08687
麦畑わづかに熟れてこの町に雲水などは見かけずなりぬ
ムギバタケ　ワヅカニウレテ　コノマチニ　ウンスイナドハ　ミカケズナリヌ

08688
昨日までトラックの来てゐしあたり松の花粉に染まる水あり
キノウマデ　トラックノキテ　ヰシアタリ　マツノカフンニ　ソマルミズアリ

08689
最短距離を知りゐるごとく音もなく渡りゆきたり小さき蛇は
サイタンキョリヲ　シリヰルゴトク　オトモナク　ワタリユキタリ　チイサキヘビハ

08690
春紫苑隙なく咲きて底無しの沼といへども陽に凪ぎわたる
ハルシオン　スキナクサキテ　ソコナシノ　ヌマトイヘドモ　ヒニナギワタル

08691
思はざる視角に入りて弓なりに胴を伸ばしてゐる猫を見つ
オモハザル　シカクニイリテ　ユミナリニ　ドウヲノバシテ　ヰルネコヲミツ

08692
行く雲は捲き毛のやうにほぐれつつ一触即発のときも過ぎたり
ユククモハ　マキゲノヤウニ　ホグレツツ　イッショクソクハツノ　トキモスギタリ

08693
紺いろの皮膜となれる夜の空に飛び火のごとし白の水木は
コンイロノ　ヒマクトナレル　ヨノソラニ　トビヒノゴトシ　シロノミズキハ

08694
われの目もけものの如く光らむかまともに自転車のライトを浴びて
ワレノメモ　ケモノノゴトク　ヒカラムカ　マトモニジテンシャノ　ライトヲアビテ

08695
ひしひしと人の増えくる夢なりき石筍などの立つさまに似て
ヒシヒシト　ヒトノフエクル　ユメナリキ　セキジュンナドノ　タツサマニニテ

08696
手袋を濡らして寒く従きゆきし雪の一夜のありし忘れず
テブクロヲ　ヌラシテサムク　ツキユキシ　ユキノヒトヨノ　アリシワスレズ

08697
さまざまの物を載せ来してのひらにカリフォルニアのさくらんぼ置く
サマザマノ　モノヲノセコシ　テノヒラニ　カリフォルニアノ　サクランボオク

08698
松葉杖は投げ出されゐて病み長き人の乱れを見し思ひせり
マツバヅエハ　ナゲダサレヰテ　ヤミナガキ　ヒトノミダレヲ　ミシオモヒセリ

08699
ペチュニアの目を射る赤さ見て過ぎて思へることのふと遠ざかる
ペチュニアノ　メヲイルアカサ　ミテスギテ　オモヘルコトノ　フトトオザカル

08700
茹でし菜の根元そろへて泳がする鉢の真水の冷たさも良き
ユデシナノ　ネモトソロヘテ　オヨガスル　ハチノマミズノ　ツメタサモヨキ

08701
絹針をはこびて裾を絎けてゆくたのしみなどもいつか失ふ
キヌバリヲ　ハコビテスソヲ　クケテユク　タノシミナドモ　イツカウシナフ

08702
口少しあけて振り向く顔一つ絵巻のなかにありてあざむく
クチスコシ　アケテフリムク　カオヒトツ　エマキノナカニ　アリテアザムク

08703
軍手せる大き手うごき白炭は骨の音してかき寄せられぬ
グンテセル　オオキテウゴキ　ハクタンハ　ホネノオトシテ　カキヨセラレヌ

08704
色褪せてたるみゐにしが直立し青葱はみな花を揚げたり
イロアセテ　タルミヰニシガ　チョクリツシ　アオネギハミナ　ハナヲアゲタリ

08705
温水器の音と気づけどなほしばし地底の音のごとく続けり
オンスイキノ　オトトキヅケド　ナホシバシ　チテイノオトノ　ゴトクツヅケリ

08706
喉元まで水を満たして芍薬を活けて重たき壺となりたり
ノドモトマデ　ミズヲミタシテ　シャクヤクヲ　イケテオモタキ　ツボトナリタリ