春のうしほ


03307
若き日を知らねば母の簪の一つさへわが見たることなき
ワカキヒヲ シラネバハハノ カンザシノ ヒトツサヘワガ ミタルコトナキ

『風水』(沖積舎 1986) p.18
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (1)


03308
鬼百段の階ありと謂ふ夜もすがらミシン踏むともいくばくを縫ふ
オニヒャクダンノ カイアリトイフ ヨモスガラ ミシンフムトモ イクバクヲヌフ

『風水』(沖積舎 1986) p.18
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (2)


03309
坐りゐて胸の騒げりわがなかに今まざまざとゐる敵一人
スワリヰテ ムネノサワゲリ ワガナカニ イママザマザト ヰルテキヒトリ

『風水』(沖積舎 1986) p.19
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (3)


03310
荒縄を帯に巻けるも聖者ゆゑひとりひとりがさだめをになふ
アラナワヲ オビニマケルモ セイジャユヱ ヒトリヒトリガ サダメヲニナフ

『風水』(沖積舎 1986) p.19
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (4)


03311
丘の上に残れる木立きはだてて人工光線のごとき夕映え
オカノウエニ ノコレルコダチ キハダテテ ジンコウコウセンノ ゴトキユウバエ

『風水』(沖積舎 1986) p.19
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (5)


03312
粉末を手に握るときの感触を思へり遠く施肥なす見つつ
フンマツヲ テニニギルトキノ カンショクヲ オモヘリトオク セヒナスミツツ

『風水』(沖積舎 1986) p.20
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (6)


03313
言ひ出でて嘆くことにもあらざれば並びて待ちて切符を買ひぬ
イヒイデテ ナゲクコトニモ アラザレバ ナラビテマチテ キップヲカヒヌ

『風水』(沖積舎 1986) p.20
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (7)


03314
をりをりに現るる扉のごときものとばりの如きものに救はる
ヲリヲリニ アラワルルトビラノ ゴトキモノ トバリノゴトキ モノニスクハル

『風水』(沖積舎 1986) p.20
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (8)


03315
今にして迷ふと知らばかなしまむ死者に思ひの近づきてゆく
イマニシテ マヨフトシラバ カナシマム シシャニオモヒノ チカヅキテユク

『風水』(沖積舎 1986) p.21
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (9)


03316
踊りの輪を抜け出でてひとりくらがりにゐたりし夢のあとへ続かず
オドリノワヲ ヌケイデテヒトリ クラガリニ ヰタリシユメノ アトヘツヅカズ

『風水』(沖積舎 1986) p.21
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (10)


03317
販売機よりをどり出でたる銅貨二枚地面の闇に吸はれてしまふ
ハンバイキヨリ ヲドリイデタル ドウカニマイ ジメンノヤミニ スハレテシマフ

『風水』(沖積舎 1986) p.21
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (11)


03318
新しき持ち場に慣れてゆく日々に木蓮の花も終らむとする
アタラシキ モチバニナレテ ユクヒビニ モクレンノハナモ オワラムトスル

『風水』(沖積舎 1986) p.22
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (12)


03319
印押しておきたるのみにわれの手にまた戻りたり古りし楽譜は
インオシテ オキタルノミニ ワレノテニ マタモドリタリ フリシガクフハ

『風水』(沖積舎 1986) p.22
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (13)


03320
目を凝らし獲物を待つといふごとき緊迫もなく過ぎむ一生か
メヲコラシ エモノヲマツト イフゴトキ キンパクモナク スギムヒトヨカ

『風水』(沖積舎 1986) p.22
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (14)


03321
指先に視線あつめて織られゆくひとすぢの縞のオプテイミズムよ
ユビサキニ シセンアツメテ オラレユク ヒトスヂノシマノ オプテイミズムヨ

『風水』(沖積舎 1986) p.23
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (15)


03322
幾重にもかかれる橋の見えてゐて川上の橋を電車に渡る
イクエニモ カカレルハシノ ミエテヰテ カワカミノハシヲ デンシャニワタル

『風水』(沖積舎 1986) p.23
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (16)


03323
パンの顔丸く陽気に描きたりピカソもいまだ若かりしかば
パンノカオ マルクヨウキニ エガキタリ ピカソモイマダ ワカカリシカバ

『風水』(沖積舎 1986) p.23
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (17)


03324
暗黒の空にありたる断片の虹も消えたり画廊出づれば
アンコクノ ソラニアリタル ダンペンノ ニジモキエタリ ガロウイヅレバ

『風水』(沖積舎 1986) p.24
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (18)


03325
帰りゆくほかはあらぬか人の手にわれの切符は買はれてしまふ
カエリユク ホカハアラヌカ ヒトノテニ ワレノキップハ カハレテシマフ

『風水』(沖積舎 1986) p.24
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (19)


03326
遠ざかり来しわれは何のかたまりか水のほとりに声もなくゐる
トオザカリ コシワレハナンノ カタマリカ ミズノホトリニ コエモナクヰル

『風水』(沖積舎 1986) p.24
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (20)


03327
たのしよとのみに啼くにもあらざらむゆふべ雲雀の複数のこゑ
タノシヨト ノミニナクニモ アラザラム ユフベヒバリノ フクスウノコヱ

『風水』(沖積舎 1986) p.25
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (21)


03328
見下ろしに描ける村の全景に望楼ありて一人昇れる
ミオロシニ エガケルムラノ ゼンケイニ ボウロウアリテ ヒトリノボレル

『風水』(沖積舎 1986) p.25
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (22)


03329
湧き出でて身を押し包み去りてゆく霧のごときかわがかなしみは
ワキイデテ ミヲオシクルミ サリテユク キリノゴトキカ ワガカナシミハ

『風水』(沖積舎 1986) p.25
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (23)


03330
うちつけに愕くことの少なきを恃みて人のさまざまに問ふ
ウチツケニ オドロクコトノ スクナキヲ タノミテヒトノ サマザマニトフ

『風水』(沖積舎 1986) p.26
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (24)


03331
物を言ふをりをりにのみ存在し人ら並べりながき会議に
モノヲイフ ヲリヲリニノミ ソンザイシ ヒトラナラベリ ナガキカイギニ

『風水』(沖積舎 1986) p.26
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (25)


03332
もう一人入れて写真をとらむとし事務所よりたれか出で来るを待つ
モウヒトリ イレテシャシンヲ トラムトシ ジムショヨリタレカ イデクルヲマツ

『風水』(沖積舎 1986) p.26
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (26)


03333
交替の準備なしつつ一人一人の存在濃ゆくなる時間帯
コウタイノ ジュンビナシツツ ヒトリヒトリノ ソンザイコユク ナルジカンタイ

『風水』(沖積舎 1986) p.27
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (27)


03334
屈するは膝のみとして立ち直る若き日ありき勤めて長き
クッスルハ ヒザノミトシテ タチナオル ワカキヒアリキ ツトメテナガキ

『風水』(沖積舎 1986) p.27
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (28)


03335
計算器を打ちて二時間今のわれは数値詰めたる袋のごとき
ケイサンキヲ ウチテニジカン イマノワレハ スウチツメタル フクロノゴトキ

『風水』(沖積舎 1986) p.27
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (29)


03336
迎合の思ひ湧くとき信号が青にかはりてこと無きを得つ
ゲイゴウノ オモヒワクトキ シンゴウガ アオニカハリテ コトナキヲエツ

『風水』(沖積舎 1986) p.28
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (30)


03337
働くことはよごるることか帰り来てハンカチを洗ふゆふべゆふべに
ハタラクコトハ ヨゴルルコトカ カエリキテ ハンカチヲアラフ ユフベユフベニ

『風水』(沖積舎 1986) p.28
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (31)


03338
手袋のチュールに透かすトパーズを賜ひし人もすでにおはさぬ
テブクロノ チュールニスカス トパーズヲ タマヒシヒトモ スデニオハサヌ

『風水』(沖積舎 1986) p.28
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (32)


03339
満員のバスに揺られて通ひつつ帰りには見ず桃の花さへ
マンインノ バスニユラレテ カヨヒツツ カエリニハミズ モモノハナサヘ

『風水』(沖積舎 1986) p.29
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (33)


03340
美しき断崖として仰ぎゐつ灯をちりばめしビルの側面
ウツクシキ ダンガイトシテ アオギヰツ ヒヲチリバメシ ビルノソクメン

『風水』(沖積舎 1986) p.29
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (34)


03341
形代を燃して焔を立てしのみ雛の夜を睦まむ妹はゐず
カタシロヲ モシテホノオヲ タテシノミ ヒナノヨヲムツマム イモウトハヰズ

『風水』(沖積舎 1986) p.29
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (35)


03342
亡きあとの家を守りつつ釘一本打てざりし人なりしを思ふ
ナキアトノ イエヲモリツツ クギイッポン ウテザリシヒト ナリシヲオモフ

『風水』(沖積舎 1986) p.30
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (36)


03343
うるほひて固まる砂と思ふまで鎮まりてありこよひのわれは
ウルホヒテ カタマルスナト オモフマデ シズマリテアリ コヨヒノワレハ

『風水』(沖積舎 1986) p.30
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (37)


03344
姿無く来るといふこともあるらむか思ひ直してミシンを踏みぬ
スガタナク クルトイフコトモ アルラムカ オモヒナオシテ ミシンヲフミヌ

『風水』(沖積舎 1986) p.30
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (38)


03345
毛皮もて耳を覆へる写真など出で来て戦争の記憶を返す
ケガワモテ ミミヲオオヘル シャシンナド イデキテイクサノ キオクヲカエス

『風水』(沖積舎 1986) p.31
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (39)


03346
塹壕は何に見えしやたどりつきて落ち込みざまに果てしと伝ふ
ザンゴウハ ナニニミエシヤ タドリツキテ オチコミザマニ ハテシトツタフ

『風水』(沖積舎 1986) p.31
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (40)


03347
山鳩のしき鳴く聴けば戦場の雑木林も芽ぐまむころか
ヤマバトノ シキナクキケバ センジョウノ ゾウキバヤシモ メグマムコロカ

『風水』(沖積舎 1986) p.31
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (41)


03348
浜木綿のもつるる花を見て醒めてもやもやとせり天井の闇
ハマユウノ モツルルハナヲ ミテサメテ モヤモヤトセリ テンジョウノヤミ

『風水』(沖積舎 1986) p.32
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (42)


03349
台詞の無いドラマのやうな五日経てまだ生きてゐる喉乾きゐる
セリフノナイ ドラマノヤウナ イツカヘテ マダイキテヰル ノドカワキヰル

『風水』(沖積舎 1986) p.32
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (43)


03350
病室の螢光灯も天井にはりつけられて窮屈に見ゆ
ビョウシツノ ケイコウトウモ テンジョウニ ハリツケラレテ キュウクツニミユ

『風水』(沖積舎 1986) p.32
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (44)


03351
窓をあけぬ限りは見えぬ安らぎに椋鳥らしき気配聴きゐる
マドヲアケヌ カギリハミエヌ ヤスラギニ ムクドリラシキ ケハイキキヰル

『風水』(沖積舎 1986) p.33
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (45)


03352
二十日寝て窓をあくればわが庭の春のもみぢのうすくれなゐよ
ハツカネテ マドヲアクレバ ワガニワノ ハルノモミヂノ ウスクレナヰヨ

『風水』(沖積舎 1986) p.33
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (46)


03353
待ち時間長くなりつつ家族の無きことなどもつひ言はねばならず
マチジカン ナガクナリツツ カゾクノナキ コトナドモツヒ イハネバナラズ

『風水』(沖積舎 1986) p.33
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (47)


03354
トラックの停まりてあれば思はざる大きタイヤを目の前に見す
トラックノ トマリテアレバ オモハザル オオキタイヤヲ メノマエニミス

『風水』(沖積舎 1986) p.34
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (48)


03355
堕天使にはなり給ふなといふ言葉十年過ぎてをりをり還る
ダテンシニハ ナリタマフナト イフコトバ ジュウネンスギテ ヲリヲリカエル

『風水』(沖積舎 1986) p.34
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (49)


03356
幾ひらの花びら濡れて貼られたるバッグを膝にしばらく憩ふ
イクヒラノ ハナビラヌレテ ハラレタル バッグヲヒザニ シバラクイコフ

『風水』(沖積舎 1986) p.34
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (50)


03357
雪国は一気に何の花も咲く幼くて見しあんずの花よ
ユキグニハ イッキニナンノ ハナモサク オサナクテミシ アンズノハナヨ

『風水』(沖積舎 1986) p.35
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (51)


03358
さまざまに縛られてゐむ水晶はつねつめたしと思ひなどして
サマザマニ シバラレテヰム スイショウハ ツネツメタシト オモヒナドシテ

『風水』(沖積舎 1986) p.35
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (52)


03359
バッテリーライターと謂へり思ひ切り高く焔を伸ばしてあそぶ
バッテリー ライタートイヘリ オモヒキリ タカクホノオヲ ノバシテアソブ

『風水』(沖積舎 1986) p.35
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (53)


03360
堰さへもみづから作りとどまると未だ残れる力を思ふ
セキサヘモ ミヅカラツクリ トドマルト イマダノコレル チカラヲオモフ

『風水』(沖積舎 1986) p.36
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (54)


03361
降り出づるけはひ知りつつ起ちがたしもう少しにて見境がつく
フリイヅル ケハヒシリツツ タチガタシ モウスコシニテ ミサカイガツク

『風水』(沖積舎 1986) p.36
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (55)


03362
信号を待つときのまに風の来て和服の人の殊に吹かるる
シンゴウヲ マツトキノマニ カゼノキテ ワフクノヒトノ コトニフカルル

『風水』(沖積舎 1986) p.36
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (56)


03363
美しき手を持つ少女仰ぎ見て白のベレーをかぶれるも見つ
ウツクシキ テヲモツショウジョ アオギミテ シロノベレーヲ カブレルモミツ

『風水』(沖積舎 1986) p.37
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (57)


03364
家に待つ仕事思ひて帰る道裾がおもたし冬のコートは
イエニマツ シゴトオモヒテ カエルミチ スソガオモタシ フユノコートハ

『風水』(沖積舎 1986) p.37
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (58)


03365
劇薬となる分量も意識してのまねば癒えず古りたる傷は
ゲキヤクト ナルブンリョウモ イシキシテ ノマネバイエズ フリタルキズハ

『風水』(沖積舎 1986) p.37
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (59)


03366
どのやうに高度を測る鷗らか這ひ松の上をすれすれに飛ぶ
ドノヤウニ コウドヲハカル カモメラカ ハヒマツノウエヲ スレスレニトブ

『風水』(沖積舎 1986) p.38
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (60)


03367
朝霧を透かして山の見え初めぬなづみつつ描く下絵のごとし
アサギリヲ スカシテヤマノ ミエソメヌ ナヅミツツカク シタエノゴトシ

『風水』(沖積舎 1986) p.38
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (61)


03368
高まりつつ迫れる波のつぎつぎに光の束をほどきて崩る
タカマリツツ セマレルナミノ ツギツギニ ヒカリノタバヲ ホドキテクズル

『風水』(沖積舎 1986) p.38
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (62)


03369
重量を増して一気に落ちむとし入り日はしばし赤くくるめく
ジュウリョウヲ マシテイッキニ オチムトシ イリヒハシバシ アカククルメク

『風水』(沖積舎 1986) p.39
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (63)


03370
うすら赤く太れるトマトを押し上げてゐる力など今なら見ゆる
ウスラアカク フトレルトマトヲ オシアゲテ ヰルチカラナド イマナラミユル

『風水』(沖積舎 1986) p.39
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (64)


03371
太き茎をあらはに倒れし蕗見れば嵐のあとの風生臭し
フトキクキヲ アラハニタオレシ フキミレバ アラシノアトノ カゼナマグサシ

『風水』(沖積舎 1986) p.39
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (65)


03372
足もとの今渕なせりひとたびは沈まむほどの気概湧き来よ
アシモトノ イマフチナセリ ヒトタビハ シズマムホドノ キガイワキコヨ

『風水』(沖積舎 1986) p.40
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (66)


03373
ほろびゆく肉体のなか最後まで生きて見えゐむわが目と思ふ
ホロビユク ニクタイノナカ サイゴマデ イキテミエヰム ワガメトオモフ

『風水』(沖積舎 1986) p.40
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (67)


03374
われの名をたれか呼ばぬか同じやうな抑揚に父母はわれを呼びにき
ワレノナヲ タレカヨバヌカ オナジヤウナ ヨクヨウニフボハ ワレヲヨビニキ

『風水』(沖積舎 1986) p.40
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (68)


03375
いつまでも憶はるることもつらからむアネモネの束を供華に賜ひぬ
イツマデモ オモハルルコトモ ツラカラム アネモネノタバヲ クゲニタマヒヌ

『風水』(沖積舎 1986) p.41
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (69)


03376
窓ガラスを対角線に切りやまぬ雨見てあれば次第に激す
マドガラスヲ タイカクセンニ キリヤマヌ アメミテアレバ シダイニゲキス

『風水』(沖積舎 1986) p.41
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (70)


03377
玉乗りの少女は声をあげむとしいつまで堪へて絵のなかにゐる
タマノリノ ショウジョハコエヲ アゲムトシ イツマデタヘテ エノナカニヰル

『風水』(沖積舎 1986) p.41
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (71)


03378
幼くて父と行きたるサーカスに火の輪くぐりの獅子などもゐき
オサナクテ チチトユキタル サーカスニ ヒノワクグリノ シシナドモヰキ

『風水』(沖積舎 1986) p.42
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (72)


03379
舞台の上は萩も芒も枯れ果てぬなまじひに言ひて思ひ伝へず
ブタイノウエハ ハギモススキモ カレハテヌ ナマジヒニイヒテ オモヒツタヘズ

『風水』(沖積舎 1986) p.42
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (73)


03380
すべあらぬ思ひなれども芽ぶきたる柳などよりはるかになびく
スベアラヌ オモヒナレドモ メブキタル ヤナギナドヨリ ハルカニナビク

『風水』(沖積舎 1986) p.42
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (74)


03381
遠ざかりゆく帆船の信号に濁れりといふ春のうしほは
トオザカリ ユクハンセンノ シンゴウニ ニゴレリトイフ ハルノウシホハ

『風水』(沖積舎 1986) p.43
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (75)


03382
双眼鏡の円に入り来る椎若葉一枚づつにほぐれてうごく
ソウガンキョウノ エンニイリクル シイワカバ イチマイヅツニ ホグレテウゴク

『風水』(沖積舎 1986) p.43
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (76)


03383
あらはなるよろこびに似む風出でて樟の若葉のささめきあふは
アラハナル ヨロコビニニム カゼイデテ クスノワカバノ ササメキアフハ

『風水』(沖積舎 1986) p.43
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (77)


03384
楕円形の大き鏡に映りゐる階段をたれかとく降りて来よ
ダエンケイノ オオキカガミニ ウツリヰル カイダンヲタレカ トクオリテコヨ

『風水』(沖積舎 1986) p.44
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (78)


03385
一本の木としてわれを思ふとき花の終りに降る雨寒し
イッポンノ キトシテワレヲ オモフトキ ハナノオワリニ フルアメサムシ

『風水』(沖積舎 1986) p.44
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (79)


03386
黒板に書かれし数字地殻の持つ思ひみがたき厚みを教ふ
コクバンニ カカレシスウジ チカクノモツ オモヒミガタキ アツミヲオシフ

『風水』(沖積舎 1986) p.44
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (80)


03387
壁面の地図に朝鮮半島もサハリンも滴垂るるかたちす
ヘキメンノ チズニチョウセン ハントウモ サハリンモシズク タルルカタチス

『風水』(沖積舎 1986) p.45
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (81)


03388
地表にいまボール一つが残されて外切円をなしてしづまる
チヒョウニイマ ボールヒトツガ ノコサレテ ガイセツエンヲ ナシテシヅマル

『風水』(沖積舎 1986) p.45
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (82)


03389
ひさびさにピアノ弾かむに今朝のみし薬の匂ひ指に残れる
ヒサビサニ ピアノヒカムニ ケサノミシ クスリノニオヒ ユビニノコレル

『風水』(沖積舎 1986) p.45
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (83)


03390
菜の花も穂先まで咲きて咲き終へぬ思ひ遂ぐるといふやさしさに
ナノハナモ ホサキマデサキテ サキオヘヌ オモヒトグルト イフヤサシサニ

『風水』(沖積舎 1986) p.46
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (84)


03391
雨のはれまのあかるき声を渡しゐる陸橋が視野にありて近づく
アメノハレマノ アカルキコエヲ ワタシヰル リッキョウガシヤニ アリテチカヅク

『風水』(沖積舎 1986) p.46
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (85)


03392
錫いろにひろがりて木々を覆はぬか地にしづまれる一枚の箔
スズイロニ ヒロガリテキギヲ オオハヌカ チニシヅマレル イチマイノハク

『風水』(沖積舎 1986) p.46
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (86)


03393
雨季迫るきざしかわれの足音のタイルに吸はれ廊を往き来す
ウキセマル キザシカワレノ アシオトノ タイルニスハレ ロウヲユキキス

『風水』(沖積舎 1986) p.47
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (87)


03394
人を降ろしまた乗せて発つバスの持つ安定感を振り返り見つ
ヒトヲオロシ マタノセテタツ バスノモツ アンテイカンヲ フリカエリミツ

『風水』(沖積舎 1986) p.47
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (88)


03395
さまざまに人の訪ひ来て言ふ聞けばイドラのわれはいづくさまよふ
サマザマニ ヒトノトヒキテ イフキケバ イドラノワレハ イヅクサマヨフ

『風水』(沖積舎 1986) p.47
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (89)


03396
カンテラをとぼして見ゆるものを見む残り少なし光の量も
カンテラヲ トボシテミユル モノヲミム ノコリスクナシ ヒカリノリョウモ

『風水』(沖積舎 1986) p.48
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (90)


03397
無防備に行くといふにはあらざらむ身に寸鉄も帯びずといへり
ムボウビニ ユクトイフニハ アラザラム ミニスンテツモ オビズトイヘリ

『風水』(沖積舎 1986) p.48
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (91)


03398
蔓薔薇の棘のさだかに見えゐしがもやだつ雨につつまれゆけり
ツルバラノ トゲノサダカニ ミエヰシガ モヤダツアメニ ツツマレユケリ

『風水』(沖積舎 1986) p.48
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (92)


03399
夜は夜の仕事にまぎれ日中にありたることのなべて思はず
ヨルハヨノ シゴトニマギレ ニッチュウニ アリタルコトノ ナベテオモハズ

『風水』(沖積舎 1986) p.49
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (93)


03400
吹き降りの雨となりつつ夜に聴けば風の声のみ折り返しくる
フキブリノ アメトナリツツ ヨニキケバ カゼノコエノミ オリカエシクル

『風水』(沖積舎 1986) p.49
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (94)


03401
印度更紗の布を裁たむか目に見えてはかどる仕事こよひはしたく
インドサラサノ ヌノヲタタムカ メニミエテ ハカドルシゴト コヨヒハシタク

『風水』(沖積舎 1986) p.49
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (95)


03402
畳一枚が持てるほどよき大きさに一枚として見つつ驚く
タタミイチマイガ モテルホドヨキ オオキサニ イチマイトシテ ミツツオドロク

『風水』(沖積舎 1986) p.50
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (96)


03403
渦なして中心のなき思ひよりふと抜け出でて夜明けを眠る
ウズナシテ チュウシンノナキ オモヒヨリ フトヌケイデテ ヨアケヲネムル

『風水』(沖積舎 1986) p.50
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (97)


03404
輪郭のほほけて夢にあらはるるまでに古りたり鍵のゆくへも
リンカクノ ホホケテユメニ アラハルル マデニフリタリ カギノユクヘモ

『風水』(沖積舎 1986) p.50
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (98)


03405
魚の群れに混りゐたれば人間のわが名呼ばれて大き口あく
ウオノムレニ マジリヰタレバ ニンゲンノ ワガナヨバレテ オオキクチアク

『風水』(沖積舎 1986) p.51
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (99)


03406
百合活けて壼のおもたき日と気づく顎に触れたる花のつめたさ
ユリイケテ ツボノオモタキ ヒトキヅク アゴニフレタル ハナノツメタサ

『風水』(沖積舎 1986) p.51
【初出】 『短歌』 1978.7 春のうしほ (100)