春のうしほ


07960
若き日を知らねば母の簪の一つさへわが見たることなき
ワカキヒヲ シラネバハハノ カンザシノ ヒトツサヘワガ ミタルコトナキ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.44


07961
鬼百段の階ありといふ夜もすがらミシン踏むともいくばくを縫ふ
オニヒャクダンノ カイアリトイフ ヨモスガラ ミシンフムトモ イクバクヲヌフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.44


07962
坐りゐて胸の騒げりわがなかに今まざまざとゐる敵一人
スワリヰテ ムネノサワゲリ ワガナカニ イママザマザト ヰルテキヒトリ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.44


07963
荒縄を帯に巻けるも聖者ゆゑひとりひとりがさだめをになふ
アラナワヲ オビニマケルモ セイジャユヱ ヒトリヒトリガ サダメヲニナフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.45


07964
丘の上に残れる木立きはだてて人工光線のごとき夕映え
カオノウエニ ノコレルコダチ キハダテテ ジンコウコウセンノ ゴトキユウバエ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.45


07965
粉末を手に握るときの感触を思へり遠く施肥なす見つつ
フンマツヲ テニニギルトキノ カンショクヲ オモヘリトオク セヒナスミツツ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.45


07966
言ひ出でて歎くことにもあらざれば並びて待ちて切符を買ひぬ
イヒイデテ ナゲクコトニモ アラザレバ ナラビテマチテ キップヲカヒヌ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.45


07967
をりをりに現るる扉のごときものとばりのごときものに救はる
ヲリヲリニ アラワルルトビラノ ゴトキモノ トバリノゴトキ モノニスクハル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.45


07968
今にして迷ふと知らばかなしまむ死者に思ひの近づきてゆく
イマニシテ マヨフトシラバ カナシマム シシャニオモヒノ チカヅキテユク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.45


07969
踊りの輪を脱け出でてひとりくらがりにゐたりし夢のあとへ続かず
オドリノワヲ ヌケイデテヒトリ クラガリニ ヰタリシユメノ アトヘツヅカズ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.45


07970
販売機よりをどり出でたる銅貨二枚地面の闇に吸はれてしまふ
ハンバイキヨリ ヲドリイデタル ドウカニマイ ジメンノヤミニ スハレテシマフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07971
新しき持ち場に慣れてゆく日々に木蓮の花も終らむとする
アタラシキ モチバニナレテ ユクヒビニ モクレンノハナモ オワラムトスル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07972
印捺しておきたるのみにわれの手にまた戻りたり古りし楽譜は
インオシテ オキタルノミニ ワレノテニ マタモドリタリ フリシガクフハ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07973
目を凝らし獲物を待つといふごとき緊迫もなく過ぎむ一生か
メヲコラシ エモノヲマツト イフゴトキ キンパクモナク スギムヒトヨカ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07974
指先に視線あつめて織られゆくひとすぢの縞のオプティミズムよ
ユビサキニ シセンアツメテ オラレユク ヒトスヂノシマノ オプティミズムヨ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07975
幾重にもかかれる橋の見えてゐて川上の橋を電車に渡る
イクエニモ カカレルハシノ ミエテヰテ カワカミノハシヲ デンシャニワタル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07976
パンの顔をまるく陽気に描きたりピカソもいまだ若かりしかば
パンノカオヲ マルクヨウキニ エガキタリ ピカソモイマダ ワカカリシカバ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07977
暗黒の空にありたる断片の虹も消えたり画廊出づれば
アンコクノ ソラニアリタル ダンペンノ ニジモキエタリ ガロウイヅレバ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.46


07978
帰りゆくほかはあらぬか人の手にわれの切符は買はれてしまふ
カエリユク ホカハアラヌカ ヒトノテニ ワレノキップハ カハレテシマフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.47


07979
遠ざかり来しわれは何のかたまりか水のほとりに声もなくゐる
トオザカリ コシワレハナンノ カタマリカ ミズノホトリニ コエモナクヰル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.47


07980
たのしよとのみに啼くにもあらざらむゆふべ雲雀の複数のこゑ
タノシヨト ノミニナクニモ アラザラム ユフベヒバリノ フクスウノコヱ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.47


07981
見下ろしに描ける村の全景に望楼ありて一人昇れる
ミオロシニ エガケルムラノ ゼンケイニ ボウロウアリテ ヒトリノボレル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.47


07982
湧き出でて身を押し包み去りてゆく霧のごときかわがかなしみは
ワキイデテ ミヲオシクルミ サリテユク キリノゴトキカ ワガカナシミハ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.47


07983
うちつけに愕くことの少なきを恃みて人のさまざまに問ふ
ウチツケニ オドロクコトノ スクナキヲ タノミテヒトノ サマザマニトフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.47


07984
物を言ふをりをりにのみ存在し人ら並べりながき会議に
モノヲイフ ヲリヲリニノミ ソンザイシ ヒトラナラベリ ナガキカイギニ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.47


07985
もう一人入れて写真をとらむとし事務所よりたれか出で来るを待つ
モウヒトリ イレテシャシンヲ トラムトシ ジムショヨリタレカ イデクルヲマツ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07986
交替の準備なしつつ一人一人の存在濃ゆくなる時間帯
コウタイノ ジュンビナシツツ ヒトリヒトリノ ソンザイコユク ナルジカンタイ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07987
屈するは膝のみとして立ち直る若き日ありき勤めて長き
クッスルハ ヒザノミトシテ タチナオル ワカキヒアリキ ツトメテナガキ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07988
計算機を打ちて二時間今のわれは数値詰めたる袋のごとき
ケイサンキヲ ウチテニジカン イマノワレハ スウチツメタル フクロノゴトキ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07989
迎合の思ひ湧くとき信号が青にかはりてこと無きを得つ
ゲイゴウノ オモヒワクトキ シンゴウガ アオニカハリテ コトナキヲエツ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07990
働くことはよごるることか帰り来てブラウスを洗ふゆふべゆふべに
ハタラクコトハ ヨゴルルコトカ カエリキテ ブラウスヲアラフ ユフベユフベニ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07991
手袋のチュールに透かすトパーズを賜ひし人もすでにおはさぬ
テブクロノ チュールニスカス トパーズヲ タマヒシヒトモ スデニオハサヌ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07992
満員のバスにゆられて通ひつつ帰りには見ず桃の花さへ
マンインノ バスニユラレテ カヨヒツツ カエリニハミズ モモノハナサヘ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.48


07993
美しき断崖として仰ぎゐつ灯をちりばめしビルの側面
ウツクシキ ダンガイトシテ アオギヰツ ヒヲチリバメシ ビルノソクメン

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.49


07994
形代を燃して焔を立てしのみ雛の夜を睦まむ妹はゐず
カタシロヲ モシテホノオヲ タテシノミ ヒナノヨヲムツマム イモウトハヰズ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.49


07995
亡きあとの家を守りつつ釘一本打てざりし人なりしを思ふ
ナキアトノ イエヲマモリツツ クギイッポン ウテザリシヒト ナリシヲオモフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.49


07996
うるほひて固まる砂と思ふまで鎮まりてありこよひのわれは
ウルホヒテ カタマルスナト オモフマデ シズマリテアリ コヨヒノワレハ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.49


07997
姿なく来るといふこともあるらむか思ひ直してミシンを踏みぬ
スガタナク クルトイフコトモ アルラムカ オモヒナオシテ ミシンヲフミヌ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.49


07998
毛皮もて耳を覆へる写真など出で来て戦争の記憶を返す
ケガワモテ ミミヲオオヘル シャシンナド イデキテセンソウノ キオクヲカエス

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.49


07999
塹壕は何に見えしやたどりつきて落ち込みざまに果てしと伝ふ
ザンゴウハ ナニニミエシヤ タドリツキテ オチコミザマニ ハテシトツタフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.49


08000
山鳩のしき鳴く聴けば戦場の雑木林も芽ぐまむころか
ヤマバトノ シキナクキケバ センジョウノ ザウキバヤシモ メグマムコロカ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08001
浜木綿のもつるる花を見て醒めてもやもやとせり天井の闇
ハマユウノ モツルルハナヲ ミテサメテ モヤモヤトセリ テンジョウノヤミ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08002
台詞の無いドラマのやうな五日経てまだ生きてゐる喉乾きゐる
セリフノナイ ドラマノヤウナ イツカヘテ マダイキテヰル ノドカワキヰル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08003
病室の螢光灯も天井にはりつけられて窮屈に見ゆ
ビヨウシツノ ケイコウトウモ テンジョウニ ハリツケラレテ キュウクツニミユ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08004
窓をあけぬ限りは見えぬ安らぎに椋鳥らしき気配聴きゐる
マドヲアケヌ カギリハミエヌ ヤスラギニ ムクドリラシキ ケハイキキヰル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08005
二十日寝て窓をあくればわが庭の春のもみぢのうすくれなゐよ
ハツカネテ マドヲアクレバ ワガニワノ ハルノモミヂノ ウスクレナヰヨ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08006
待ち時間長くなりつつ家族の無きことなどもつひ言わねばならず
マチジカン ナガクナリツツ カゾクノナキ コトナドモツヒ イワネバナラズ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08007
トラックの停りてあれば思はざる大きタイヤを目の前に見す
トラックノ トマリテアレバ オモハザル オオキタイヤヲ メノマエニミス

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.50


08008
堕天使にはなり給ふなという言葉十年過ぎてをりをり還る
ダテンシニハ ナリタマフナト イウコトバ ジュウネンスギテ ヲリヲリカエル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.51


08009
幾ひらの花びら濡れて貼られたるバッグを膝にしばらく憩ふ
イクヒラノ ハナビラヌレテ ハラレタル バッグヲヒザニ シバラクイコフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.51


08010
雪国は一気に何の花も咲く幼くて見しあんずの花よ
ユキグニハ イッキニナンノ ハナモサク オサナクテミシ アンズノハナヨ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.51


08011
さまざまに縛られてゐむ水晶はつねつめたしと思ひなどして
サマザマニ シバラレテヰム スイショウハ ツネツメタシト オモヒナドシテ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.51


08012
バッテリーライターと謂へり思ひ切り高く焔を伸ばしてあそぶ
バッテリー ライタートイヘリ オモヒキリ タカクホノオヲ ノバシテアソブ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.51


08013
堰さへもみづから作りとどまると未だ残れる力を思ふ
セキサヘモ ミヅカラツクリ トドマルト イマダノコレル チカラヲオモフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.51


08014
降り出づる気配知りつつ起ちがたしもう少しにて見境がつく
フリイヅル ケハイシリツツ タチガタシ モウスコシニテ ミサカイガツク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.51


08015
信号を待つときのまに風の来て和服の人の殊に吹かるる
シンゴウヲ マツトキノマニ カゼノキテ ワフクノヒトノ コトニフカルル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08016
美しき手を持つ少女仰ぎ見て白のベレーをかぶれるも見つ
ウツクシキ テヲモツショウジョ アオギミテ シロノベレーヲ カブレルモミツ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08017
家に待つ仕事思ひて帰る道裾がおもたし冬のコートは
イエニマツ シゴトオモヒテ カエルミチ スソガオモタシ フユノコートハ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08018
劇薬となる分量も意識してのまねば癒えず古りたる傷は
ゲキヤクト ナルブンリョウモ イシキシテ ノマネバイエズ フリタルキズハ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08019
どのやうに高度を測る鴎らか這ひ松の上をすれすれに飛ぶ
ドノヤウニ コウドヲハカル カモメラカ ハヒマツノウエヲ スレスレニトブ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08020
朝霧を透かして山の見え初めぬなづみつつ描く下絵のごとく
アサギリヲ スカシテヤマノ ミエソメヌ ナヅミツツカク シタエノゴトシ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08021
高まりつつ迫れる波のつぎつぎに光の束をほどきて崩る
タカマリツツ セマレルナミノ ツギツギニ ヒカリノタバヲ ホドキテクズル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08022
重量を増して一気に落ちむとし入り日はしばし赤くくるめく
ジュウリョウヲ マシテイッキニ オチムトシ イリヒハシバシ アカククルメク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.52


08023
うすら赤く太れるトマトを押し上げてゐる力など今なら見ゆる
ウスラアカク フトレルトマトヲ オシアゲテ ヰルチカラナド イマナラミユル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.53


08024
太き茎をあらはに倒れし蕗見れば嵐のあとの風生臭し
フトキクキヲ アラハニタオレシ フキミレバ アラシノアトノ カゼナマグサシ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.53


08025
足もとの今淵なせりひとたびは沈まむほどの気概湧き来よ
アシモトノ イマフチナセリ ヒトタビハ シズマムホドノ キガイワキコヨ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.53


08026
ほろびゆく肉体のなか最後まで生きて見えゐむわが目と思ふ
ホロビユク ニクタイノナカ サイゴマデ イキテミエヰム ワガメトオモフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.53


08027
われの名をたれか呼ばぬか同じやうな抑揚に父母はわれを呼びにき
ワレノナヲ タレカヨバヌカ オナジヤウナ ヨクヨウニフボハ ワレヲヨビニキ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.53


08028
いつまでも憶はるることもつらからむアネモネの束を供華に賜ひぬ
イツマデモ オモハルルコトモ ツラカラム アネモネノタバヲ クゲニタマヒヌ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.53


08029
窓ガラスを対角線に切りやまぬ雨見てあれば次第に激す
マドガラスヲ タイカクセンニ キリヤマヌ アメミテアレバ シダイニゲキス

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.53


08030
玉乗りの少女は声をあげむとしいつまで堪へて絵のなかにゐる
タマノリノ ショウジョハコエヲ アゲムトシ イツマデタヘテ エノナカニヰル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08031
幼くて父と行きたるサーカスに火の輪くぐりの獅子などもゐき
オサナクテ チチトユキタル サーカスニ ヒノワクグリノ シシナドモヰキ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08032
舞台の上は萩も芒も枯れ果てぬなまじひに言ひて思ひ伝へず
ブタイノウエハ ハギモススキモ カレハテヌ ナマジヒニイヒテ オモヒツタヘズ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08033
すべあらぬ思ひなれども芽ぶきたる柳などよりはるかになびく
スベアラヌ オモヒナレドモ メブキタル ヤナギナドヨリ ハルカニナビク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08034
遠ざかりゆく帆船の信号に濁れりといふ春のうしほは
トオザカリ ユクハンセンノ シンゴウニ ニゴレリトイフ ハルノウシホハ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08035
双眼鏡の円に入り来る椎若葉一枚づつにほぐれてうごく
ソウガンキョウノ エンニイリクル シイワカバ イチマイヅツニ ホグレテウゴク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08036
あらはなるよろこびに似む風出でて樟の若葉のささめきあふは
アラハナル ヨロコビニニム カゼイデテ クスノワカバノ ササメキアフハ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08037
楕円形の大き鏡に映りゐる階段をたれかとく降りて来よ
ダエンケイノ オオキカガミニ ウツリヰル カイダンヲタレカ トクオリテコヨ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08038
一本の木としてわれを思ふとき花の終りに降る雨寒し
イッポンノ キトシテワレヲ オモフトキ ハナノオワリニ フルアメサムシ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.55


08039
黒板に書かれし数字地殻の持つ思ひみがたき厚みを救ふ
コクバンニ カカレシスウジ チカクノモツ オモヒミガタキ アツミヲスクフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.55


08040
壁面の地図に朝鮮半島もサハリンも滴垂るるかたちす
ヘキメンノ チズニチョウセン ハントウモ サハリンモシズク タルルカタチス

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.55


08041
地表にいまボール一つが残されて外切円をなしてしづまる
チヒョウニイマ ボールヒトツガ ノコサレテ ガイセツエンヲ ナシテシヅマル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.55


08042
ひさびさにピアノ弾かむに今朝のみし薬の匂ひ指に残れる
ヒサビサニ ピアノヒカムニ ケサノミシ クスリノニオヒ ユビニノコレル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.54


08043
菜の花も穂先まで咲きて咲き終へぬ思ひ遂ぐるといふやさしさに
ナノハナモ ホサキマデサキテ サキオヘヌ オモヒトグルト イフヤサシサニ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.55


08044
雨のはれまのあかるき声を渡しゐる陸橋が視野にありて近づく
アメノハレマノ アカルキコエヲ ワタシヰル リッキョウガシヤニ アリテチカヅク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.55


08045
錫いろにひろがりて木々を覆はぬか地にしづまれる一枚の箔
スズイロニ ヒロガリテキギヲ オオハヌカ チニシヅマレル イチマイノハク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08046
雨季迫るきざしかわれの足音のタイルに吸はれ廊を往き来す
ウキセマル キザシカワレノ アシオトノ タイルニスハレ ロウヲユキキス

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08047
人を降ろしまた乗せて発つバスの持つ安定感を振り返り見つ
ヒトヲオロシ マタノセテタツ バスノモツ アンテイカンヲ フリカエリミツ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08048
さまざまに人の訪ひ来て言ふ聞けばイドラのわれはいづくさまよふ
サマザマニ ヒトノトヒキテ イフキケバ イドラノワレハ イヅクサマヨフ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08049
カンテラをとぼして見ゆるものを見む残り少なし光の量も
カンテラヲ トボシテミユル モノヲミム ノコリスクナシ ヒカリノリョウモ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08050
無防備に行くといふにはあらざらむ身に寸鉄も帯びずといへり
ムボウビニ ユクトイフニハ アラザラム ミニスンテツモ オビズトイヘリ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08051
蔓薔薇の棘のさだかに見えゐしがもやだつ雨につつまれゆけり
ツルバラノ トゲノサダカニ ミエヰシガ モヤダツアメニ ツツマレユケリ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08052
夜は夜の仕事にまぎれ日中にありたることのなべて思はず
ヨルハヨノ シゴトニマギレ ニッチュウニ アリタルコトノ ナベテオモハズ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.56


08053
吹き降りの雨となりつつ夜に聴けば風の声のみ折り返しくる
フキフリノ アメトナリツツ ヨニキケバ カゼノコエノミ オリカエシクル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.57


08054
印度更紗の布をひらきぬ目に見えてはかどる仕事こよひはしたく
インドサラサノ ヌノヲヒラキヌ メニミエテ ハカドルシゴト コヨヒハシタク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.57


08055
畳一枚が持てるほどよき大きさに一枚として見つつ驚く
タタミイチマイガ モテルホドヨキ オオキサニ イチマイトシテ ミツツオドロク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.57


08056
渦なして中心のなき思ひよりふと抜け出でて夜明けを眠る
ウズナシテ チュウシンノナキ オモヒヨリ フトヌケイデテ ヨアケヲネムル

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.57


08057
輪郭のほほけて夢にあらはるるまでに古りたり鍵のゆくへも
リンカクノ ホホケテユメニ アラハルル マデニフリタリ カギノユクヘモ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.57


08058
魚の群れに混りゐたれば人間のわが名呼ばれて大き口あく
ウオノムレニ マジリヰタレバ ニンゲンノ ワガナヨバレテ オオキクチアク

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.57


08059
百合活けて壺のおもたき日と気づく顎に触れたる花のつめたさ
ユリイケテ ツボノオモタキ ヒトキヅク アゴニフレタル ハナノツメタサ

『短歌』(角川書店 1978.7) 第25巻7号 p.57