③A

 
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大西 このかんざしなしてという言葉にもし漢字を当てれば、如くという字になります。ということは、かんざしの如くに、かんざしのようにという意味のなしてという言葉です。だから、かんざしなしての他にいろいろ使えると思います。幻なしてというような言葉をよく使いますが、幻のようにということですね。あんまりなしてなしてと言っても困るんですけれども。花なして笑うって言えば花のように笑うっていうことになりますでしょ? そういうなすというような言葉を覚えとくと、割に使いいいんです。
 で、この2番目のほうは、小春日の中のトンボ。カゲロウかな、トンボかな。トンボが、縁の先に羽を下ろした。それを見ていて、ふっとその平和な静かな感じが来たのでしょう。それで、その幸せよ、しばらくとどまれという感じになった。2番も、丸あげていい歌ですね。『幸せよしばしとどまれ小春日の蜻蛉は縁に羽を下ろしぬ』。13はよろしいでしょう。
 14番。『いちはつの花咲きいでし清しさに憂い忘れてしばしを経てり』『いちはつの花咲きいでし清しさに憂い忘れてしばしを経てり』。『もの言えど何も答えぬ子となりて世のつれづれの一人は寂し』『もの言えど何も答えぬ子となりて世のつれづれの一人は寂し』。イチハツの花。咲いたとき美しい、端正なお花ですけれども。憂いを忘れるようにしばらくたたずんでいたという1首目。これは丸でよろしいでしょう。2番目のほう、『もの言えど何も答えぬ子となりて世のつれづれの一人は寂し』。このお子さんはどうなった? 『もの言えど何も答えぬ子となりて』。どういうことか。亡くなられた? それとも、反抗期? どっちか。
 
A- (####@00:02:23)。
 
大西 そこら辺ね。何も答えぬ子となるっていうことはね、お母さんに逆らって何も言わないのか。それとも、亡くなってもの言わないのか。どっちかなって不安になってしまうの。もし反抗期でものを言ってくれないのならばね、そのことを言わなきゃなりませんね。例えば私なら、『部屋を隔てて一人は寂し』とかね。お部屋を隔ててしまってもう、交渉がないというようなことを言えば、生きているということ分かりますよね。なんか、そういうの、誤解されないように気を付けること。ものを言わなくなったっていうことは、ある意味では死んだことを意味しますからね。だから気を付けて。『もの言えど何も答えぬ子となりて部屋を隔てて一人は寂し』とかなんかすると、背中合わせでもいいですけれども。何か具体的なことを言ったほうがね、その寂しさがかえって出ますでしょ? ふすまを隔ててでもいいし。背中合わせにでもいいし。何か具体的なことを言って、そしてその、肉親で一緒にいるのにものも言わない寂しさ。というのは、離れているよりも寂しいことかもしれませんわね。そういうようなことを強調する。ということを考えれば、この歌もっと良くなりますでしょう?
 15番。『紅の薔薇の一ひら地に落ちぬ去りにし友の思いのごとく』『紅の薔薇の一ひら地に落ちぬ去りにし友の思いのごとく』。『おのがじし生きざま踏まえて働きぬ五十路に近き身をいたわりつ』『おのがじし生きざま踏まえて働きぬ五十路に近き身をいたわりつ』。1番のほうの歌は大変美しく歌っていますね。真っ赤なバラの花びら一ひらが土に落ちた。それは去っていった友達の思いのようだ。と、大変理解して歌っていらっしゃる。ただ、友の思いのごとくだけでは具体的なこと何も分からない。そういううらみが少しあると思います。美しく歌われていますけれども、去りにし友の思いって一体何だろう。少し分かりづらいところがありますね。
 それから2番目のほうは、『五十路に近き身』って書いてありますから、もう、40過ぎてしまった方の、おのがじしっていうのは、おのおの、銘銘ということですね。銘銘に。生きざまっていうのは、生き方でしょうね。生き方を踏まえて働いている。もうみんなそれぞれ自分自身を確立して、そして、50に近い身を励ましながら働いているのです、ということを歌っていらっしゃる。これも少し抽象的。もう少し何か具体的に分かると、おのがじしって言ったって、誰と誰なのか。例えばご夫婦なのか、例えば友達なのか。そこのところ、少し分かりにくいところがあります。
 歌っていうのは、あんまり分かり過ぎても面白くないんですけれども。分かりにくくても謎。鍵のない謎を仕掛けられても面白くない。やっぱりどっかに解く鍵があればね、その鍵を使って謎を解く喜びがありますでしょ。その謎を秘めながら鍵も入れとくというふうな、そんな歌い方が歌の魅力になると思うんです。一首の歌の鑑賞っていうのは謎解きの遊びでして、何のことを歌っているのだろう。ああ、これだっていうふうなね。鍵があるほうが歌を詠むのは面白うございます。15番の歌で少し、その鍵の所在が分からないところがありました。
 16番。『秋風にかそけく揺れ咲くおみなえし我が生きてこし姿にも似て』『秋風にかそけく揺れ咲くおみなえし我が生きてこし姿にも似て』。『金の花撒きたるごとく散り敷きぬ木犀の香に秋深みゆく』『金の花撒きたるごとく散り敷きぬ木犀の香に秋深みゆく』。1番のほうの歌は、お丸あげられると思います。秋風の中で、オミナエシっていう花は淡い黄色の目立たない花ですが、丈高く咲いて、そして細々として、風に揺れやすい。そんなのを見ていると、自分の生きてきた姿にも似ているな。それほどか細く揺れやすく生きてきたな、という女の人のため息みたいなもの。そんなものを少し感じさせると思います。
 それから、モクセイの落花っていうのを歌うことも多いのですが、『金の花撒きたるごとく散り敷きぬ木犀の香に秋深みゆく』。これは、誰か有名な人、詩人の詩に、年の秋っていうのは、モクセイの花が撒いた金の輪の中からやって来るっていうふうな詩があるんですね。金の花を撒いた。その撒いたのが輪になって、モクセイの根元を描くでしょう? 輪の中から来るっていうふうな詩の言葉があるんですけれども、『金の花撒きたるごとく』ではちょっと、そんな詩に比べると物足りないんじゃないかな。その詩の言葉を借りれば、『金の輪を置きたるごとく』とかなんかしたほうがもっと鮮やかになりませんか。金色の輪。金の輪を置いたように。置きたるごとく。仮初めに有名な詩を借りるわけなんですけれども。『金の輪を置きたるごとく散り敷きぬ』、ていうふうにして、その場面を印象深く描くことが大切だと思いますね。
 17番。『とりどりの残り毛糸を広げれば子育ての長き日々が立ち来る』『とりどりの残り毛糸を広げれば子育ての長き日々が立ち来る』。『残り糸を編みつなぎゆくモチーフよわが残生もかくつづりたし』『残り糸を編みつなぎゆくモチーフよわが残生もかくつづりたし』。この17番は2首とも具体的なところがよろしいと思います。丸をあげられると思います。子どもたちを何人か育ててきたために、それぞれに編んであげた毛糸の残りがあって、それを広げると、それを広げてモチーフを編んでいくわけですけれども。その毛糸を広げるとさまざまな色が出てきて、そして、それぞれの子どもにケープを編んでやったとか、靴下を編んだっけとか。何かいろいろ思い出が一つ一つの毛糸の色にあるわけで。その子育ての長かった月日が次々に思い出されるし、それから、残り毛糸をつないで、編んでいくんだけれども、花の形のモチーフなのでしょうね。そういう、残っている生活は短いけれども、その残り毛糸が生きるように作者の生活も生かしたい。そういうふうなことを残り毛糸に寄せて歌ってらっしゃる。この歌い方は工夫されていると思いました。
 
B- (####@00:11:01)。
 
大西 ですね。はい。文語で言えば広ぐれば。広ぐればになります。ただ、何というのでしょうか。下二段活用の文語っていうのは、広げ、広げたり、広ぐ、広ぐるとき、広ぐればとなりますが、現代の言葉にあまり使わなくなってきているんですね。ですから、広ぐればっていうのが正しいんだけれども、広げればでもいいんじゃないかなと思ったのでお直ししなかったんです。正しくは広ぐればになります。で、それを厳密に使いたい人は、やっぱり広ぐればと下二段をきちっと使うのがよろしいですし。それから、広ぐればって言っても若い人はもう分からなくなっていますから、若い人にも分かりやすくというような気持ちから、広げればと使うことも許されているんですね。最近はね。
 それから18番。『見開きままのほこりまみれの紫の小さき花のしおり悲しき』『見開きままのほこりまみれの紫の小さき花のしおり悲しき』。『思い果てプリズム通し逆転の流れ星一つ白き円環』『思い果てプリズム通し逆転の流れ星一つ白き円環』。1首目と2首目は、少し発想方法が違うでしょう。1首目のほうは、見開いたままの本に挟まれてあった紫の小さい花のしおり。それがほこりまみれになっているのは悲しいと歌っています。2首目のほうは、プリズムを透かして逆転の流れ星が一つ白い輪を描いて流れた。ちょっと加藤克巳さん風の発想が2首目には見られると思います。何か心象風景のような、逆転の流れ星が流れたのです。こんな歌い方も面白いですね。この冒険に丸をあげましょう、『思い果て』のほう。
 それから19番。『梔子の甘き香りの雨の午後心安らぐひとときもあり』『梔子の甘き香りの雨の午後心安らぐひとときもあり』。『うつろなる瞳に涙ためていし苦しみ消えし旅立ちし日は』『うつろなる瞳に涙ためていし苦しみ消えし旅立ちし日は』。1番のほうは、クチナシの香りが出てきて、雨の午後クチナシが匂うと心が安らぐようなひとときがあるという歌。これはこれでよろしいでしょう。2番目のほうは、印刷された字を読んでいて何に気が付きますか。「し」という言葉がすごく多いじゃない? 『うつろなる瞳に涙ためていし苦しみ消えし旅立ちし日は』。ね? 「し」という言葉は少し強い言葉なので、あんまり一つの歌の中に多く出てこないほうがよろしいでしょう。例えば、消そうと思えばいくらでも消えるわけで。『うつろなる瞳に涙ためていつ』と、一つ消えますね。で、『苦しみ消えて旅立つきょうは』とか。何か書いてみて、同じ字が重なるようなときは、声を出して詠んでみて、その音が気になるようだったら消していく。そういう操作も歌を作る上では必要でございます。
 佐佐木信綱の、「の」という字をやたらと使った歌、『薬師寺の塔の上なる一ひらの雲』って歌がありますけれども、そういうふうにわざとする「の」の場合は別ですが、知らず知らずのうちに同じ音を使っていることがあるものです。そういうときは書いてみたり、声を出して詠んでみたりしてそれを直していく必要がございます。
 20番。『更くる夜を一人静かに物思う母を送りてふたとせの秋』『更くる夜を一人静かに物思う母を送りてふたとせの秋』。『虫の音のむせび泣くよに思ほゆる母恋うる夜の切なきまでも』『虫の音のむせび泣くよに思ほゆる母恋うる夜の切なきまでも』。1番のほうは丸があげられると思います。『更くる夜を一人静かに物思う母を送りてふたとせの秋』。2年たっていよいよ寂しくなったお母さんの思い出なんですね。それから2番目のほうは、『むせび泣くよに』、そこおかしいでしょうね。『むせび泣くごと』とか、ごとくとか。『虫の音のむせび泣くごと』、ごとくとか。よにっていうのは、ようにということを詰めて言ってらっしゃいますが、歌の言葉に熟しませんから。『虫の音のむせび泣くごとく思ほゆる』。ごとくと思い切って入れましょうか。『母恋うる夜の切なきまでに』としましょうか。『虫の音のむせび泣くごとく思ほゆる母恋うる夜の切なきまでに』とでもしてまとめましょう。
 21番。『馥郁と香り漂う木犀を惜しまず手折り夫(つま)に手向けん』『馥郁と香り漂う木犀を惜しまず手折り夫に手向けん』。モクセイの枝を惜しむことなくたくさん折ってきて、亡くなったご主人の霊に手向けようという1首の歌。馥郁とっての少し陳腐な感じね。香りっていうと馥郁、すぐきちゃうでしょ? それはモクセイに限らず何にでも使う言葉ですので、モクセイらしい何か匂いの形容詞があれば、それを使うほうがようございます。馥郁とっていうのは常套的な感じ。
 それから、『山好きの息子のズボン繕えば知らぬ草の実ここにかしこに』『山好きの息子のズボン繕えば知らぬ草の実ここにかしこに』。ここの最後の所、ここにかしこにがないといいんじゃないでしょうか。『山好きの息子のズボン繕えば知らぬ草の実あまた付きいし』とかして、たくさん付いていた。『知らぬ草の実あまた』、たくさん付きいし。とでもしますと、山好きの子どもが、ヤブジラミとかいろんな草の、人によって運ばれる草の実がありますね。それを運んで歩いてきた。そういう息子が一層いとおしくなるというな感じが出ますでしょう。『山好きの』のほうはそうお直しして丸を差し上げたいと思います。『知らぬ草の実あまた付きいし』として、少し余情を残す。
 22番。『脱ぎゆきし夫(つま)のパジャマを子に掛けいる産褥の嫁の心根哀れ』『脱ぎゆきし夫のパジャマを子に掛けいる産褥の嫁の心根哀れ』。お嫁さんが赤ちゃんを産んで、まだ休んでいるのですね。そこへご主人が出勤をするのでパジャマを脱ぎ捨てて出掛けていく。それを子どもの上に掛けてお父さんの愛を掛けようとしているのでしょうかね。そんな嫁の心根が哀れであると歌ったおしゅうとめさん。
 『子に頼む嫁の心のいじらしくわれの疲れは言わで看取らん』『子に頼む嫁の心のいじらしくわれの疲れは言わでに看取らん』。このほう、終わりのほうの歌に丸があげられると思います。産褥のお嫁さんの気持ちを思うと、せがれ、自分の息子にひどく頼っているような様子が見える。それがなんともいじらしく感じられる。それを見取っているしゅうとめである作者もつらいけれども、そのお嫁さんの気持ちを思いやって、疲れたなんて言わないで看護してあげようと歌っている。心情があふれていると思います。本当はこういうときにせがれさんにあまり、依存しますとおしゅうとめさんはやきもちを焼くわけですが、このやきもちを焼かないで、そして、看取ってあげようとする。そういう己を正した歌い方をしていらっしゃると思います。
 23番。『しぼみたる白き木槿に似し母よ老いは深々とわれに移り来』『しぼみたる白き木槿に似し母よ老いは深々とわれに移り来』。なんか白いムクゲの花がしぼむのは、私はよく見ましたが、万葉植物園やってる頃に、ムクゲっていう花は、アサガオのことだっていうことでムクゲを育てたことがありましたが、白いムクゲがすぼむときっていうのは大変寂しいものですね。その白いムクゲがしぼんだような感じでお母さんが年取っていかれる。その老境というものを日に日にと作者は感じるというのでしょうね。『深々とわれに移り来』、母の老いを自分の老いのように悲しんで深く受け止めている。それを感じさせます。この二つともいい歌ですね。両方とも丸をあげて、2番目の歌。
 『のんどのしわひくひくとして麦茶飲む母は悲しみを飲み下してや』。『飲み下してや』がいけませんね。『飲み下すごと』でいいんじゃないですか。『のんどのしわひくひくとして麦茶飲む母は悲しみを飲み下すごと』。ようにという意味ですね。お母さんが麦茶を飲む様子を見ていると、喉の通りもあまり良くなくて、喉のしわがひくひくとして痙攣するように見える。そのお茶を飲むときさえつらい老いの姿を見ていると、なんかお母さんは老いの嘆きを飲み下すようにお茶を飲んでいる感じがする。その老いの姿をいかにもよく見て歌っていると思います。だんだんお年寄りの多い社会になりますので、こういう自分の老いも含めて、老いというものを立派に老い遂げていくということが歌の上でも大切になるように思うんです。
 24番。『月食を見んと夜更けの庭にいでて虫のすだきの大きさに驚く』『月食を見んと夜更けの庭にいでて虫のすだきの大きさに驚く』。虫のすだきが大きいっていうこと言えるかな? 虫がすだく、集まって鳴く。大きい。あまり言わないかもよ? 『虫のすだきが繁(しげ)き』と言うかな。繁きに驚く。『月食を見んと夜更けの庭にいでて虫のすだきの繁きに驚く』。これで丸ができますでしょう、月食の歌。月食でも見ようとしなければ夜中の庭になんか出ませんが、出てみたら虫が大いにすだいていたというのですね。すだきが大きい小さいとは言わないと思うんですね。虫のすだきが繁、繁きに驚くということで落ち着くと思います。
 『全ての戸サッシになりていつしかに虫の声さえ遮りいたり』『全ての戸サッシになりていつしかに虫の声さえ遮りいたり』。これも丸ができますね。いつの間にか便利なサッシ戸になって、全部の戸がサッシになってしまった。そうしたら、気が付いてみたら、サッシの戸によって雨風も防げたけれども、虫の声も遮ってしまっていたのだわ、という、文明の世の中の哀れさみたいなものね。それに気が付いた歌ね。そういうことでしょう。ちょっと時間がオーバーしますが、お許しください。
 25番。『捕らう蝶籠より放つに幼孫うなずき飛べばママへ行ったよと言う』『捕らう蝶籠より放つに幼孫うなずき飛べばママへ行ったよと言う』。『ママよりもばあちゃん好きと嫁さんにわれのお話よある朝の孫』『ママよりもばあちゃん好きと嫁さんにわれのお話よある朝の孫』。すごくかわいいでしょう。ね? お孫さんのことを懸命に歌っていらっしゃる。恐らく、初めて作った歌なんじゃないのかな? この作者。
 2番目のほう、『ママよりもばあちゃん好きと嫁さんに』。ママよりもおばあちゃんのほうが好きなんだって、お母さんに自分の話をしている。はらはらするんだけれども、お孫さんはかわいいという感じ。それから、1首目のほうよく分からなかったんですけれども、いったん捕らえたチョウチョを、籠より放った。そして、放してあげようよと言って放してあげて、飛んでいったとき、幼い孫は、行っちゃったよってチョウチョウの行方を指さしたっていうふうな歌でしょうかね。
 情景が両方とも見えるように歌われているんです。こういうところから歌が出発していって、孫の優しさ、孫のかわいさ。それから、チョウチョウいったん捕ってもまた放してやる、そんないじらしい様子。そんなものが思うように描けるようになると、いいと思うんですけれども。まだここ出発点ね、スタート。そのまんま歌っていらっしゃる。この言葉の順序を整えたり、それから、口語で言ったとおりに話してあるところを文語に歌らしい言葉に直したり、というところから歌が整っていくのですね。その元になる歌だと思いました。これ恐れないで、次の2首を作っていただきたいと思います。
 26番。『空青く飛ぶ赤とんぼの尾に触るる花鶏頭はいよよ萌え立つ』『空青く飛ぶ赤とんぼの尾に触るる花鶏頭はいよよ萌え立つ』。真っ青な空、赤とんぼ、アキアカネっていうとんぼですね。それが尾を触れながら飛んでいくと、その尾を触れられたせいのように、ケイトウの花がいよいよ赤く萌え立って美しいという歌です。26の1のほうは鮮やかな歌で、丸があげられると思います。色の鮮やかな歌。さまざまな切り取り方があって、この歌では、色っていうことを焦点に当てて歌っていらっしゃると思います。
 『傘を打つ雨のリズムに合わせつつ歌口ずさみ煙る野を行く』『傘を打つ雨のリズムに合わせつつ歌口ずさみ煙る野を行く』。雨の中を物憂いとも思わずに、何となく楽しく歩こうとしている。そして、傘を打つ雨の音に合わせながら、何か歌を歌いながら過ぎていこうとしている。そんな軽やかな歩みを感じさせる歌だと思いますね。これも丸をあげましょうか。『傘を打つ』。
 それから、27番。『都会では聞くことのなき谷渡りひねもす森より聞きて安らぐ』。安らぐですね、ぐ。くに点。都会では聞くこともなくなったウグイスでしょうか。ウグイスの谷渡りの音。声。それをひねもす森から聞いて、何となく都会にはない安らぎを感じたというのですね。これも丸でいいでしょう。
 『巻物をせし軟らかい土掘り返す子猫や足の土払いいる』『巻物をせし』・・・。