『現代』

昭和四四年一一月 青のストール(一五〇首)(七六首/花溢れゐき)
 電線のとぎれて見ゆるまぶしさに別れの言葉いくたびも言ふ
 しみじみと聞きて別れぬやみがたく立場を守るための言葉も
 スクリューのゆるく廻れる幻覚に揉まれてゐしはたれのむくろか
 幾つにもかさなりて見ゆる残月を仰ぐことにも馴れて出でゆく
 いらだちのもとの一つに進みがちな柱時計のことなどあらむ
 鉱石ラヂオのホーンを耳にはめしまま絶えてゐしとふ眠れるごとく
 焚きて来し香の匂ひの残りゐて脱ぎしコートを吊す夜の壁
 蝶番の鋲足りぬまま閉ざしおく戸あり目ざめてしばしば思ふ
 朝靄の底より翔つと仰ぐ間に大いなる弧をゑがきぬ鳶は
 籠の戸をしきり啄むインコらに魔法の解くる日はいつならむ
 たのしきことに誘ひ呉るると思はねど朱肉の壺を閉ぢて立ちゆく
 たまひたるうすべに珊瑚の玉一つ病ひ恐れぬ日の還り来よ
 鱗持つ木と畏れたるかの松も伐られしといふ二十年経ぬ
 楡の葉のそよげる見ゐつその母を失はむとする人のかたはら
 硝子切る音も身近に聞きしより鼓膜の位置の疼くをりふし
 水いろの小さき卵わが庭に生みゆける鳥の帰る日ありや
 年輪のひずみに添ひてにじみゐるそこはかとなき樹脂のくれなゐ
 砂利に根を張りたる穂草抜きてゐてなしあぐむことの多きを思ふ
 煩はしき光りをまとふ木々となり動かぬ影の何一つなし
 脚長き人々の来て道の上何かしきりに踏まれてゆけり
 夜の更けの道に諍ふ人のこゑ男の声は低く途切るる
 みそかごと語らひゆくにあらねども声ひびきあふ石道となる
 ゆるやかに移る画面に煙りあがり地平のはての私刑を見しむ
 いまだ値のつかぬ野菜のかがやきて露もろともに運ばれゆけり
 たれの絵の構図ともなく渦なして土管に呑まれゆく泥のさま
 魔除けの印を衿に縫ひくれし母は亡し眠られぬ夜の続けば思ふ
 枯れ枝をぴしぴし折りてくべてゆく仕事にかかる前の工夫ら
 坂道は霧ふかくして白樺の材を積みたるトラック行けり
 風圧をかいくぐりゆく鷺のさま低き一羽はしげくはばたく
 落葉を終れる木立木守りの柿の一顆の重き夜あらむ
 歌垣の跡をたづねむもくろみも古りて今年の野分に吹かる
 もの言はぬ亀の夜毎に現はるる夢も恐れぬまでに癒え来ぬ
 サインペンもて次々に書かれゆき姓と名の持つ不思議な調和
 例証をあげつつ人のきほふとき音なくわれの下降始まる
 偽りの印章を押しし手と思ひ葉巻揉むときつくづくと見つ
 軒下の八つ手の花に蜂も来ず窓いっぱいに降りしきる雨
 ステーヂに紙の吹雪の降りしきり老いさらばへし人を歩ます
 凍りたる葱むきをればかつがつに生きて終らむゆく末も見ゆ
 色盲のゆゑと知るとも褐色の薔薇いっぱいにあふるる画面
 美しき拘束といへる言葉あり妹のルージュ買ひゐて思ふ
 針箱を新しき罐に替へておく春のコートを縫はむ日近く
 膝かけをわれに編めりといふ便りぬくとき風に吹かるるごとし
 藻のごとき木立の影をひき裂きてまた音もなく去る車あり
 くさぐさの故売の品に美しき音を満たしゐしごときかの壺
 護符の紐を首にかけやる古りし世の母のさま埃及の壁画は見しむ
 鍵盤の白と黒との溶けあふと尽きぬ歎きのいづこより来る
 蝋涙の椅子に流れてゐしこともわれを朝より崩さむとする
 足もとの石の割れ目を噴き出でて無法にみずのひろがりゆけり
 春遅き年と思ふにまんさくの花封じよこす故郷の手紙
 流したる雛の一つの去りやらず眉目なき顔のしろじろとして
 水の香を嗅ぎつけてはやるわが小犬草萌えしるき丘を越えつつ
 太陽のひといろをともすたんぽぽと嗅げばさやかに野生の匂ひ
 うとまれてつひに逝かしし人のあり短く病みて母は死ににき
 銃声のごとくにわれをつんざきて呼ぶ声のなかにめざめて行きぬ
 野の鳥の呼びかはすこゑ美しき羽根をわが身は持つこともなし
 屑鉄の山乾きゐて匂はぬを不思議となして河原過ぎゆく
 営庭の跡の草むら春たけて軍用犬の塚は小さし
 雪の夜の寂しき悔いを今に持ちそよぐ芽ぶきのごとき思ひよ
 姉妹に小さき雪靴編み呉れき藁の匂ひを嗅げば思ほゆ
 ブランディ蜜に濁してゆすりつつグラスの底にしばし潜まむ
 朝がたの眠りに浮きて人と人波のごとくに触れあひゆけり
 まざまざと羽音をたてて水鳥のわれはいづこの渚に憩ふ
 剥落のはげしき仏画口角のするどく裂けてゐし忘られず
 幾たびも背後かすめて何やらむ漆黒の荷を積めるトラック
 日に二度は渡る橋なりトラックをとめて乗る少女見る朝のあり
 平坦の草原を来て久しきに登りとなれる道あたたかし
 いかほどのよろこびあらむげんげ田に蜂を放てる顫鳴(せんめい)のなか
 川霧のいつしか沈み見馴れたる灯をちりばめて暮れてゆく街
 前かがみに見えて危ふき石の像夜学校よりコーラスは湧く
 のがれゆく埴輪の馬のまろらなる鈴が音遠く聞きつつ眠る
 水桶を頭上に重く捧げゐつ砂塵に眼閉ぢしときの間
 棕櫚の葉の窓をおほひてシューマンの楽譜たどるに暗き昼すぎ
 みがきたるランプともせば玻璃の筒にとざされて細き芯燃ゆるなり
 わが持てる壺の一つにいつの日かこまかき骨として収まらむ