昭和二六年一月 川越紀行五首(三首/まぼろしの椅子)
古へは鹿も棲みしとふ丘に登り見はるかす野邊狭霧ただよふ
圖書館を出でゝ日暮れの雨に遭ふ舗装道路に散りしく落葉
身邊抄六首(二首/まぼろしの椅子)
生活のために求めし職さへもいのち支ふると思ふ時あり
賣名的なそぶりを秘かに憎しめど彼も子多く貧しかるべし
容れられぬ主張収めて歸り來ぬ保守派と吾もみなさるるべし
心より奉ずる主義を持たぬ身が限りなく不安になる時のあり
昭和二六年二月 春遠し一一首(三首/まぼろしの椅子)
歸らざる君にいらだち待ち居たる心鎮めて眠らむ今は
不和にさへ今は慣れつつ夜半獨り源氏物語讀みつぎてゆく
日記書きて夜更かしをればひそやかに鳴き移るらし候鳥の聲
窮極は愛のみが二人を支ふると信じ得る身をしあはせとせむ
恢復の望みも既になき友よリルケ詩集に頬をよせて眠れる
職のなき妹よ隣の兒を招びて子守唄など聞かせゐるかも
中座して歸る道に仰ぐ星空よ無視されし歎き消ゆべくもなし
軒に來てさへづる朝の小鳥らよ昨日のことは忘れむと思ふ
昭和二六年三月 寒き灯一〇首(七首/まぼろしの椅子)
落し物せしことも頻りにわびしくて襟立てて歩む夕べの街を
愚かなるわが日常のふるまひも寫されゆかむ君の小説に
愚痴めきて輝かぬ言葉のみ吐くを憎しと夫の思ふ日もあらむ
昭和二六年四月 夢一二首(七首/まぼろしの椅子)
訪へば風邪の咳長く癒えざるをみとめてくどく気遣ふ母よ
貧しければ母も淋しく養老院のことなど密かに知り給ふらし
われにはなき弾力も持つか働きて學資ためむと言ひし妹
就職の決まれることを告げに来し妹に毛糸持たせつつ巻く
数年ぶりに買ひし毛糸よ夜更かして胸の花模様編み進めゆく
昭和二六年五月 女一〇首(一首/まぼろしの椅子)
學閥のことに觸れゆく友の言葉獨學ゆゑに苦しむらしも
疑はずわれに倚りくる友を迎へきざむ木の芽の香にたつ夕べ
薄命のヒロインを描ける短編よ書き終へて君の寝入し夜明け
貧しきに病む我のため通俗小説も書きて賣らむと君はし給ふ
爭ひつつ既に離れ難き二人よ病めば頻りに我名呼びて寝給ふ
百羽程鶏飼ひて子等を養ふとかごの鶏卵を友は示しつ
必要な空地だになしと言ひて別れぬ養鶏を頻りに勸むる友と
養鶏をすすめられし夜幾百羽に取り巻かれたる夢も見てゐし
勤めもつことも重荷となる如しつくろひ物に夜を疲れつつ
昭和二六年六月 麥若葉一〇首(四首/まぼろしの椅子)
屑毛糸集めて何を編むならむ耳遠き母の寂しげにて
原稿が賣れなば買はむと言ひ給ふ姫鏡台の前を離れつつ
われの職追はむ企みも知りたれど信じてゐたし人の善意を
未亡人の護身術かわれを陥れてそしらぬ風に笑みかくるなり
春雷のひとしきりせし夕まぐれ辭表書かむと決めて坐りぬ
策動せし人らよりも職を追はれゆく我に幸福はあると思へり
昭和二六年七月 梅雨の晴間九首(二首/まぼろしの椅子)
修道院に入るとふ噂聞きしまま幾年逢はぬ友も戀ほしも
いつか遠く忘れられゆく身と思ふ又ひとり嫁ぐ教へ子のあり
寂しき時返事めあてに書くらしき教へ子の手紙憎き日もあり
霧の中に灯影うるめる街に出づ友病む暗き家をまかりて
歸り來て鳳仙花の苗植ゑに出づ梅雨の晴れ間の土やはらかく
何處よりか迷ひ來し仔犬に童らは寄るいつまでも明るき露地の夕ぐれ
長雨の晴れ間に菊を移植する母の居間より見やすき位置に
昭和二六年八月 秩父路八首(六首/まぼろしの椅子)
あたたたかき雨となりたる夜半さめて又おちゆくか一つ嘆きに
いつとなく疲れまどろむ夜の汽車に恣なる夢も顯ちつつ
昭和二六年九月 旅のあとさき一五首(一三首/まぼろしの椅子)
泣き明かし諦めややに得し我かたんねんに朝の米をとぎをり
無斷にて出で來し旅の小氣味よさもいつか寂き悔となりつつ
昭和二六年一〇月 深山路八首(二首/まぼろしの椅子)
もつと廣く視野を開きて生き行かむ遠く相模の海光るなり
紛れては歌も口吟む日々なれと何時か區切はつけねばならず
長き未來思ひて決むる身の振りを打算と言はれなば涙溢れむ
われの知らぬ喜びもあらむか山奥に炭焼きて獨り住める翁よ
久し振に逢ひし教へ子わが厭ふタイプの青年となりゆく如し
幾種かの罐詰をひそかに買ひておく我に許さるる富も小さく
昭和二六年一一月 日照り雨九首(四首/まぼろしの椅子)
昨日の願ひ今日は崩るる生活にて思ひ切りよくなりたり我も
倒れたるダリアを起す事もなし野分だつ日日を病み續けつつ
娘等二人學成りて北のふるさとへ歸る日のみ母は描き居給ふ
俯きて夫の怒りに堪へてをり言ひ分は我も秘めてもちつつ
要領よく振舞ふ友も許すべし尾花そよぐ道をひとり歸りぬ