昭和六〇年九月一日 すずかけの幹七首
傷あとのひとすぢうすく見えゐしが遠く音なくかりがね渡る
大き荷を背負へる人の声もなくマンションのドアに吸はれてゆけり
うら寒く予想して来しことながらまざまざと見てテーブル隔つ
ブラインドおろされむとし目の前の篠懸の幹もずたずたになる
コーヒーはにがかりしかな灰皿をよごししのみに別れ来にけり
十一時十五分を指してゐし時計うつつとも絵ともなくて記憶す
綻びをつくろはずゐる如き日をかさねつつ秋もふけゆかむとす
昭和六二年六月一日第八号 つゆけき薔薇一〇首
老いてもし雄鶏ならば歩むとき鬱陶しからむとさかを垂れて
錯覚に過ぎざらむとも片耳の顔に見えくるコーヒーカップ
スイッチを入れて間なきに網の目をこまかく埋めてガスの火は燃ゆ
ガラス戸に映りゐるとは知らざりき身を折り曲げて靴下を穿く
二時間の長かりしかな見らるるはよごるるに似て壇上に居つ
火を見るより明らかなればたしなめて手なづけて置く感情一つ
妹の忌の日は雨と決まりゐてつゆけき薔薇をたづさへて出づ
上半身浮き沈みする不可思議に枯れ野を渡りゆける自転車
浄瑠璃の和事荒事見て出でて書き割りのごとし六日の月は
何事の起こらむとしておぼろ夜の路上に犬の影増えゆけり