[昭和二四年]

昭和二四年六月 回顧一年五〇首
 目ざめてはつなぐ夢かなかかる時ひくくせつなく春雨の降る
 ふと觸れし君のをゆびの感觸に受けし動揺忘れかねつも
 れんぎやうの花しだれ咲く夕暮れをしだれてなるかわが戀心
 梅一輪背戸に咲きそめ夕されば又ひとつともすわが愛慕の灯
 肉親のきづなあやしくまつはりてわが華やぎを暗からしむる
 わが窓のヒヤシンス匂ふ宵なるを道暗ければ訪う人もなき
 寂しくて花の山仰ぎ地をみつめ夕陽の土手を吾はたどりぬ
 春草のもえて青める山路來て疎林出でし時なみだこぼれたり
 一つ歎きに何たゆたひてあるべきぞ夕陽眞赤く落行きにけり
 ぎりぎりに生きて一日の暮れつかた夕燒け雲は燃えてゐるなり
 わが夫の生くる限りは生き遂げむわが命ここに意義定まりつ
 下枝にほの咲く花も卑下を捨てて眞日に向ひて咲き誇るべし
 靜かなる幸福もある世ならめど波瀾に生くる身を悔いざらむ
 個の嘆き言はざらむとす秋の日の道にこぼるる白萩のはな
 きららめくめをとの星とあらしめむ夫と吾とは勵みあひつつ
 論点は果てなき齟齬をくり返し夜更けて夫も疲れそめしや
 春の夜の更けて明るき灯の下に笑みつつぞ吾ら論じつきなく
 江戸文學に感傷性は無しと言ひありと言ひ張り論果てぬ吾ら
 向つ家の時計は一つ低く鳴り終へて新しき論據を吾は求めつ
 母ひとり遠國にをきて吾と生くる夫はひそかに淋しからずや
 執すれば人はかなしも疑心とふわびし思ひも身に知りそめつ
 いささかの疑心なれどもはかなくて日暮れショパンを奏でてぞみつ
 人と人と相容れがたき性格はすべ無けれども泣く日もありぬ
 幾たびか逆らひては泣く愚かさや妻はもだしてあるべけれども
 この家ゆのがれゆきても今宵よりすがるべく宿す面影もなし
 次々に人を憎しみ昨夜遂に自己嫌惡まで至りつくしき
 自己嫌惡よりぬけ出でなむと身悶えて眠れざりけり昨夜は夜すがら
 憤り烈しき時にふと見たる夫のひとみの悲しみの翳
 憤り烈しかりしがいつのまか外の面は青き月夜となりぬ
 愛隣の思ひ烈しき極まりに夫はげきして吾をなじるか
 音もなくはぐくみ居らむ童身をみごもるに貧しき母なり吾は
 すべもなく涙せし朝のくりやべにひそかに覺えし胎動あはれ
 激痛の呻きのまにも期して待つうぶごゑは無し遂に無かりき
 相ともに生きがたかりし宿業に母を地上におきて逝きしか
 現し世の乳の香一つ吸はずして寂しからずや吾兒のくちびる
 若き父がひそかに吾兒にだかせやる赤き人形も吾を泣かしむ
 さびさびと墓山みちをゆくならむ吾兒の柩に雪よかかるな
 白衣着て淺く埋もれて墓山の吾兒寒からむと今宵寝らえず
 夫に似し吾兒逝かしめてぼつ然と吾にめざめし母性ぞあはれ
 父と母の夢なりがたき現し世を超えて吾兒は天がけりしか
 病める日の窓はいつしか暮れそめて目あけては又閉づる思ひよ
 まぼろしの君のかひなの虚しさに幾たびさめて吾やをののく
 病み衰へし乳房かなしくふるへつつ燃えつつ今宵君によりける
 身もたまも燃えて今宵を待ちにける病み妻吾や抱かれて泣く
 骨ばみし肩のへを君にさはらせてをんな心はうれしさに泣く
 重症三月よくぞ生き堪へしわが身よと春日あぶれば涙流るる
 癒えそめの心楽しも野に出でゝ若菜つみつつ今日はひねもす
 みづ色の羽織着て君と歩む思ひに春の氣流のゆらめく日かも
 しのびやかな夜の氣流よ夫と吾と相寄る低き灯のゆれにけり
 夕ぐれは生くる戰ひもしばしやめて赤くとぼさむ二人寄る灯を
 
昭和二四年六月 春の欲求七首
 ショパンひそかに鳴れる茶房は晝たけて花ある卓に吾ら對ひつ
 マルクスを讀めどもこれも究極の吾の倚るべき哲理ならなく
 わが窓の棕梠の芽吹きのしるき頃をしみじみ吾は住み難く居り
 郷愁におぼるる宵の街かどよ沈丁花など時に匂ひて
 獨り居て思ひは切に渇く夜をしとしとと雨は屋根濡らすらし
 あだめきてタンゴ舞ひたき願ひなどしきりに湧くも寂しさの果て
 むしろ惡に憑かれなば易く生き得んかかく思ふ夜を斷ちて寝んとす