年三月 (無題)(五首)
灰皿に燃やしてゐしは何ならむ途中より見し推理ドラマに
特攻の死者のごとくに次々に顔の出でくる画面なりけり
右折して海に出でたき夢なりき北へ直進しゆく車中に
音も無く舞ひおりて来て幾ひらか殊に大きく牡丹雪降る
途中からどうでもよくなりて眠りたり百人一首の五十ほど来て
平成三年四月 (無題)(五首)
夢にさへひとり置かれて不可思議の何の匂ひかたちてゐにけり
父母祖父母押しよせて来ぬ誰に似るわが筆蹟と思ひてをれば
遅くなるなどと電話に告げてくる誰もなきままひとりの夕餉
カーネーションあまた活けつつ玄関に嬰児の靴を置く事も無き
置時計が送られて来ぬ新聞にも載らぬ小さき賞を賜ひて
平成三年五月 (無題)(五首/一首光たばねて)
もう一人乗客を足して発ちゆけり風寒き夜の終車のバスは
つぎつぎに咲くにもあらで冬の薔薇たつた二輪の黄の色ともす
自転車をたてかけてある赤松のざらざらの幹を見て通り来ぬ
秘めておくほどならねども使はずに古りてわが持つ天目茶碗
平成三年六月 (無題)(五首/一首光たばねて)
金粉の羊小さく刷られゐる賀状ふたたび見てより蔵ふ
流氷のかなたより月ものぼるとぞさすらひびとの思ひに聞けり
再び三たび翼を振りて去りゆける鶴とし聞けばあはれは尽きず
わけもなく笑ひ崩れてエープリルフールなどありき少女の頃は
平成三年七月 (無題)(五首)
まつすぐに定規をあてて描きしよ海の入り日は見たることなく
立ちどまるともなくショールかけ直し人は去りたり記憶の奥へ
わたつみをこえゆく力無き鳥にどうしてやれむくくと鳴きゐて
中東の争乱のまに過ぎしかなイメルダ夫人の靴のうはさも
人知れぬ好意にあらむ二ヶ月の嬰児抱き来て見せてくれしは
平成三年八月 (無題)(五首)
海峡をこえて蝦夷地に入りしとぞ桜前線桃いろの渦
ぼんぼりもその夜のうちにはづされて闇に戻れり桜の森は
本当の救急車かと思ひたりとなりの部屋にプレスしてゐて
いづことも水は見えねど川止めの続きて賑はふ宿場町あり
四月一日・微風・真昼間虚を衝きてマンションの窓に鯉幟立つ
平成三年九月 (無題)(五首)
禾本科と教はりし日ははるかにてまざまざと麦は芒を尖らす
水を得るといふ言葉あり水を得て泳ぎ回りしことなどありや
殉死とふことのありにし古へを思ひて来ればかなかなの声
XデーKデーなどとぼかしつつ畏れて人の言ひたるならむ
踊りつつ町をめぐれる花笠は夜の更くるままに増えてゆくとぞ
平成三年一〇月 (無題)(五首)
うす青き羽根の扇風機持ち出しぬとなりの部屋を使はむとして
中山道と今は呼べども徐行してバスのやうやく通る道なり
おもだかの陰より出づる二匹目の水澄ましゐて土いろの沼
川幅の三分の一ほどの簗なるに次々に鮎は来てひるがへる
異国人の父と子の凧よく揚がりよろこび合へり何か叫びて
平成三年一一月 (無題)(五首)
亀甲の紋様を帯に選びたる母の願ひにいよいよ遠し
生きて又会ふ日の無しとタヒチまで蝕を見むため人は出で発つ
国富論・アダムスミスを思ひ出すところまで行き昨夜は眠りし
潜水艦インデペンデンス迫り来ていきなり船腹が画面を覆ふ
「蜑」といふ字をかなしみて覚えしよ何に悲しき少女なりけむ
平成三年一二月 (無題)(五首)
篝火は燃えさかれども黒衣着て鳥をあつかふ鵜匠のひと世
帰り来ておちつかざりき菓子の名の州浜といふを思ひ出すまで
大き目を選びて送りたまひたる枇杷より一顆抜けば香に立つ
隠密の僧もたどりて行きにけむ葛のおほへるなだりの道は
房のまま南天の実の散る見れば昨夜の嵐のすさまじかりし