[昭和二一年]

昭和二一年一月 近詠より三首 菅野民子名
 白菊のきよらにかをるさま見ても民草吾や涙こぼるゝ
 隣人のもの言ふ聲のきこゆなり日の暮れ近くなりし秋の日
 しみじみと地に夕雨の沁みゆけばわが生きざまもかへりみらるゝ
 
昭和二一年二月 ふるさと八首 菅野民子名
 背負ひゆく土産の重みの身にしみて歸るよろこびうづくが如し
 歸りきて母と對へばいく月を堪へ来しこともはかなかりけり
 母と浴ぶる山家の縁の小春日にゆめの如しもかへり咲くはな
 白髪を梳きまゐらせばはゝそはは鏡の中に目をとぢたまふ
 ふみよむとひとり起きゐるわがそばに母の眠りのひそかなるかも
 時雨すぎてぬれたる花の色冴ゆる菊のま垣を母は指します
 いちづなるねがひひそかに湧くごとしいのち一つを船にゆられて
 殘し來しはゝそはは時をかぞへつゝ吾娘のろ船をわびておはさめ
 
昭和二一年三月 松かさ五首 菅野民子名
 この年の稼ぎ初めとて松かさを拾ひに山へ母と來にけり
 松かさをひろふとて來し寺山や石の佛のひとみさぶしき
 焚きものゝとぼしさはゆめ言はざらむ山の松かさ籠にあふるゝ
 疼く夜の淺き眠りのわが夢をばゆり起すがに地震ふるふなり
 死の豫感身にきびしくも思ほゆるいくたびか夜の夢破られつ
 
昭和二一年四月 春雪五首 菅野民子名
 紅椿のひとつ咲きたる寮園にひそけきかもよ春の淡雪
 ひそやかに花にしみつゝ春雪の消えゆくさまは何にたとへむ
 うすら陽の傾きそめていつのまにかわが籠り居に夕さりにけり
 松かさのひとつひとつに火移るが楽しと言へば母も笑まへり
 窓の灯にはえて夜ふけのぼたん雪ひとつひとつが光りつゝ降る
 
昭和二一年五月 春宵五首 菅野民子名
 ほのぼのと背のぬくみくる道にして少女と吾と黙しゆきたり
 山ひだのあをむかなたのうす雲にほの翳るほどの春の愁あり
 あわあわと漂ふ雲のそのはてに晝の星くづ光りつゝゐる
 現つには咲かぬものをと夢にゆれし白蘭を思ひまた眼をとづる
 日にいくたび鐘を合圖にゆき歸るかゝる世すぎのいつまでならむ
 
昭和二一年七月 春の洋琴五首 菅野民子名
 目をとぢて聞きます母と彈く吾ととけ入る如し春光うらゝに
 奏づれば圓舞曲あくまで華麗なりこのピアノこそ吾を倚らしめ
 みちのくのシャーロックホームズとうたはれし父の臨終の寂しかりけむ
 刑事とふ職にふさはずまなざしのやさしかりしを人も知りをり
 身を捨てゝ盡くすは一人吾のみと嘆きつゝ晩酌をくみゐし父はも
 
昭和二一年八・九月 星座六首 菅野民子名
 かんむり座の星の連なりかそかにて夜空は淡く霧ふふみつゝ
 相ひ觸れて鳴れる木の葉の寂しさや獨りゐる夜を幾日か堪へし
 ある宵は崩れも果てんと思ひ沈めど呆れ人のごと睡り續けつ
 星の座も掟きびしく相ひ思ひ別れて堪ふる世ははかなけり
 きららめく星座夜毎に仰ぎ見て地上の嘆き果つる日のありや
 あくがれて太古の民も仰ぎたる星座無限の夢またたかす