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「短歌講座」
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昭和53年10月17日
①B
別画面で音声が再生できます。
大西 ・・・の家に幼子がいて、その中にいるのかどうかってことが分からない。ところが4番のほうでは、自分の家にも幼い子がいて、運動会が待ち遠しかった。何とか晴れればいいなと思っていた。その様子が分かりましょ。だから形は1番のほうが整っている。でも、現実的には、4番のほうが、リアルでしょ。自分の家にも幼子がいて、「本当に晴れるかしらお母さん」、「大丈夫晴れるさ」とかなんとか言って、待っていた、そういう幼子がいる情景というのは、4番のほうが分かりますね。
それから4番のほうの歌では、『長雨やみて秋晴れの日』。ちょっと字足らずですね。『秋晴れの日』。6音でしょ。五七五七七っていうことから言うと、最後の秋晴れの日が6音で、1音足りません。そこのところはなんか補って、きょうは秋晴れ、とかなんとかして、そして7音にきちっとまとめることが大切でしょ。定型の五七五七七っていうのが、歌の歴史を支えてきた大きな魅力のある詩形なので、なるべくでしたら、五七五七七の定型に収まるようにすること、それが第一番でございます。佐藤佐太郎っていう有名な方がいらっしゃいますけれども、佐藤佐太郎さんが1音も余してはいけないという立場をお取りになりました。五七五七七で、きちっとまとまっているのが大事だというふうな先生もいらっしゃいます。それからあの方はアララギの出ですから、写実派の方ですが、それに比べると浪漫派のほうは、どっちかっていうと字余りに、寛大でございます。字が余ってもいいから、内容の豊かなほうがいいという派もあります。ですから、ご自身の好きなようで構わないですが、できれば定型で。収まらないときは、文法間違ったりしないように、字余りになってもきちっと収めると。いうふうなことで、普通いいんじゃないかと思います。ただ字足らずっていうのは損なんですね。せっかく五七五七七と31あるのに、それを使い切らないで残すわけでしょ。損ですから。字余りになるとも字足らずにはならないように、するほうが、得でございます。損得で言ったらおかしいんですけれども、せっかくある音を使わないっていうのは損なことですので、31音はバッチリ使って。2、3余るぐらいが、豊かな感じになるかと思います。
A- (####@00:02:57)。
大西 「は」はいらないかな? この場合、どうですか。
A- (####@00:03:20)。
大西 そうなんですね。運動会の「は」を取ったらいいんですね。『幼らと待ちに待ちたる運動会』。そして、下の句はどうしましょう。『長雨やみて』。どうします。『長雨やみて』。
A- (####@00:03:45)。
大西 きょうは秋晴れ、としますか。『幼らと待ちに待ちたる運動会長雨やみてきょうは秋晴れ』。それでいいじゃありませんか、ね。字余りが、多少あっても、恐れないこと。ただ五七七、最後の7音ぐらいは、きちっと7音でまとめるほうが、収まりがつきます。終わりのほうがタラタラッとなりますと、まとまりが悪くなる感じがしますので、途中が字余りになっても最後の7音はピシッと抑える。とかすれば、声を出して詠んだときに収まるんですね。そのことを心得ておけば、大丈夫です。
それから5番。5番までやったら、ちょっとお休みしましょう。『異常なる暑さ続きしこの夏もゆくと思えばなぜか寂しき』『異常なる暑さ続きしこの夏もゆくと思えばなぜか寂しき』。『こおろぎの奏でる調べ秋の夜に響きて彼岸も近づきにけり』『こおろぎの奏でる調べ秋の夜に響きて彼岸も近づきにけり』。大変この夏は、残暑が続いて厳しい夏でしたから、早く夏が行ってしまえばいいと思っていたけれども、その夏がゆくと思うと、行ってしまうと思うと、やはり何か秋を迎える寂しさが来ると、いうこと。それから、コオロギが、鳴いて、夜の静けさの中に響く。お彼岸も近づいて秋になるのだなっていう感じがする。これは夏から秋への季節の移りの中で、故知れぬ寂しさってなものを感じて歌っていらっしゃいますね。この歌どうですか、皆さま読んで。『異常なる暑さ続きしこの夏もゆくと思えばなぜか寂しき』。『こおろぎの奏でる調べ秋の夜に響きて彼岸も近づきにけり』。どうですか。上手ですね。一言で言えば、上手。これぐらいできれば、あとは内容をね、濃くしていけばいいので。こういう歌がおできになれば、もう大丈夫、でしょ。5番の方は丸があげられると思いますね。丸をあげて、そして、これぐらいの整え方、言葉の整え方がおできになりますと、あとは中身を膨らませたり、濃くしたり、していけば、歌の厚みが増してまいりますからね。まず形を整えることがおできになれば、あとは中身の問題ですからね。それを訓練していけばよろしいのです。
ここのところでちょっと5分間、そこらで休憩して。トイレに行く方は。
<ここから別のものの録音>00:07:02~00:10:25
大西 それじゃ、がんばって、きょう明日あさってのうちに、あと2首お作りあそばして、そして、お届けください。そのほうが、一世一代のお勉強になるかもしれません。きょう申し上げたことを考えながらね、例えば「つつ」って直されたところは「つつ」って間違わないように書いて、それだけでも違いますよ。ですから、ここ十日ばかりの間に4首作ることになるわけですか、それも一つの試練でございましょ。そしてもし歌がおできにならなかった方もね、ぜひいらして、歌が批評されているときは自分の歌だと思って、「ああ」そう思ってね、そしてお聞きになること。私ならこうは書かなかったなと思いながら、聞いていらっしゃればいいんです。ここがおかしいんじゃないかなと思いながら。私ならこうしない。それが訓練でして。どこの歌会行きましてもね、自分の歌のときだけ一生懸命聞いて、他の人の歌のときは知らん顔している人が多いんですけれども、そんなものではなくて、私ならこう歌うなあと、いうふうな感じでいますとね、何十倍も勉強できるんです。よその人の歌も、ゆるがせにしないで、見てみるということですね。私ならこうはしないぞというようなことがあれば、それだけで十分勉強になると思うんですよね。
それでは超特急、そろそろまいりますよ。
6番。『音もなく降る秋雨に遠き日の思い出のみが浮かびくる宵』『音もなく降る秋雨に遠き日の思い出のみが浮かびくる宵』。『輝ける夏の名残かさるすべり色あせし花秋風に散る』『輝ける夏の名残かさるすべり色あせし花秋風に散る』。これは、秋の雨の音の寂しいことに、思い出が、みんな、いろいろ、浮かんでくるけれども、寂しい思い出が浮かんできて、秋の愁いというふうなものを感じるという1首目。それからサルスベリが夏の名残のように色あせた花を散らせているという歌。どちらも季節の感覚に敏感に歌っていらして、いいと思います。
1首目のほうで、『浮かびくる宵』と、名詞止めにしてありますね。宵というのは、夜の浅い頃。まだ早い夜のことで、名詞ですので、名詞止めの歌ということになりますが、名詞止めの歌を、動きが鈍くなるというか、流動感がなくなるというので、避けておっしゃる歌詠みの方がいらっしゃいます。歌は、動詞か、形容詞かで止めるのがいいなんておっしゃる方もいますけれども、その歌によって、名詞止めであろうと、動詞止めであろうと構わないと私は思っております。『浮かびくる宵』であることだなということを補って考えればよろしいのですね。これで秋の季節感っていうふうなもの、秋の寂しさが歌えていると思います。
7番。『若き日の恋の思いを懐かしむ木犀の花香る夕べに』『若き日の恋の思いを懐かしむ木犀の花香る夕べに』。『カーテンを時折り揺する涼風は金木犀の香り運び来』『カーテンを時折り揺する涼風は金木犀の香り運び来』。モクセイの花というのは大変歌に多く詠まれる花でございまして、春はジンチョウゲ、秋はモクセイの花っていうのが、どの、雑誌を読みましても、新聞を読みましても、歌に使われる、一番多い花であろうと思います。万葉集のころはハギの花が1番多く歌われていたんですけれども、最近では、匂いの立つ、モクセイとジンチョウゲが一番多く歌われる歌のように思います。
この7番もいいですね。丸あげてよろしいじゃないでしょうか。『若き日の恋の思いを懐かしむ』。若い、情熱的な、恋愛をした頃があったなと、モクセイの花が香ると思い出すという、そういう昔を思わせるような、花の香りなんですね。2番目のほうは、カーテンを揺する風がモクセイの香りを運んでくるという歌ですが、きちっと歌えています。夏の終わり、秋の初めの頃の風が、モクセイの香を運んでくるということ。その最後の所、『木犀の香り運び来』、という止め方にご注意ください。来るという言葉の文語の終止形は、く、です。こ、き、く、と活用しますから、こういうときに、運びき、なんて読んでは失礼で、運びく、と読みます。口語に直せば、運び来る、ということになりますね。それが文語ですと、運び来、と切ります。これは丸をあげましょう。
8番。『ふるさとの町の外れに一人住母なりし人健やかにあれ』『ふるさとの町の外れに一人住母なりし人健やかにあれ』。『うら若き二十歳(はたち)の君を強いられて母と呼びたり八つのわれは』『うら若き二十歳の君を強いられて母と呼びたり八つのわれは』。これは、大変人生的なことが歌われています。自分が八つのときに、後添いにきたお母さんはまだ20歳で、まだ若かったあなたをお母さんと呼ぶように強いられたことがあった。そのお母さんは、1首目に戻ると、ふるさとの町の外れに1人住んでいるということで、自分のお母さんだった人は、いろいろな思い出もあるけれども、健やかにいてほしい、と昔のことを歌っているんですね。
その、8番の2番目のほうはいい歌と思います。『うら若き二十歳の君を強いられて母と呼びたり八つのわれは』。なんとも言えない、人生の思い出の一こまですけれども、たった20歳にしかならないうら若い人が後添いに来たという、当時のこと。自分はもう八つで物心がついていて、お母さんと呼ぶのがつらかった。それを無理にお母さんと呼ばせられたっけなっていう、そういう思い出をね、歌っていらして。その年月の流れで、その思い出がさまざまに浄化されていって、今1人住んでいるお母さんが、健やかに幸せであってほしいと思うほどになったと、そういう人生の遍歴みたいなものがね、歌われていると思います。そこの『一人住』は「む」をいれないと、ひとりずみと読まれたりしますから、『ふるさとの町の外れに一人住む』、または住み、送り仮名をきちっと入れましょう。
9番。『赤々と燃ゆる入り日を見入りつつ別れきし孫も眺めいるかと』『赤々と燃ゆる入り日を見入りつつ別れきし孫も眺めいるかと』。『履き慣れぬ下駄転ぶなと言いやりし孫アメリカへ一人旅立つ』『履き慣れぬ下駄転ぶなと言いやりし孫アメリカへ一人旅立つ』。1首目のほうは、孫も眺めいるかと「思う」という言葉が省かれていますね。別れきし孫も眺めているかと思う、と思いながら、自分が入り日を眺めているということでしょ。眺めいるかと思うっていうふうなことを勝手に省いてはいけないんです。ですから『眺めておらん』と言ってしまえばいい。『赤々と燃ゆる入り日を見入りつつ』。入り日に、ですね。『入り日に見入りつつ別れきし孫も眺めておらん』と。いるだろうと切ってしまったほうがいいです。いるかと思うということを勝手に、略さないこと。『眺めておらん』とすれば、それで収まりましょう。
2首目のほうは、『履き慣れぬ下駄転ぶなと言いやりし』。これはアメリカへ行くお孫さんへ、下駄をあげたのでしょうかね。それとも小さかったときに、小さかった頃に、転ぶなと言ったりしてやったっけが、その孫が大きくなって、アメリカに行ったと、いうことかな。そうすると、言いやりしっていうのは幼かったころの過去のことで、そして孫が成長してアメリカへ行ったという現在のこととの隔たりを歌ってらっしゃることですね。この2首目のほうは、丸があげられると思います。何かそういう日本をアメリカ、そこに介在する下駄みたいなものがあって、面白いと思います。
10番。『ありし日の父に酌むごと墓石に酒かけし子の瞳ぬれおり』『ありし日の父に酌むごと墓石に酒かけし子の瞳ぬれおり』。『夜を徹し吾子(あこ)を看取りし母の背にいたわるごとき日差し柔らか』『夜を徹し吾子を看取りし母の背にいたわるごとき日差し柔らか』。1番の歌は、お父上が、お酒の好きな方だったので、亡くなった後も、お墓にお酒をかけてあげる。そのお酒をかけてあげながら、子どもの目が潤んでいた、というのですね。2首目のほうは、夜通し、子どもの看病をしたお母さん、朝の日が昇ってきて、その日が、いたわるように背中を照らした、という歌ですね。
『吾子を看取りし母の背に』。これは、吾子というのは、作者のどなたでしょうね、そこんとこ分かりますか。『吾子を看取りし母』。作者はどこにあたるかな。どなたでしょうね。そこのところ少し。そうすると、母は妻っていうことね。イコール妻。少し分かりづらいですね。もし吾子を看取ったのが作者であるならば、われの背にになりますね。われの背になる。母の背というところ、母の存在がね、少し分かりづらいところがある歌。
それから1首目のほうでは、お墓にお酒をかけてあげるっていうのは、よく、北原白秋がお酒が好きだった人なので、よくお墓参りのときには白秋の、お墓には、お酒をかけてあげる、しきたりのようですけれども。そういうことをよくしますけれども、この『瞳ぬれおり』まで言ったほうがいいのかどうかね。お酒を注いでお墓参りをしたっていうところで抑えておくほうがいいのかもしれない。『ありし日の父に酌むごと墓石に酒かけし子』っていうふうな、一つの具体的な事実がありますから。かけた息子の瞳がぬれていたところまでね、あんまり言ってしまうと、少しくどくなるような気もしますね。お酒をかけて、弔ったという歌で、抑えたほうがいいのかもしれませんね。そんな気がしないでもありません。
11番。『亡き人に似たもう羅漢ありと聞きそを求めて山路を下る』『亡き人に似かよう羅漢ありと聞きそを求めて山路を下る』。『喜びもまた悲しみもさりげなく五百羅漢はうつし世にます』『喜びもまた悲しみもさりげなく五百羅漢はうつし世にます』。五百羅漢とか十六羅漢さんとかありますけれども、必ず探していくと、亡くなった人に似ている面影があるということをよく申しますね。そのことを聞いて、面影を求めて山路を下っていったという1首目。それから、現実に見た五百羅漢は、喜びも悲しみもさりげないご様子で、うつし世に鎮座しておられたと、いうことを歌っていらっしゃいます。
ここで、『そを求めて』。「そ」っていうのが少し不安定な感じがいたします。むしろ、面影を求めてとかしちゃったほうが、いいかもしれない、ね。『亡き人に似たもう羅漢ありと聞き面影を求めて山路を下る』とかなんかして、「そ」っていうふうな熟さない言葉を避けたほうがよかったかもしれません。『面影を求めて山路を下る』、というような直し方があると思います。11の2のほうは、丸が差し上げられると思います。『喜びもまた悲しみもさりげなく五百羅漢はうつし世に』、おわすと読むか、ますと読ますか分かりませんが。
12番。『温かき人の心を織り成して今に伝わる千代紙ぞゆかしき』『温かき人の心を織り成して今に伝わる千代紙ぞゆかしき』。『松の実は一つだに形異として天然の技人は及ばず』『松の実は一つだに形異として天然の技人は及ばず』。これは優しい心を持っている方の歌だと思います。千代紙の折り紙というふうなことを、心を惹かれて思っている。そして昔の人の心をそのまま伝えて、今も千代紙を折るというふうな技が伝わっているし。松の実を見ると、一つさえ同じ形がない。こんなふうに違ったものを次々に作ることは、人間技ではなくて、やっぱり天然の、神様の仕業だなと思ったということですね。これなども、両方とも作者の温かい人間味みたいなものがうかがわれると思います。ただ『千代紙ぞゆかしき』、最後の所、字余りになっておりますでしょう。五七五七七の最後の所は、字余りにすると、歌いづらくなるということ。それをお気を付けください。『今に伝わる千代紙ゆかし』で構わないんじゃないですか。千代紙ゆかしと、あっさり抑えても。『今に伝わる千代紙ぞゆかしき』と、特に強調しなくても、『今に伝わる千代紙ゆかし』と抑えてもいいと思います。ゆかしっていうのは懐かしいとか行ってみたいとかいうことですから、ゆかしという言葉でいいと思います。
そこちょっと変ですね、『異として』。みんな違うということを言おうとしてらっしゃるんですけれども、『松の実は一つだに形』同じからずということなんですね、本当はね、同じくはないということ。そこのところはうまく言えてない、ところがありますね。『一つだに形異として』、そこのところ、作者お考えください。一つも同じものがないってことを言おうとしてるんですが、これでは言えてないということです。時間がないから特急でいきます。
13番。『狭庭辺の片隅明るく曼殊沙華かんざしなして今盛りなり』『狭庭辺の片隅明るく曼殊沙華かんざしなして今盛りなり』。『幸せよしばしとどまれ小春日の蜻蛉は縁に羽を下ろしぬ』『幸せよしばしとどまれ小春日の蜻蛉は縁に羽を下ろしぬ』。13番の1のほうは、マンジュシャゲの感じを、かんざしのようだと例えていらっしゃいますね。マンジュシャゲもよく歌に歌われる歌の一つになっていますが、『かんざしなして今盛りなり』、この歌い方お上手です。『狭庭辺の片隅明るく曼殊沙華かんざしなして今盛りなり』。かんざしのように、咲いて、今盛りに美しい。これは丸があげられると思います。