[昭和二七年]

昭和二七年三月 狭山紀行一三首(八首/まぼろしの椅子)
 偶然にめぐり逢ひたるバスのなか心ゆらぎのすべなかりけり
 ひつそりと残雪ふみてもだしゆく傷つきやすき君と知るゆゑ
 愛されてゐると知りたる寂しさよ別れ來て一人バスにゆらるる
 振返らずゆくてのみを見よと諭されき寂しき時は思ふかの人
 なりゆきにまかす外なきあけくれよつきとめがたし人の心は
 
昭和二七年四月 みぞれの街八首(二首/まぼろしの椅子)
 思ひ過ごしは止めよと言ひし君が言葉次第に我の鎭りてゆく
 語尾濁して別れ來し身を顧みる無思想と思はれむ事の寂しく
 獨身を通すと言ひ張り死期迫る父を歎かせしことも忘らえぬ
 遺産爭ひを避けて故郷も捨てしとふ父亡き後に知りし眞實よ
 逆らふこともなくて平穏にたつ日日に諦め易くなる寂しむ
 それてゆく人のこころに焦だちてみにくかりしと今は思ふも
 
昭和二七年五月 職場一一首(五首/まぼろしの椅子)
 保身のためのポーズも互に見せ合ひてここの職場に安き日はなし
 煉炭をかこみて語る昼休み誰もよごれし指先寄せて
 傾く政治を歎く事務所のひる休み一人は立ちて謄写を初む
 無表情に声のみ立てて笑ふ時胸しめつける寂しさは湧く
 読みたき本重ねし儘に日々は過ぐ菜の花瓣も散りそめにつつ
 悲劇のヒロインに己を擬して来し事も寂しく一人夜を更かし居り
 
        無題二首(鎌倉吟行記)
 遠き世をさすらふほどのゆとりもちて山の静寂にひたらむとする
 通り雨過ぎし疎林を吹く風の遠潮ざゐの如く寂しも
 
昭和二七年六月 事務服七首(四首/まぼろしの椅子)
 上ずりて又電話かくる女の聲すひねもす何にいらだつ我ぞ
 表情もとがりゐむ我かいとまなき應待を一日續けし夕べ
 せめて優き少女見つけて添はせたし雨に濡れて歸る汝が後姿よ
 
昭和二七年六月 觀音山紀行七首
 稀に來る人の手紙など待ちわびて何を生甲斐となしゐる我ぞ
 逢ひたしと囁くごとき君が手紙雨はひねもす若葉を濡らす
 誘はれて君とゆく旅を思ふ夜の窓にほのけし菜の花明り
 右は赤城彼方は淺間と指す君のこだはらぬ聲に救はるるなり
 息つめて見つむる如き君が視線避けつつ今日の心危ふし
 風速計のめぐれる空を君も見つ秘めて來し旅の終らむ夕べ
 夕暮れの驛の歩廊の別れ寂し人の妻なる事も告げ得ざりしかば
 
        五月歌會記一首/まぼろしの椅子
 
昭和二七年七月 雨季一〇首(三首/まぼろしの椅子)
 再びは逢はじと決めし人ゆゑに發車までの長き時をよりそふ
 返信を書かざることをせめてもの良心として日日を呆けをり
 人妻と知りてよりは來ぬかの人の潔癖さにさへ我は惹かるる
 つきつめて人を思へば現し世に幻覺といふがあるも知りたり
 別るるなら子のなき中にと言ひし友の言葉幾夜も思ひ續くる
 無表情な月のまろさよ樂堂をぬけ出でてひとり歩む夜空に
 徒勞に終らむ忍耐にも今は從はむかかる生き方を常疎みつつ
 
        六月歌會記 無題一首
 ずるき大人と思はれむとも時代より身を守れよと書く外はなし
 
昭和二七年八月 合歡の花一〇首(一首/六月歌會記・四首/まぼろしの椅子)
 思想に殉ずる覺悟すがしと思へども苦しみて書く疎き返事を
 時代の犠牲になるなと書しわが手紙理想を阻む如くとられむ
 夜學は辛しと言ひてよこせし汝が學費何を約めて補ひやらむ
 われの不安に切りこむ如く語氣鋭く學徒の立場を訴ふ汝は
 暴力は否定すると言ひ切り別れ來て言ひ逃れせし如く寂しも
 
        九十九里濱小吟五首
 陽のぬくみのほのかに殘る砂ふみて夜半の渚をひとり歩みぬ
 艫の音の夜もすがら絶えぬ河の面よ月も碎けて映りゐるべし
 陽やけして網をつくらふ乙女らよかかる靑春のあるも思へり
 砂防林の松は一せいに滴落す日照り雨遠く沖に去りつつ
 渡し舟を待つと佇む土手のへに濱なすの揺れやまぬかも
 
        六月歌會記 無題一首(朱扇)
 
昭和二七年九月 百日紅咲く十五首(三首/まぼろしの椅子)
 貧しき中にある平安も肯はむブラウスをさらすカルキが匂ふ
 混迷の世に若き身をさらしつつ如何に堪へゐむわが教え子ら
 謄寫刷りを一日なしつつ我の中に徐々に起りゐる變化思へり
 酒の席に誘ふ葉書が君に來つ痛飲などといふ言葉がありき
 譲歩してオペラを見むと言ひし君かかる愛情の在り方も寂し
 砂防法などの圏外にあり生活に追はるる友がむしろ羨しも
 世の中を割切りて生くる立場羨し疾く子を生めと言ひにし友よ
 苦學して遂に病みつきし汝が愛し哲學概論など枕邊にあり
 體力を知れと叱れば涙ぐむ幼くて父を喪へる汝よ
 ひたむきにあめりか留學を夢見ゐし明るさも既に失へる汝よ
 家族らに互に病まれ夏も更く注射器を煮つつ一人起き居り
 玉子ゆでる鍋が微かに音たてて何時までも妹も眠れぬらしも
 
        八月歌會記 無題一首(朱扇)
 
昭和二七年一〇月 夜の鳥四首/まぼろしの椅子
 
        暗き思ひ出一二首(四首/まぼろしの椅子)
 思ひ起す事も稀になりてゐしものを亡き吾兒が今朝の夢に顯ちたり
 みどり兒を喪ひし深傷忘るべく故郷を遠く出で來つ君と
 理想もちて混迷の世を生きむには潔からむ子を持たぬ身よ
 暗き繪を見續くるごとき友と思ふ前の夫とも死別したりき
 癒ゆる望のなき人に仕へ窶れたる友と聞きつつ訪ふ由もなし
 風の中にひたすら麥を刈りてゐき落ち目となりし舊家守りて
 酒倉の棟並ぶ奥の離れ家にめしひの母はひとりいましき
 アララギに二つのりゐし友が歌誦し終へて書店を出づる密かに
 
        九月歌會記 無題一首/まぼろしの椅子
 
昭和二七年一二月 病院にて九首/まぼろしの椅子