[昭和四〇年代]

昭和四〇年一月 見知らぬ街三〇首(二三首/無数の耳)
 夕焼けの雲などに銃を撃ちやまぬ人なりしかぱながく忘れず
 身代わりに焼かるるとでもいふごとく丸太は樹脂を噴きてくすぶる
 うらぶれの思ひを朝にもちこして残り香しるきグラス磨けり
 ガラスなき窓が点ると見し夜より解体近きビルを仰がず
 冬草を削る刃先の火花見つ曇れる坂をひとり越えゆく
 背筋より醒め来し夢の続きにて漂ふわれは何の魚か
 セーターを着せられてマネキン人形の腕にありし傷もかくれぬ
 
昭和四〇年五月 海の記憶五〇首(無数の耳)
 
昭和四一年一月 冬の素描一〇〇首(五六首/花溢れゐき)
 枯れがれの岸辺を映す水の上人のたてたるささ波動く
 和蘭(オランダ)のランプをともす窓の外しづかに秋の雨降りてゐる
 朝(あした)よりきざす寂しさちぢまりて糸屑のごとき蜘蛛を掃きつつ
 油絵の岬は遠く暮れてゐて赤く塗られし空の美し
 森ふかく道は岐れて病棟を指す矢じるしの白々と立つ
 閉ぢし眼にまろくひろがる薄明り埴輪の鈴の鳴ることもなく
 天井に壁にひろがり匂ふもの火傷に塗れる油のごとし
 バスを待ついとまに入りてわれの買ふルージュの色も定まりて来ぬ
 色覺の失はれゐし時の間にひらめく銛は打ちこまれたり
 太古よりつなぎ置かるるごとくして河原の牛の啼くこともなし
 事務服のままうつされし寫眞にて固き笑ひのうかぶわが顔
 木琴の音を洩らしゐる山の校舎木の實を拾ふ人かげもなし
 身の細き淡水魚など飼われゐて人らものうく水底に棲む
 夜半に聴く山犬の声いにしへの獣の醒めて啼くかと思ふ
 ひるがほの花のみ咲かすあけくれに黒の扇子も匂はずなりぬ
 一つ一つ積み木を崩しゆくごとき生活(くらし)を思ひ闇に目をあく
 あらだてる海と思ふに無雑作にロープ投げ合ひもやふ舟あり
 うすぐらき明りを洩らす猶太教会(シナゴオグ)わが棲みゐしはいつの世ならむ
 醒めぎはに聞きしは何の音ならむほつかり白き空洞があく
 散り透きて明るくなりし道の上落ち葉つむじの舞ひ立つ日あり
 いかほどの願ひ叶ふといふならむ爭ひて買ふ護符の甲虫(スカラベ)
 禍事(まがごと)を呼ぶとふ柚子を植ゑしめし祖父の後姿(うしろで)つむれば見ゆ
 ころげたる珠のゆくへに夜の間もささやきやまぬ聲あるごとし
 避けがたき言葉を待てるわが前にレモンのうかぶグラス置きゆく
 一粒の青き瑪瑙を手にのせて夜のうしほの満ち来るを待つ
 始祖鳥の化石がまとふ灰色の羽根と見るまに飛びたちゆけり
 再びは渡る日のなき橋ならむ手すりにあはく雪のつもれる
 新しき油紋の浮ける水溜りいかなる夜のありたるならむ
 生臭き蘂(しべ)を垂れるサフランの最後の花もつまみ去られぬ
 薬局の窓より見えて乳鉢に何を擂りゐし人とも知れず
 いつの夜か埴輪の兵のよみがへりわれは撃たれむ石の鏃(やじり)に
 何もかも賣りて出でゆく旅を戀ふ書棚の本の沈む日ぐれは
 傅へ来し一幅の軸贋の繪と告ぐることなく逝ける父母
 をかし来し思はぬ咎もあるごとし壁に残れる指紋を拭けば
 ふるさとの駅の坂道霧の夜を荷車などのかよひてゐずや
 とつぎゆく姉もさびしくプリズムを買ひて與へき幼きわれに
 鼓笛隊の通るかたより吹きて來る風を一氣に横切らむとす
 わが中にのたうつ魚と思ふまで血潮の色の水にひろがる
 行く人の視線あつめて雨の中に持ち出されたる誰の柩ぞ
 つくづくと汽車の窓より見て來たる滑車の音を夜更けて聴く
 電流のかよふ氣配が闇にして口の中のみただなまぬるし
 楽しめるごとくに人の水撒けりホースの先をあやつりながら
 幕切れのとき迫りつつ手品師はつぎつぎに鳩を生み出しゆけり
 退きて來し年月に渡りたる橋の幾つのしろじろと見ゆ
 
昭和四二年三月 石の船一〇〇首(六二首/花溢れゐき・四首不明)
 一つづつつゆけき枇杷をむきてゐる指の力を何が怯まず
 櫻紙の花を作れる少女たち一人はわれの聲をまねつつ
 噴水の秀(ほ)の暮れのこる公園に手を濡らしつつ待つこともなし
 フロントのはなやぎのなかガラス鉢を虚空に吊りて魚を泳がす
 醒めぎはに会ひし黒衣の巫女の眼と次第にたれの眼かとかさなる
 霧の夜の街を人らの行き交へり魚のごとくすれちがひつつ
 泣き喚く言葉韓國語のごとしくぐり戸をあけて誰か出で來る
 信じたることの寂しさ殘像のやうにゆれつつ漁り火うごく
 一夜明けて紫陽花の花粉こぼれをり青のガラス玉撒きたるやうに
 燃え殘る喪の花雨に打たれつつ紙の匂ひの立つこともなし
 失へることのみ多き年月に癖つよきかの文字讀むことも絶ゆ
 知らぬ間にあら草は刈り拂はれて押し出されたる石がころがる
 球場を映す畫面の奥深くブザー鳴らして過ぐる汽車あり
 セーターを選ぶたのしさ伴へる少女は淡き色を好めり
 遊びたき仔犬せかして歸りゆく落ち葉焚く火も煽られてゐむ
 黄の帽子かぶれる少年騎手の顔たれかに似ると見る間に過ぎつ
 音もなくのけぞる毛蟲見てゐたり次第にわれの心鎭まる
 まぎれざるこころのごとくたのみ来し柿の一顆も振り落とされぬ
 わが知らぬカメラの世界おぞましき魚眼レンズを人は買ひゆく
 椎の木の尖端を渡る風が見ゆ常緑の木も冬はさびしき
 誰が家の電話と今は忘れつつ数字書きたるメモはさみ置く
 逸りゐし仔犬の不意にたゆたひて落ち葉の一枚一枚を嗅ぐ
 聲低く魚を呼びつつ餌撒けり何はかなめる人にかあらむ
 霜の夜のかの坂の道ひとりでにころがり出づる石などなきや
 風吹けば影さわだてて工事場の燈の夜もすがらわが窓に來る
 白孔雀ゐるとふ動物園の前日々に過ぎつつ入りしことなし
 ラケットと羽根(バーズ)わが手にあづけゆきてそのまま幾日見えぬ幼な子
 焼け跡のくらがりに人の影うごきあき壜あまたはこばれゆきぬ
 脚の位置定めて眠りゆくインコ鳥も夢見ることあるらむか
 繪蝋燭ともせばあはき香のたちていまはに逢ひたき一人だになし
 ミシン踏む音ふととめし妹のインコの籠に布を覆ひぬ
 身をよぢり風に堪へゐるさまをなす氣球もすでにわれと奪はず
 切り株を祀る祠の野に古りて焚き火のあとを濡らしゆく雨
 花咲ける椿の若木植ゑくれてはかなき笑みを殘しゆきたり
 
昭和四三年五月 いづこも遠し三〇首(二七首/花溢れゐき)
 ネックレスの鎖つめたき日のゆふべみやこわすれの返り花咲く
 恃むべき霊のごとくに手のかこむまろくつめたき石ころ一つ
 いつとなく錨の形怖れつつ拡大しゆく夜々かと思ふ
 
昭和四四年三月 ひなげしの種三〇首(花溢れゐき)
 
昭和四五年三月 蝋の顔一五首(一四首/花溢れゐき)
 物欲を笑はむとして笑ひ切れずモーツアルトを弾きはじめたり
 
昭和四五年八月 花溢れゐき一〇〇首(六二首/花溢れゐき)
 水鳥のかづくと見えて跡もなし帰らむとしてまくなぎを追ふ
 よろこびてわが立つかたへ近づくを義手のつけ根のかどぱりて見ゆ
 周章(あわ)てゐしとき静かなるもう一人のわれを憚る思ひよぎりつ
 降り出づる雨におどろき抱へゐし何の楽譜と問はで別れつ
 根づかずに終れる苗を抜きてゐてクリビアはふとまぼろしの花
 人の来て通せる部屋に幾日も弾かぬピアノのありて驚く
 シャッターをあげてポールを外すさま停れるバスより見えて素早し
 信号を待ちて溜まれる人のなか京都弁の男ゐて子に何か言ふ
 間のたゆく山羊の啼くこゑかそかなる部落はありて苗木を育つ
 向日葵をゑがきてゐたる人の去り見返ればすでに向日葵も無し
 風邪ぎみのままに働く数日にコピイの仕事はかどりてゆく
 買ひ足さむ本の名次々に挙げあひて思はぬときに心の通ふ
 花咲かむ日まで保つや病室に人のつちかふムシトリスミレ
 てのひらにのせて硬貨を目にかぞへひさぎゆきたり夕顔の苗
 事務室につながれし電話呼吸してゐるのみの人と告げて切られつ
 胡桃の大きさなど言ひて指に輪を作る剔出のあとを見舞へるわれに
 トルコ石のゆくへは知れず亡き人の背文字の褪せし本並びたり
 風に慣れて花びら剥がれやすき日か色をまぜつつ芥子の殖えゆく
 みそかごとなしゐるに似む少年の溝に釣り餌のみみずを飼ふは
 幼ならにおとさせて給ふ枇杷の実の何れともなく傷をもちあふ
 持ち敢へぬビーチボールを追ひかけて追ひつく前にふたたびころぶ
 ソンブレロの若者ひとり残りたる苗木寝かせて自動車に積む
 指輪のみ光らせて病む枕べに星占ひの本置かれゐき
 雨の夜のロビーに待てばあづかれる人のコートのしめりがやさし
 若き日のあやまちの一つ足裏に貝踏みし痕ありてざらつく
 ウクレレを買ひてもらひし少女よりたのしげにゐる若きその母
 歩道よりはみ出してしまふ園児らを呼び戻しつついづこまで行く
 欲るもののこまごまとして口紅のオレンヂ色を今日また買はず
 一粒の繭てのひらに鳴らしつつ区切りつけたきことの身にあり
 
昭和四六年三月 幾たびも手を一五首(花溢れゐき)
 
昭和四七年三月 雲の地図一五首(雲の地図)
 
昭和四七年一〇月 しのぎて在りて一〇〇首(六七首/雲の地図)
 土を這ふ風あるならむ音たててポプラの落ち葉ころがりゆけり
 つかのまに空の明るみ木の立てり舞台の上の夕映えに似て
 芦を刈る人の背後を過ぎながら男女のけぢめも分ず
 のがれたく渦巻く水を見てゐたり芦を束ねて人は去りゆく
 風立ちてうごきはじめぬ一羽のみ群れをはなれてゐし白鳥も
 立てるまに風のあけおくページより幾たびか読み読みはかどらず
 不吉なる何の知らせといふならね割れたる爪にエナメルを塗る
 焦点が合はずゐるときわが席のすぐうしろにて雨降りはじむ
 拒みがたく液体はまた注ぎ足され懸命に泡だつグラスの中は
 表面を歩むのみよと思ふとき地球は空のいづこにうかぶ
 灯台の根もとに白く波光り夏終へし土を人は耕す
 ひとすじの川に沿ひつつ軒低き集落ありて子らの走れり
 梯子車の来てゐしビルの火事のあと人ら行き交ふ表情もなく
 をりをりに身を捩ぢて笑ふ栗いろの髪なびかせて歩む少女ら
 スクーターの音幾たびも身に近くとまりてたどきなき日曜日
 過ぎゆけるたれにか背後あふられて襟足寒ししばしのあひだ
 ゑがきゐし球体はかくちぢまりてレモン一粒畳にまろぶ
 物音のひびかひ易き夜の部屋薔薇のほぐるる気配も知らゆ
 問ひ詰められてゐるときにふと手にふれてポケットにある銅貨ひとひら
 死なぬために殺さねばならぬことわりを酔へば言ひつつ人もさびしき
 回転椅子のどの向きならば乱れずにすむかとひとりゐるとき回す
 うつむきてゐるときに見えつぎつぎに眼鏡のふちを移りゆく影
 うとくして逝かしめし罪許されむわれと思はず揺られてゆきぬ
 右の手のしびれてくれば持ち替へて吊り皮のいたくぬくめるを知る
 真っ暗なショーウィンドーに置かれゐてカラジウムの葉は顔の如しも
 思ひ出せぬままに離(さか)りぬ衝立の陰からわれを見てゐたる顔
 傾けてさす傘のなか幼な子はつぼみの菊の一鉢を抱く
 妹をわれにあづけて死にゆける母のいまはの静かなりしか
 対岸に啼きゐる犬も一枚の貼り絵となして夕闇に据う
 しをれたる菊の葉をそぎゆるやかに傾斜くだりてゆく思ひする
 ガスの火をとむれば物の音絶えて胸さわがしき夜となりゐる
 おとなひしたれとも知れず夜の更けにまた音もなく離(さか)りてゆけり
 胸のへにしづく垂りつつ妹の髪を思ひてねんごろに梳く
 誘はれて見たる花より小さめにオランダつゆくさいまだ咲く→「亡き人と」雲の地図
 
昭和四八年三月 われより何を一八首(一四首/雲の地図)
 噴水に色のライトはともり出す日ぐれはさびし窓より見つつ
 憂鬱に見えゐしといふわれのゐぬあひだの人の上も知りたき
 レインコートの色のみとなりそのままに角を曲りつ去りゆく人は
 弾痕を手首にもつといふ人のこよひも繃帯をしてバスにゐる
 
昭和四八年六月 花を撃つ一〇〇首(九五首/雲の地図)
 散らしたる薔薇の花びらまなうらにかさなるときに深き色なす
 仰ぎゐる角度のゆゑか冠の重き感じにおはす天女ら
 ほのしろきカメオのブローチ胸にして春の装ほひとなる少女たち
 雨のあと著莪は花咲きかたはらに紅山椿終はらむとする
 うつつなくをればテレビは雨季に入る弧状列島つぶさに見しむ
 
昭和四九年三月 冬のてのひら一〇首(雲の地図)
 
昭和四九年四月 あえかに雪の五〇首(四七首/雲の地図)
 わきまへし受け答へしてゐるさなか涙のやうなものの湧きくる
 電子計算機(コンピューター)の打てる七文字片仮名のどこにでもありさうなわが名よ
 空行くはもう春の雲窓ぎはにタイプ打ちゐる背(そびら)冷えつつ