言ひがたき何かを抑へ見送りし出陣のことも今は遠のく
言ひかはす言葉は凍てて電光のニュースは頭上を流れてやまず
言ひつのる側の勝つとも決まりゐずふくらはぎまで疲れつつ聴く
言ふほどのことにはあらねど山国に育ちて今に海にあくがる
癒えがたき病告げ来し夜の電話能登半島は雪降れりとぞ
癒えぬまま又夏は耒てけざむきに小雨の夜の今年の花火
いかならむ立願をして掲げたる古びし絵馬に残る蛇の画 ※
いかにして避けて通らむゆくりなくわが手に負へぬことに襲はる
生き生きとわがあるものかある限りの電灯をともす夜をゐる時間
生きゐてもゐなくても何が変はらむと馴染む思ひのありて危ぶむ
息かけて眼鏡を拭きて思はざる紛ひものなど見るにあらずや
息詰めて待つ時間ありかかる夜のために縮むいのちか知れず
生きてゐる紅薔薇なれば色うすれ散る花のあり咲くつぼみあり
生きて甲斐あるいのちならねど旅ゆきて樗(おうち)の花の真盛りに遭ふ
生きてゆくいつにかはらぬ願ひゆゑ買はれゆきけむだるまも虎も
息とめてゐる数分に両翼を張り鳶のたへゐる滞空時間
生きのびて争ふこともすべなきに人をうとみてこもるといふは
生きゆくに必死の日あり天高く十字の影となる鴉あり
幾重にも稲架(はさ)をめぐらせ砦めく山家の一戸たれのふるさと
幾十年以前のことかいぶしたるガラスの破片に日蝕を見き
幾たびか上空をゆくジェット機の音を恐れず若き選手は
幾たびも書きては消して羹(あつもの)といふ字の形ととのひがたし
幾たびも画面をはづれ流氷を見にゆく船のいたく揺れたり
幾たびも聞きて忘るる花の名の一つ真紅にストケシア咲く
いくたびもコピイの残の切りきずを指先にして冬さ中なり
いくたびも倒るるものを立てかけてつひに立ちたり女雛と男雛
いくたびも問ひ直されてわが声の変はりてゐむか夜の電話に
いくたびも飛行きがゆきバスがゆきとめどもあらず過ぎてしまへり
いくたびも見失ひつつ目の前に今ある小さきライター一つ
いくたびもわが手をのがれころがりて個々となりたき胡桃か知れず
幾つもの鳥のむくろをのせてをりゴルフガーデンの天井の網
幾つもの目がわが顔に貼りつけりキュビズムの絵はいつ見しならむ
幾日をこころ騒がせゐたりしが鎮まりゆけるこの夜の雨に
いくばくかかかはりありや教会の尖塔といふを朝夕に見て
幾本もゼムクリップの付きて出づ鋏の先が磁気を帯びて
幾万のボートピープルそのボート台風の海のいづこにひそむ
生くるとは戦ひなりや洞窟の壁画のブッシュマンも戦へりとぞ
生ける限りかくは苦しみ死ののちは魂抜けて運ばれゆかむ
磯魚(いさな)採る伏屋まばらにありしころ書き割りの橋を渡りて又雨となる
いざよひの空を見をれば歳月はさざなみのごとく過ぎてゆきけり
石垣の銃眼も今はふさがれて濠をめぐれるジョギングルート
意識して離しし距離に置きしあとあしたゆふべの霧流れしむ
遺子たちの走り回るをたしなむるその母のゐて法事すすめり
石段の一段一段暮れて行き帰らむとせず少年たちは
石になどなりてはならず石仏の膝に眠れるうつつの猫よ
医師の側より歌はれをれば率直に老いて弱るさまつまびらかなる
石舞台のそばだつ野辺も草枯れて未だとかれず古代の謎は
石よりも鳥よりも小さく縮みゐるときありわれの如何なるときか
椅子の背に何か掛けおくのみにしてぬくもる如き季節となりぬ
いづこへかのきしごとくに消えてゐる膝の痛みをめざめて思ふ
いづこかで必ず辻褄を合はせ給ふ神をあがめて恐れて思ふ
いづこかの火山の煙のためといふ冬より春につづく夕映え
いづこなる沼とも知れず冷たくて深さうな水が夢に見えゐし
いづこにか大き力を持つありて見破られゐむわがからくりも
いづこにか水の音して田の上にまた田はありて峰につづけり
いづこにか見ていまさむとのみ思ふ低くひろがる水いろ花火
いづこにて貰ひし風邪か二日経ていよいよ優柔不断のごとし
いづこにひそみてゐたる風かと思ふ不意に立ち来てガラスを鳴らす
いづこにもあるにあらずや大和路に二つの顔を持つ石ありき
いづこより採光されてウインドのガラスの鹿の角のはなやぐ
いづこよりさす月かげに道のべの紫いろに見ゆる落ち葉は
いづこより迫りて大き一枚の黒き翼がわれを覆ひき
いづこより匂いてくるや桐の花今宵は君もいまさぬものを
いづこより見たるセダンか花びらのやうに四枚のドアがあきたり
いづこより見てゐにけむと思ふまでまざまざと憶えゐる場面あり
いづこより見にし景色かふるさとは雪を溜めゐて盆地なりけり
イスラムの世界は思ひ見難きに音立てて降る沙漠の砂は
急がるる工事にあらむ電柱の頂あたり暮れのこりゐて
いたいたしくいらだちたまふわが人よ秋風よりも冷たく淋し
いただきしおみくじは吉かはた凶か背のびして枝に結ぶ女童
痛手持つ心にしみてひしひしと隙間なく咲くすほうの花は
板の間といふ広き域を結界のごとく老いし祖母は守りゐし
いたぶらるるを覚悟してゐしに事無く水いろの傘をまた差し帰り行きたり
痛みより解かれしや否や道の辺に杖を捨てゆきしお遍路のをり
イタリアの春はいかにか水いろの伊太利の絹と謂へるブラウス
射たれたる乗り手のそばにしばしゐて去りゆく馬はいづこへ
一陣の風にも消えむ焔とて天領の名も今はすたれ
一の女三の女の疾く去(い)にて二の女いま薔薇園に在り
いち早く白の靴はく少女らの背高くしていきいきと見ゆ
いちはやく着きしつばくろかうもりの舞ふ夕凪を切りて飛び交ふ
いち早く花大根の咲く垣根あり年月はわれにめぐりて
一番下になりゐし柚子の二粒も取り出でて夕の炊ぎを始む
一秒が大きくうごく花時計見て測られる広場の人ら
一望に芦は茂れど舟寄せて渡し守などゐる日もあらず
市女笠、侍女を従へ通らむかしづかに雪の夜は更けゆく
市女笠の形に雪をつもらせて何の思ひか立ち去りがたき
一面に頭上を覆ふ蝉の声厚き層なしくらがりに似る
一里塚の榎のほとり調査とてつどへる人ら老いていませり
一列に並びて生くる如しとぞベットタウンと呼ばるる町に
一列に灯をちりばめて蛇行して十六号国道夜ならむとす
一羽一羽の重さは測らるることもなくまとめて鶏は運び去られぬ
何時かまたファーのコートとなりてをり枯れ葉のいろの絨緞敷きて
一句一句皆辞世ぞと言ひ得たる芭蕉を思ふ夜半をさめゐて
一軒家と昔は呼ばれし家ならむ雨にうもれてわれの住む家
いつしかに桜は過ぎて水の面は花のうろこの寄りてたゆたふ
一瞬の間(かん)にのがれて知られざる厄もあるべし鴨着水す
いつ知れず百合の花粉のつきゐたるスカートのまゝ今朝は出で耒つ
一心に滝に打たるる行者ともならず何にもならず終はるか
いつとなく体ちぢまり透明にうすき殻などかづきてゐずや
いつになく雀あつまりさざめけり何か大事のありたる如く
いつの日かちりちり松葉燃やしゐし母の如くに老い深めをり
いつの日に見しや蓮田の上に溜まれる闇を思ひてをれば
いつの日の記憶と知れね誰もゐぬ舞台にありし一脚の椅子
いつの間にガラス割れ棧の折られゐて廃工場も五・六年すぐ
いつのまに消えてしまへる人の名を探しをれば表紙のレモン
いつの間に薬効きゐて裁ちしまゝ久しくなれるスカートを縫ふ
いつのまに石榴は実り目の前に垂れゐて一つ一つは宝珠
いつのまに車体の色を変へてゐる同じ会社のバスと思ふに
いつのまに波ををさめて藍深き沼の湛へを雲の影行く
いつのまにバスのボデイの浅黄いろ見知らぬ町へ行くにあらずや
いつの間に春もたけゐて音たてて差し込むやうな日ざしとなりぬ
いつの世の傷とも知れず観音は欠けたる瓶子のまゝ持ちいます
いつの世のこととも知れず木を祀り石を祀りて人らは在りき
いつの夜の雪と知らねど光背の舟型を負ひ耒る人のゐし
いつの世のわれなりにしやのがれつつ鼻緒切れたりする夢なりき
いつの夜も髪を乱せる顔一つトルコブルーとなる視野のなか
一方のピンチが敵方のチャンスと野球のみならなくに
いつまでも帰りたくなき人とをり家族と住むは或ひは囚屋(ひとや)
いつまでも来ぬバス待ちてあこがれの如く破滅を思ひてゐしか
いつまでも残のまゝある鶴なりや五センチほどの尾羽根をあげて
いつ見ても人影あらず国道に沿ひゐて大き仏具の店は
いつ見にし記憶ともなく鼻の先光りてゐたり伎楽の面は
いつも風のやうにありたきわが願ひはぐれて歩むときなどふさふ
いつよりか体の中の心とて固形のものの思ひして耒つ
いつよりか黒の羊のまじりゐる群れをそのまま移動し行けり
いつよりか人の心に住むといふわが名おそれて思ふことあり
偽りを言はずにすめばかうもりをさしてやさしき顔となりゐむ
出でて来し匂ひ袋は古りたれど誰の香となくただ懐かしき
糸切り歯の機能のかそか残れるをたしかめて釦つけをはりたり
糸くづのごとくこぼれつ墓に持つ吾亦紅の花を括りてをれば
いとせめて酔ひて哭かなむその果てにねむりほうけなむこがるゝよるは
糸の目の粗く浮きゐる曼陀羅に経し年月に雪降りつもる
稲妻のごとく光りて雨あとの空にあがれり昼の花火は
いなびかり沖へ走りて潮満つ珠潮干る珠とありにし昔
いにしへのくらがりのなか鉈彫りの神将は口が裂けていましき
いにしへの武将の隠し湯と謂へる山里もすでに雪降れりとぞ
いにしへも同じ形に泳ぎけむいにしへにゐたる鮒かも知れず
犬小屋のまはりも掃き清めたり吹かれては散る沙羅のもみぢも
犬の子は白き和毛(にこげ)に覆はれて小さき耳を二つ立てたり
犬も猫も老いては耳の廃ふるとぞあはれは尽きず病みゐて聞けば
犬鷲は畦の赤児の上を飛び危ふかりけり野良の仕事も
命かけて吸ふ煙草かと言はれしを思へり襤褸のごとく病みゐて
井の水はやはらかしとぞ七草の芹を洗ひて粥かしぐとぞ
いぶかしきことのふえゆく何ゆゑにこの段階に鉛筆がある
いま一度降る春の雪目の前の何も見えなくなるやうな日よ
今更に何迷ふやと思ひゐて迷ひてひと日ありにしことも
今しがた建築現場を過ぎ来しがあらぬかたより槌の音する
今少し今少しとぞ勤め来て茄子の花咲くしづくをひめて
今のわれは迷ひの器歩み来て雨を溜めゐるマンホール踏む
妹を仏と思ふこともなく守られて経て二十年過ぐ
妹がゐて母がゐて竹籠にあをあをと摘む五加(うこぎ)ありにき
妹の在りしころより缶切りも栓抜きも一つひきだしのなか
妹の戒名の美しきことなども墓参りのたびの慰めとせり
妹の手は小さくて綾取りの鼓も舟も今も目に見ゆ
妹の名に呼ぶ鳥を飼ひゐしが二十年経て鳥のごとしも
妹のみまかりしあとは人参をもみぢの形に抜くこともなし
妹の命日なれば香供ふ奥津城(おくつき)も今は遠くなりつつ
妹も姉も世に亡く年古りぬ裾をすぼめて紙の雛折る
妹も妹の友も世になくて大学祭のパンフ見てゐる
妹も母も世に亡くかたはらに陽にふくらめるクッションを置く
妹も父母も見ず衰へて老いさらばへるわれの姿は
いらいらと煙草喫ひ又ものを書く男のいのちも易からぬらし ※
いらだちて罵る朝も吾はまだこの夫とこそと信じ切りゐる
入り海は曇りに凪ぎて帯となり紐となりつつ走る波あり
入り海は水母(くらげ)の多き季節とぞうす桃いろがふはふは浮きて
いろいろの女の傘を挿す壺に男傘の柄太くぬけ出づ
岩を裂く小さき滝の見えゐしがほどよき距離となりてひびかふ
言はざりしことをよみせむ引き潮の如くに消えし憤りあり
言はるるままに言はれ置かむと定むるに日を重ねしこともうとまし
インテリには珍しく冷たからずとふ定評のあるわれと知りたり
飲料水の心配などをせずにすむ生活のことに気づく日のあり