まぼろしの椅子・その後


07361
たそがれの湖を愛すと彼は告げき祕かに戀はれてゐしにあらずや
タソガレノ ウミヲアイスト カレハツゲキ ヒソカニコハレテ ヰシニアラズヤ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07362
水底の藻屑とふ語にも憧れき死は美しと思ひゐし日々
ミナソコノ モクズトフゴニモ アコガレキ シハウツクシト オモヒヰシヒビ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07363
夜に入りていらだてる君は本棚の位置など變へて見むとするらし
ヨニイリテ イラダテルキミハ ホンダナノ イチナドカヘテ ミムトスルラシ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07364
遠き世界の音響のごと間をおきていづべの空にあがる花火そ゛
トオキセカイノ オンキョウノゴト マヲオキテ イヅベノソラニ アガルハナビゾ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07365
無名作家のまま終るともながく生きよと希ふを君も知り給ふべし
ムメイサッカノ ママオワルトモ ナガクイキヨト ネガフヲキミモ シリタマフベシ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07366
山の彼方に雲ゆく見れば訪ひがたきわがみどり兒の墓邊思ほゆ
ヤマノカナタニ クモユクミレバ トヒガタキ ワガミドリゴノ ハカベオモホユ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07367
風化して傾きゐずや年を経しかの草かげの吾子が墓標よ
フウカシテ カタムキヰズヤ トシヲヘシ カノクサカゲノ アコガボヒョウヨ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07368
感化院を出で來るといふ少年をあたたかく待つかの家なれよ
カンカインヲ イデクルトイフ ショウネンヲ アタタカクマツ カノイエナレヨ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07369
背高き妹に似合ふや縫ひ終へし水色のドレスをたたみ眠らむ
セイタカキ イモウトニニアフヤ ヌヒオヘシ ミズイロノドレスヲ タタミネムラム

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07370
水びたしの日本列島と思ひめざめゐつ夜の更けてまた降りつのる雨
ミズビタシノ ニホンレットウトオモヒ メザメヰツ ヨノフケテマタ フリツノルアメ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07371
散りしける賣子木の花掃く土の上わが呟きを聽く人もなし
チリシケル エゴノハナハク ツチノウエ ワガツブヤキヲ キクヒトモナシ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07372
翳ばかり見るごとき日の續くなり壁の繪をドガの踊り子に替ふ
カゲバカリ ミルゴトキヒノ ツヅクナリ カベノエヲドガノ オドリコニカフ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07373
われの外あくる人なき部屋の鍵をりふしバッグの底にて鳴れり
ワレノホカ アクルヒトナキ ヘヤノカギ ヲリフシバッグノ ソコニテナレリ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07374
歸らざる幾日ドアの合鍵の一つを今も君は持ちゐるらむか
カエラザル イクカドアノ アイカギノ ヒトツヲイマモキミハ モチヰルラムカ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07375
甘酸ゆき香のこもりゐむ桐の花野末に見つつわがバスは過ぐ
アマズユキ カノコモリヰム キリノハナ ノズエニミツツ ワガバスハスグ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07376
ゆられつつまどろめる時バスとまり田植ゑ歸りの乙女らを乘す
ユラレツツ マドロメルトキ バストマリ タウヱカエリノ オトメラヲノス

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07377
ただ一人朴訥にわれに同意せし蓬髪を思ふ會終へて来て
タダヒトリ ボクトツニワレニ ドウイセシ ホウハツヲオモフ カイオヘテキテ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07378
交叉路を越え來し女工員の隊列より今し湧き起るザ・バイカル湖の唄
コウサロヲ コエコシジョコウインノ タイレツヨリ イマシワキオコル ザ・バイカルコノウタ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07379
日本列島の地理的優位など生徒らに説きにし日あり償ひがたし
ニホンレットウノ チリテキユウイナド セイトラニ トキニシヒアリ ツグナヒガタシ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07380
葉の色にまがふひそかな花をもつ木ありしきりに樹脂を匂はす
ハノイロニ マガフヒソカナ ハナヲモツ キアリシキリニ シュシヲニオハス

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07381
よるべなく旅ゆくこころ灣口にかかりて船は汽笛を鳴らす
ヨルベナク タビユクココロ ワンコウニ カカリテフネハ キテキヲナラス

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07382
足もとの砂冷えて來て昏るる海わが怖れゐし褐色となる
アシモトノ スナヒエテキテ クルルウミ ワガオソレヰシ カッショクトナル

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07383
今は誰にも見することなきわが素顔霧笛は鳴れり夜の海原に
イマハタレニモ ミスルコトナキ ワガスガオ ムテキハナレリ ヨノウナバラニ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07384
月の夜の潮鳴り低し出でゆかば身近にあらむ死と思ふ時の間
ツキノヨノ シオナリヒクシ イデユカバ ミジカニアラム シトオモフトキノマ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07385
身代りに何を沈めて戻るべきいどむごとく來る夜の滿ち潮
ミガワリニ ナニヲシズメテ モドルベキ イドムゴトククル ヨルノミチシオ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07386
われに彈かせて歌ひゐしソプラノ動亂の朝鮮に歸りてゆくへは知れず
ワレニヒカセテ ウタヒヰシソプラノ ドウランノ チョウセンニカエリテ ユクヘハシレズ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07387
わが夢に来るきれぎれの像をつなぐ錯亂は深く胸にきざすや
ワガユメニ クルキレギレノ ゾウヲツナグ サクランハフカク ムネニキザスヤ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07388
母校の教師となるを拒みて歸らざりしかし若き日より遠きふるさと
ボコウノキョウシト ナルヲコバミテ カエラザリ シカシワカキヒヨリ トオキフルサト

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07389
いづくにか虹かかりゐむ通り雨のすぎて陽はわが枕べにさす
イヅクニカ ニジカカリヰム トオリアメノ スギテヒハワガ マクラベニサス

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07390
かたはらに置くまぼろしの椅子ひとつあくがれて待つ夜もなし今は
カタハラニ オクマボロシノ イスヒトツ アクガレテマツ ヨモナシイマハ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.40


07391
まざまざとわれは書きたしみづからの傷嘗めて堪へ來しながき経緯を
マザマザト ワレハカキタシ ミヅカラノ キズナメテタヘコシ ナガキケイイヲ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07392
わが夢に夜々ひらく曠野を翳のごとよぎるは未だたれとも知れず
ワガユメニ ヨヨヒラクコウヤヲ カゲノゴト ヨギルハイマダ タレトモシレズ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07393
手は何にさしのべむ如何に描くとも茫々と寂しわが未来像
テハナニニ サシノベムイカニ エガクトモ ボウボウトサビシ ワガミライゾウ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07394
別れ住む間さへ苛まれゐる身よ落葉に埋もれてしまひたくなる
ワカレスム マサヘサイナマレ ヰルミヨ オチバニウモレテ シマヒタクナル

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07395
耳遠き母も漸く住み慣れて坂くだり買物にゆくをたのしむ
ミミトオキ ハハモヨウヤク スミナレテ サカクダリカイモノニ ユクヲタノシム

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07396
われを伴いて遁れむといふノアもなし裾濡らし雨の鋪道を歸る
ワレヲトモナイテ ノガレムトイフ ノアモナシ スソヌラシアメノ ホドウヲカエル

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07397
殻とぢて竦めるごとき日のわれを不意に來し母に見せてしまひぬ
カラトヂテ スクメルゴトキ ヒノワレヲ フイニキシハハニ ミセテシマヒヌ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07398
わが編輯の緻密を人のほめしとぞ仕事にうちこむ外なき身と知らず
ワガヘンシュウノ チミツヲヒトノ ホメシトゾ シゴトニウチコムホカ ナキミトシラズ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07399
われのために禁句となりゐる言葉なきや晝の事務所抜けてインコ見にゆく
ワレノタメニ キンクトナリヰル コトバナキヤ ヒルノジムショヌケテ インコミニユク

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07400
閉ぢこめられゐて祕かに爪とぐごとき身と疊掃きつつ寂しき日なり
トヂコメラレヰテ ヒソカニツメトグ ゴトキミト タタミハキツツ サビシキヒナリ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07401
せめて深き眠りを得たし今宵ひとり食べ餘したる林檎が匂ふ
セメテフカキ ネムリヲエタシ コヨイヒトリ タベアマシタル リンゴガニオフ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07402
刹那刹那に生くる狂喜もわが知らず流浪者の唄彈きつつ寂し
セツナセツナニ イクルキョウキモ ワガシラズ チゴイネルワイゼン ヒキツツサビシ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07403
アンダルシアの野とも岩手の野とも知れずジプシーは彷徨ひゆけりわが夢に
アンダルシアノ ノトモイワテノ ノトモシレズ ジプシーハサマヨヒ ユケリワガユメニ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07404
共に死なむと言ふ夫を宥め歸しやる冷たきわれと醒めて思ふや
トモニシナムト イフツマヲ ナダメカエシヤル ツメタキワレト サメテオモフヤ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07405
死ぬときはひとりで死ぬと言ひ切りてこみあぐる涙堪へむとしたり
シヌトキハ ヒトリデシヌト イヒキリテ コミアグルナミダ タヘムトシタリ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07406
ドラマの中の女ならば如何にか泣きたらむ灯を消してわれの眠らむとする
ドラマノナカノ オンナナラバイカニカ ナキタラム ヒヲケシテワレノ ネムラムトスル

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07407
いつまでも待つと言ひしかば鎭まりて歸りゆきしかそれより逢はず
イツマデモ マツトイヒシカバ シズマリテ カエリユキシカ ソレヨリアハズ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07408
われ次第にて明るくも暗くもなる職場と思ふある日は負ひ目のごとく
ワレシダイニテ アカルクモクラクモ ナルショクバト オモフアルヒハ オヒメノゴトク

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07409
梗概のみを追ふ人のなかに胸深く愛の推移を祕めつつ勤む
コウガイノミヲ オフヒトノナカニ ムネフカク アイノスイイヲ ヒメツツツトム

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07410
日給をとるやうになりて明るき少年自転車借りに來て話しかく
ニッキュウヲ トルヤウニナリテ アカルキショウネン ジテンシャカリニ キテハナシカク

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07411
別れ住むと知らず來し君が教へ子ら九時まで待たせて歸しやりたり
ワカレスムト シラズキシキミガ オシヘゴラ クジマデマタセテ カエシヤリタリ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07412
G線の切れしままなるヴァイオリンのこと思ひ出でて夜半をひとり寂しむ
ゲーセンノ キレシママナル ヴァイオリンノコト オモヒイデテヨワヲ ヒトリサビシム

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07413
橋杙に堰かれつつ流れゆくばかり河はつくづく海より寂し
ハシクイニ セカレツツナガレ ユクバカリ カワハツクヅク ウミヨリサビシ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07414
這ひ松の青むのみなる火口原またひとしきり砂塵はしまく
ハヒマツノ アオムノミナル カコウゲン マタヒトシキリ サジンハシマク

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07415
夢に見しは無風の曠野ぞ火山礫を吹きとばしくる風にたじろぐ
ユメニミシハ ムフウノコウヤゾ カザンレキヲ フキトバシクル カゼニタジログ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07416
風つのる火山灰地のただなかにまた人をおろしバスは去りゆく
カゼツノル カザンバイチノ タダナカニ マタヒトヲオロシ バスハサリユク

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07417
まざまざと硫黄匂へば目をとぢて火口丘をくだるバスにゆらるる
マザマザト イオウニオヘバ メヲトヂテ カコウキュウヲクダル バスニユラルル

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07418
永劫の荒蕪と思ふ野を過ぎて穂すすきそよぐ一地帯あり
エイゴウノ コウブトオモフ ノヲスギテ ホススキソヨグ イチチタイアリ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07419
荻叢に野川あふるるひとところ何ぞ踏みこえがたき思ひは
オギムラニ ノカワアフルル ヒトトコロ ナンゾフミコエ ガタキオモヒハ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07420
山原の不毛を見盡くし來て幾日遠く光りゐたる湖を戀ふ
ヤマハラノ フモウヲミツクシ キテイクヒ トオクヒカリヰタル ミズウミヲコフ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07421
たどきなく耳をすませばみもだえて落葉を急ぐ樹々と思ほゆ
タドキナク ミミヲスマセバ ミモダエテ ラクエフヲイソグ キギトオモホユ

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41


07422
君の小説には描き得ざらむわが焦土いつよりか泉湧く園を祕む
キミノショウセツニハ エガキエザラム ワガショウド イツヨリカイズミ ワクソノヲヒム

『短歌』(角川書店 1956.7) 第3巻7号(通巻31号) p.41