[昭和六〇年代]

昭和六〇年二月 壁の絵(一四首/一二首印度の果実)
 鯉口を切られし如く目の前の窓といふ窓は黒く塗られつ
 裏側はのっぺらぼうか薬局の朝鮮人参古びて白し
 
昭和六一年二月 横顔(一四首)
 覚めやらぬままに聞きゐるちび犬を連れ出づるらしき少年のこゑ
 塗り終へて和紙に抑ふる口紅に花の匂ひのしてやさしけれ
 立冬と聞きて出づれば真向ひのステンドグラス黄を輝かす
 もてあそぶといふさびしさに拾ひたる椎の実をしばしもろ手にかこふ
 語らひつつ行ける少女ら歩道橋をのぼらむとして散りぢりになる
 似顔絵をゑがかるることもあらざれば安しと児らの画展見てゆく
 賑はひのなか抜けくれば一室に無人のベットが並びゐにけり
 右半身左半身少しづつずれて近づく鏡のわれに
 煙草の火移さむとして横顔と横顔が無限に近づきゆけり
 暮れ残る真上の空に浮く雲のしろじろと南米の地図のかたちす
 日ぐれまでかしましかりし箱馬車の玩具もいつか児らは使はず
 幼な子の戻れるけはい間もあらず泣き声あがる隣の家は
 風の夜を怖れつつなほをりをりにさまざまに燃やす火といふものを
 眠らむとして目に来るはいつ見たる前方後円墳の俯瞰図
 
昭和六二年二月 運命論者(一四首)
 透明のグラスにそそぐ桜湯の桜はほのと蕊立てにけり
 落ち葉のみ吹かれてゆきて山茶花のうすくれなゐは黒土のうへ
 亡きあとに得し身軽さもゆふぐれは今に寂しと人の言ふなり
 対岸のくれぐれのなか穂すすきは白くかたまりちぎれ雲なす
 ひとつ飛びの溝と思ひて向きゐしが夢のなかにも膝を庇ひき
 届きたる名簿をしばし繰りをれば次第に運命論者のごとし
 まばらなる桜のもみぢ吹かれゐて太々と黒き幹ありにけり
 油断とは踵を上げて背伸びして何をかのぞき見てゐる背中
 一過性の病と言へり音荒く道をよぎりて電車が行けり
 素手に行く不安に堪へずをんならは袋のたぐひ持つにかあらむ
 自転車のライトは闇を遠ざかりかぜに吹かるる如く揺れゆく
 月の夜は尾のなきものも影曳くと何を恐れて母の言ひけむ
 いくたびの霜にやはらぎ柿落ち葉踏みても音の折れずなりたり
 ゆく末をまた見失ふごとき日に軒を鳴らして狐雨降る
 
昭和六三年二月 波の章(一四首/風の曼陀羅)