昭和二五年六月 世相一〇首(五首/まぼろしの椅子)
わがために金策もしつつ芥川賞を唯一の夢と君は書きつぐ
家庭菜園も作らず讀書する二人を怠惰と人は噂するらし
その頃のロマンスや如何に人問へど寧ろ血みどろの戰なりき
組合運動が取り持つ花と噂され短き逢ひも妨げられき
しみじみと星仰ぐこともなき二人在る夜は諍ふ納税のことに
五月歌會記
親友(とも)をさへそねむ心となりてゐつ別れ来し野に落ち葉踏む
昭和二五年七月 奈良回顧五首/まぼろしの椅子
昭和二五年七月 身邊雜記八首(一首/まぼろしの椅子)
諦めてゐるとも言ひぬ未歸還の夫待つ友はややすてばちに
誇り捨てゝ身を落しゆく女がむしろ羨しといふ友も貧しく
前身を秘めて住みつきし隣室の女に今宵客のけはひす
母病むとふ手紙を出して讀み返す夜更けては又降り出づる雨
それぞれに哀歓もちてゆくならむ夕べの街を急ぐ人らも
諦めの中にも安息はあるなどと夫に去られし友の云ふかも
みごもりしままに嫁ぐとふ敎へ子の噂も傅へて客は歸りぬ
無題一首
今一度搏たきて見たしと云ふ友よ破婚を悲しみとせざる如くに
昭和二五年八月 病室六首(一首/まぼろしの椅子)
花言葉集めてノートせし日日よ母は若く姉も生きてゐたりし
眼帯をしたる目うづく夕つ方友の離黨を聞きて歸りぬ
相容れぬ思想を持ちて爭ひきかの友もつひに離黨せしとぞ
歸り途に星座仰ぐ癖もいつしかに忘れてゐしか餘裕なきまま
洗ひたるハンカチに滲む頭文字よ遂ぐる日までの戀長かりき
無題一首(七月歌會記)
月毎に寳くじ秘かに買ふ母よはかなき失意くり返すらし
昭和二五年九月 旅情一一首(三首/まぼろしの椅子)
ひぐらしの鳴き出でし夕べ風凪ぎて君に呼ばるる錯覚に落つ
堪へゆくが女の徳と姑は言ふ歸らぬ夫を待ちゐる夜半に
或時は無視さるる嫁の立場なりつきつめて思へば涙湧くのみ
現實は温室ならずと言捨てて出で行きし夫に一日かかづらふ
四時になれば子を持つ友は歸りゆく暗き話題のみ吾に残して
妻のわれにかかはり難き苦衷が君を支配するらし一日黙して
樹木さへ生きてゐるにと涙ぐみ病み細りし手のべて君言ふ
雪深く積もる夜なりきゆくりなく君服毒の知らせ受けしは
昭和二五年一〇月 無題一首(九月歌會記/まぼろしの椅子)
昭和二五年一一月 風媒花一〇首(五首/まぼろしの椅子)
師のみ子の逝きし知らせに立ちすくむ校正終へて帰りし夕べ
編集後記書き終へし夜半寢むとして枕べにおくペンと聖書を
愛情も既に生活を支え難し不和の中にわがこころ荒みゆく
家に居ても最小限に口をきく身一つを今は守る外なし
恋を得て秋には嫁ぐとふ敎へ子の長き手紙を見つつ眠らむ