昭和六〇年一月 夜の音一首
まだ母のいまししころは夜の音をはばかりて小声にものを言ひゐき
昭和六〇年三月 着衣のマハ七首
立春の日に屋根光り献血のバスの来てゐる駅前広場
前を行く少年二人うしろより少女のブーツが追ひかけゆけり
抜け道を教えつつ人をみちびくにからたちの垣は棘ばかりなる
会釈して一人の座を立ちゆきしあとかすかに湿布の匂ひ残れり
聴覚のとがれる日なり片耳にみどり児の泣く声とらへゐて
夜の更けのわれのめぐりは石臼の音のやみたるしじまの如き
ぬけがらとなりて眠れるかたはらに起きあがりたり着衣のマハは
昭和六一年一月 沸点七首
靴音のひとかたまりが過ぎゆきてどこまでも泣くみどり児のこゑ
夜の雪にとりかこまれて夫とゐたるもとのかたちはとうに忘れし
膝もとに毛糸の玉をころがして編み終へがたきものも編みゐむ
八つ裂きになるべき咎を負ひゐるに声立てて笑へり今宵のわれは
沸点までやや間のありて立ちをれど百度の熱さを知らぬわれの手
なにほどのことにありけむ電話一本かけて憑きものの落ちし思ひす
夜の更けに日記書かむに左から繰るノートにもいつか慣れゐる
昭和六一年三月 わが繭七首
ゆるやかにカーブ始めし電車よりなまじろきビルの側面が見ゆ
だいだい色のあふるる季節日覆ひを下げて商ふ果実の店は
田圃のた緑のみとわが名告げをればいづこともなき野良がひろがる
色眼鏡と今は呼ばぬに気づきたり色眼鏡とつい言ひてしまひて
どのやうなときとも知れぬわが繭のとりとめもなくふくらむ日あり
オカリナを吹きたき童子なだめつつ帰りゆきたり女性布教者
犬との距離測りなどして効く夜と効かぬ夜とあり誘眠剤は
昭和六一年七月 いつも日が差す二〇首(四首/大宮文芸)
雨の日の電車といへど春めきて若者は白のソックスを履く
下ばかり見て歩みゐてかすかなる花を綴れるはこべも長けぬ
回廊の角を曲がれる音のして禰宜の木靴が渡りゆきたり
マグデブルグ半球を知れるはいつの日か長引く風邪に臥しゐて思ふ
こと切れて首(かうべ)かくりと下げにけり傀儡師はどの指放しけむ
脈搏が指の先まで打つ日にてたんぽぽの綿の飛ぶを見てゐる
仕舞はれてゐし歳月に春宮も后(きさひ)の雛も古りていませり
女教師を一生(ひとよ)続けむと思ひゐき袴姿の写真出で来ぬ
メントールの匂ひをさせてゐることの負ひ目に列のうしろにつけり
はりつきてゐたる桜の花びらも奪ひて去りぬ黒の自動車
遠くより会釈したるはたれなりし喪服に角を曲がりてゆけり
わが家へみちびく略図書きてをりくねれる川をふたすぢ入れて
黒鍵をひびかせて弾くエチュードにまぎれて帰りくる死者ひとり
夜半の地震(なゐ)はげしかりしが係累の無き安心をみづからに言ふ
宇治十帖読み返しつつ流離めく夜毎のありて春深みたり
ふるさとの山のふもとの畑なかの立葵にはいつも日が差す
昭和六二年一月 未生より七首
感情をぶつける如く若者は水打ちつけてバスを洗へり
病院の角を曲れば欅並木ボツリヌス菌の噂も絶えぬ
体育祭のリハーサルと子ら言ひゆけり予行演習などとは言はず
不安材料ばかり殖やしてゆくごとししばしと本を階段に積む
目といふもたのみがたきに紋様のかすかにずれてゐるカレンダー
未生より決まれることのありといふ髪ゆたけきは情の濃しとぞ
還らざりしひとりのためにかなたなるマゼラン星雲けぶりてやまず
昭和六二年三月 元のこころ七首(一首/大宮文芸)
総毛立つ思ひに行けりほほけたる芒だらけの岸辺となりて
道標の立つあたりまで来て憩ふ迷はずに来しこともさびしく
バスを待つ列にかがめる人のゐて少しづつ間隔がゆるみてゆけり
亡き人のたれかに待たれゐるごとし鉄の階段に音がひびきて
夕刊を取り込みて来て日の長くなりしを告げむ妹もゐず
ライターをしをりに置きて立ちにしが戻れることなし元のこころに
昭和六三年一月 黒薔薇のいろ七首(風の曼陀羅)
昭和六三年三月 忘らるるよはひ七首(風の曼陀羅)
昭和六四年一月 冬の桜五首(三首/風の曼陀羅)
菅笠をかさねて売りてゐしところ跡形もなし冬の水べは
街灯のとぎれし闇にけはひして影にふくらむ男が通る