目次
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「短歌講座」
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昭和53年10月24日
④B
別画面で音声が再生できます。
大西 それから、階を、として、そのままかいと読んでも構いませんね。『地上への階を探して』。「を」と一つ入れれば字足らずが決まりますでしょ。『階を探して歩き回る』。階段のことをかいと言ったり、きざはしと言ったり、いろいろいたしますので、階を探してとしてくだすっても構いません。階段探してでもいいし、それからきざはしと読んでくだすっても結構です。これも丸でよろしいでしょう。
よく夢を見て、私もよく夢を歌うんですけれども、夢というのはね、私たちの平凡な生活の中では大変大事な歌の材料だと思うんです。私がよく夢の歌を歌いますと、「毎晩夢見て寝るんだね」って言われるんですけれども、私自身とすればその夢を本当に見たというよりか、自分の夢を作ることがございます。現実の自分にないことが夢の世界ではできますでしょう。だから、ちょっとした夢を少し誇張したり拡大したりデフォルメしたりして、そしてその夢をいかにも見たようなことを歌うことによって、生きている不安とか喜びとか、そういうものを表すことができるんですね。ですから、夢っていうのは非常に歌にとって大きな材料ですので、夢を大事にしていただきたいと思います。実際に睡眠中に見る夢はもちろんのことですが、日常に醒めていて描く夢、それも大事だと思います。
私、四国に足の全然動かない友達がいるんですけれども、その人の歌は、始終野原を飛び回った歌を作られるんです。それは夢を見たと歌っていらっしゃるんですけれども、現実には一歩も歩けないような足の不自由な人なんですけれども、歌の世界では跳ぶことも跳ねることもできる、そういう夢というものを、現実の夢と同時に睡眠中に見る夢も大事にして歌の素材に生かしていただきたいと思います。
夢の世界では亡くなった人も戻ってきますし、それから思わぬ深い地底に自分がいたりする、この人の夢のようなね。いろいろな夢を大事に歌に生かしていただけば、現実の世界にない、さまざまなことが広がっていくと思います。自分の実際に肉眼で見たことだけ、聞いたことだけっていうことに歌を絞ってしまいますと、割に平凡な暮らしをしている者にとっては歌の素材っていうのは大変狭くなってしまうんですね。ですから、例えばテレビで見た画面でも、ああ、あんな所歩いてみたいと思ったら、そういうことを歌ったって構いませんしね。
私は、歌ができなくなるとよくテレビを見てるんですけれども、声を出しますと、どうしてもストーリーを追っ掛けてしまって画面を見ないでしまって、粗筋を追うことになりますので、音を消してテレビを見ているんです。そうしますと、荒波の上に船がこう行ったりね。それから、人形芝居でも、お人形さんって面白いこう動きをしますでしょう。『紅孔雀』っていう子どもが見ます番組でもね、音を消して見てますとね、お人形さんって面白いんですよね。そんなところを見ましたり、それから西部劇ですと砂漠が出てきて竜巻が起こったりしますでしょう。そういうのを音を消して見ていると、じっと見ることができるんですね。そして、いつの間かその砂漠を歩いている人間が自分であったり、それから落馬して馬から落ちて死ぬ場面なんかがあると、あ、もしあれが私だったらと思ったりしましてね。無限に画面から夢が広がっていくんですね。
だから、歌ができなくなったときにはさまざまな工夫をいろいろ専門家もすると思いますけれども、そういう工夫をして、いつか見た夢を歌にしたり、それからテレビで見た画面に自分を乗せてみたりするとね、幾らでも素材は広がると思うんです。
そうしていきませんと、本当にきょうも買い物に行ってスーパーへ行ったら物は高かったとか、それからキャベツ買ったら重たかったとかね。それから、帰ったら子どもがもう帰って泣いてたとかね。そういう歌にしかならないんですよね。ですから、歌の領域を広げるためにいろいろやっぱり工夫することが必要で、それはその人その人の限られた時間と生活がありますから、むやみなことできませんでしょう。旅行に行きたくたってそうは行けない、だったらばテレビ旅行をすればいいので。あるときは音を消したり、それから私は、あるときはステレオで音楽を流しながら全然違ったテレビを見たりするんです。そうすると、また別な世界が開けますでしょ。そんなことをしながら、歌の幅を広げていくということが大事だと思います。
それから、このカベルネっていう初めて聞く言葉で思い出したんですが、きょうの『秀歌を読む』の1首目、ちょっとごらんになってくださいますか。
『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』。岡井隆さんっていうのは、前衛の塚本さんと並んで寺山さん3人が前衛作家と言われているんですが、岡井さんはお医者さまなんですね。そして、レントゲンで見たら肺尖、この肺の先のほうですか、の所に、この人は空洞のある人だった。あなたの肺尖には空洞があって、あなたは重い病気ですよと病人に告げなければならないんだけれども、その告げようとしてたわむ言葉がためらったということをこういうふうに歌ってらっしゃるんです。お医者さまとして相手に病気の実情を告げるということはつらいことで、あなたの肺尖には空洞があります、そう告げようとして、相手の気持ちを推し量ってなかなかうまく言えなかったということを、こういうふうに岡井さんは表現しているんですね。
この歌の批評した文章を読みますと、多分この人は若い女性の患者であって、そしていかにもその肺尖が病んでいるということが、昼顔の花が燃えているという感じのそういう病人ではなかったのかというふうな批評が書いてありましたけれども、お医者さまの側から言えばこういうふうな歌い方、そしてなんともいえないお医者さまの優しさっていうふうなものが出ているんですね。相手にそのままズバっとあなたの病状はというふうなことを言うにしても、ためらいがあって、なんと告げたらいいものだろうっていうふうな、歌詠みのお医者さんらしい、たゆたいというふうなものをこの一首は歌っていると思いますが、同じ病気でもさまざまな歌い方があるのですね。
こういう言葉のテクニック、前衛の人たちが大変巧みなのです。『肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は』、本当に美しい歌ですね。中身はぎょっとするほど恐ろしい歌なわけですね。そういうさまざまな歌い方があることを、だんだん見聞を広げていきますと分かっていらっしゃると思うのです。
それから、4番の歌。『そのかみにマルクスの書を持ちしきに強制志願兵にて北支に果てり』『そのかみにマルクスの書を持ちしきに強制志願兵にて北支に果てり』。『さりげなく啄木の歌集を置きしまま北支にゆきて君は帰らず』『さりげなく啄木の歌集を置きしまま北支にゆきて君は帰らず』。これは、30数年前の戦争の痛みというものを今に保っていらっしゃる方の歌でございますね。その昔はマルクスの書などを持って、マルキストを任じていたようなあなたであったが、強制志願兵というような徴発を受けて、そしてそのまま北支に行き亡くなってしまったことでした。その人はさりげなく啄木の歌集を残していって、そして北支で亡くなってしまった。これも両方とも丸でいいでしょう。
戦争というものは、人間の自由も人間の思想も踏みにじった、すさまじい、長い戦争だったのですけれども、その人の持っているマルキストの思想などというものも踏みにじられ、戦争反対というようなことも踏みにじられて引っ張られていって、そして亡くなってしまった。そういう残された者の悲しみというものを今も持っていて、歌わずにはいられないのですね。
そこで、『北支に果てり』、この「り」がいけないんだね。「り」という言葉は、四段活用の已然形にしか使えないんですね。果てん、果てたり、果つと活用する言葉ですから下二段活用、だから「り」は続かないんです。果てたり、とかしなきゃならないので、果てたりでは字余りになりますでしょう。だから、果てぬでいいんじゃないでしょうか。『強制志願兵にて北支に果てぬ』。
そういう助動詞の使い方などというものは、だんだん今では身に遠くなっていまして、特に若い人は助動詞の活用が大変下手でございます。私が万葉植物園で働いていましたときに、万葉植物の梅の花の所に立て札を立てて、『梅の花咲きぬ』っていう立て札を立ててあったんですね。大学生が2人来て、「咲きぬっていうんだから咲かないんだよな」って言っているんですね。それで、「どうしてだ」って言ったら、「『ぬ』っていうのは否定の助動詞なんだから、咲きぬっていうのは咲かないってことなんだ」って言ってるのを聞いてびっくりしたんですけれどもね。大学生でも、咲きぬっていったら咲いたことですよね。咲かぬっていったら咲かないことでしょ。その区別が分からないんです。「ぬ」があれば否定だ、咲きぬっていうんだから咲かないんだっていうので、それぐらい助動詞の活用なんていうのはもう私たちの生活から遠くなっていますから、どんどん難しくなっていきますけれども、「り」っていう助動詞は四段活用にしか付かない。四段とかサ変とかナ変とか、そういうア行から活用する言葉にしか使わない言葉なんですね。「り」「たり」という同じ意味の助動詞があって、四段活用以外のときは「たり」となってしまう。「たり」ではちょっと強くなるというときは、果てぬというふうに直して柔らかくするとかね。そういう工夫が必要でございます。
この亡くなった人は、啄木歌集などを愛読するような心の優しい人であり、そして啄木っていう人は27、8で亡くなりましたけれども、流浪の果てに結局は社会主義者、今でいえばマルキストですか、そういう共産主義みたいなものに順応していって、そして『はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る』みたいな歌を作り、無産者階級の嘆き、働いても働いても楽にならないような当時の無産階級の嘆きを歌にしたような、そういうどちらかというと左翼思想を持って亡くなった人だと言われていますが、啄木の歌集を読み、思想的にはマルクスに共鳴するようなその亡くなった人だったということが、この2首でよく分かりますね。よろしいでしょう。
それから、5番。『白雲は流れて機より透かし見る若狭の海の青さ目に沁む』『白雲は流れて機より透かし見る若狭の海の青さ目に沁む』。『バスの中大黒様の唱歌を口ずさみつつ出雲に向かえり』『バスの中大黒様の唱歌を口ずさみつつ出雲に向かえり』。これは旅行の歌のようですね。1首目は飛行機の中から詠んだ歌。白い雲が流れていて、そして、その雲の合間から若狭の海の本当に晴れた美しい青い色が目に沁みて見える。飛行機の上から見た、そして雲を透かして見た海の美しさ、そんなものを捉えようとして頑張って書いていらっしゃいますよね。『白雲は流れて機より透かし見る若狭の海の青さ目に沁む』。
そうね、声を出して詠んでみたときにお分かりになると思うんですけども、『若狭の海の青さ目に沁む』、「さ」という字が少し耳障りになりませんか。『若狭の海の青さ目に沁む』、別の意味の「さ」なんですけれども、少し声に出して詠んだときに気になるかもしれませんね。
さあ、かといって、『青の目に沁む』、どうでしょうか。『白雲は流れて機より透かし見る若狭の海の青の目に沁む』、「の」が多過ぎますかね。そういうちょっとしたところなんですけれども、気を付けて作るようになさるとよろしいかと思います。
それから、機よりっていう言葉で大体飛行機だっていうことが分かるわけですけれども、それを許さない先生もいらっしゃいます。機ってのはなんだ、機械の機じゃないか、そういうことを言って、例えば飛行機の窓なら機窓とかね、機の窓と書いて機窓に透かし見るとか、そういうふうにしてきちっと言わなきゃ分からないぞっていう厳しい先生もいらっしゃいますから気を付けて。『白雲は流れて機窓に透かし見る』とか、それならば飛行機の窓だっていうことが分かりますか。そんなようなことをちょっと気を付けるとよろしいかと思います。そんなところですね。これもいいですよ、丸をして。
それから、その次の歌。『バスの中大黒様の』、少し字が足りなくありませんか。『バスの中大黒様の唱歌を口ずさみつつ出雲に向かえり』。歌を作られてちょっと不安でしたらばね、今私が詠んでいるみたいに声に出して詠んでみると、あ、字が足りないやとかね、多過ぎるやっていうことが分かるんですよね。バスの中、はいいですね。大黒様の、もいいですね。唱歌の、四つしかないでしょ。4音しかありませんね。五七五でないといけないところが、唱歌を、それ4音しかない。そこで詠みづらくなるわけですね。『口ずさみつつ出雲に向かえり』、下の句はこれで大丈夫。
で、声に出して詠んでみると分かることですけれども、字余りのほうがむしろ御しやすいんですね。字足らずっていうのが一番調子を崩すことになりますので。この歌はかわいい歌ですので、『バスの中大黒様の唱歌皆で』とかね。みんなでという意味で、『唱歌皆で口ずさみつつ出雲に向かえり』とすれば、そんなにおかしくはなくなりますね。『バスの中大黒様の唱歌皆で口ずさみつつ出雲に向かえり』。皆で、みんなでというふうな意味をちょっと補えば、そこで格好は付くんじゃありませんか。皆ででなければひとりでもいいです。唱歌ひとり。1人しか、自分だけで口ずさんだんであれば、唱歌ひとり、1人のほうがいいかな。ね、1人のほうがいいかな。『バスの中大黒様の唱歌ひとり口ずさみつつ出雲に向かえり』。
A- 唱歌なども(****アル@00:18:28)。
大西 唱歌など、はい。神話の国の出雲、それに向かうので多分大黒様が出てきて歌ったんでしょうね。だから、唱歌など、でも構わないし、唱歌ひとり、でもいいですしね。そういうふうに字足らずっていうことを極力避けて、字余りになってもいいから字足らずにはならないっていうふうにしてお作りください。この歌もかわいいから、丸あげましょう。
それから、6番。『子ら巣立ち事後はいかにや過ごさんと夫(つま)と語らう秋の夜長を』『子ら巣立ち事後はいかにや過ごさんと夫と語らう秋の夜長を』。『離れ住む姉の手術の文あれど事なく済めとただ祈るのみ』『離れ住む姉の手術の文あれど事なく済めとただ祈るのみ』。これは正直な方の歌ですね。子どもたちが巣立っていって、たった2人、夫と自分と暮らすようになる。その後は、事後はっていうんですから、その後はどうして過ごしたらいいだろねと、夫と秋の夜長を話し合ったという。子ら巣立ち、巣立ってしまわれたんでしょうかね。事後はっていうのはこれから、これから先2人っきりになってどうしたもんだろうねと話し合ったというんですね。多分、お子たちを育て上げた方が皆共通に持つ嘆きというか不安なのでしょうけれども、それを正直にこう伝えていらっしゃると思います。
事後はなんて普通の言葉、歌にはしないんですが、事後はとしなかったらどうしたらよろしいですか。なんか昔の候文だと、事後お断り申し候とかって書くようなちょっと硬い言葉ですね。以後とか事後とか、漢語でない言葉にするとしたらどうしますか。何かいいのありません?
この後はでいいですよ。『子ら巣立ちこの後はいかに過ごさんと』、いかに「や」は要らないでしょう。『子ら巣立ちこの後はいかに過ごさんと夫(つま)と語らう秋の夜長を』。なるべく優しい普通の言葉で歌って、現代の普通の言葉を文語の優しい表現に置き換えて乗せていくということ、そういうことが歌の述べ方の根本にあるでしょうね。40日は40日、60歳は60歳、そのままでいいんですけれども、それをうまく文語の昔の文脈に乗せて歌うようなそういう方向でよろしいでしょうね。男の人ですとわざと漢語を使ったりしますけれども、私たち女ですから、なるべく大和言葉の優しい言葉を生かしながら、なるべく平易に分かりやすく歌うということですね。これも丸でいいでしょう。『子ら巣立ちこの後はいかに過ごさんと夫と語らう秋の夜長を』。幾ら語っても多分結論は出ないでしょうね。さあ、困ったね、寂しいねと言いながらお過ごしになるのではないでしょうか。
それから、2番目のほうは、遠く離れて住んでいるお姉さんが何か手術をなさるという手紙が来た。だが、年も取っているし遠いし、駆け付けるわけにもいかないからというようなことが略されているでしょう。ただ遠くから無事に手術が済めばいいとお祈りする他ないなあという。駆け付けるすべもない自分の老いとか距離とか、そういうことを悲しんで歌っていらっしゃるようですね。『離れ住む姉の手術の文あれど事なく済めとただ祈るのみ』。これはこのままで丸でいいでしょう。
で、私の師匠は男の人で、文という言葉をあまりお好きになりません。それで、手紙なら手紙でいいじゃないか、はがきならはがきと書けとおっしゃいますが、それは好き好きでございますから。で、手紙でもはがきでも嫌だったら、手術の知らせとかね。知らせあれどとかいうことになりましょうか。そういう文というふうな言葉、恋文でもあるまいしとなんかこうおっしゃいますのでね。そういうことを嫌う人もおります。
手術の知らせあれどとか、手紙、はがき、何かそういう具体的なことでいいのかもしれません。それは作者の好き好きです。御文とかって、人の手紙を尊称付けて御文、お手紙っていうことですね。御文っていうふうに歌いたいような歌もありますしね。ですから、好き好きでよろしいのですけれども。手術の知らせあれど、手術の手紙あれど、そんなようなほうが分かりやすいということですね。これもよろしいでしょう。
7番。『薄紅の草芙蓉咲く墓原に耐え難きまで亡き母恋うる』『薄紅の草芙蓉咲く墓原に耐え難きまで亡き』。
B- (####@00:25:14)体操いたしましょう。ご来場のお客さまも、お手隙の方はご一緒にどうぞ。
大西 しました、体操? 3時なんだ、休憩しましょうか。
はい。じゃ、3時のようですからちょっと休憩しましょうか。
7番。『薄紅の草芙蓉咲く墓原に耐え難きまで亡き母恋うる』『薄紅の草芙蓉咲く墓原に耐え難きまで亡き母恋うる』。『確実に老いゆく日々の寂しさに旅にゆかんと友を誘いぬ』『確実に老いゆく日々の寂しさに旅にゆかんと友を誘いぬ』。どっちもいい歌ですね。薄紅のほうは二重丸かな。草芙蓉っていうのはよく分からないんですけれども、芙蓉の花のような花の咲く野生の花なのではないでしょうか。美しくて優しい花なのでしょう。墓原を訪れてきて、『耐え難きまで』、その花に触発された心でもあったのでしょうか。本当にお母さんが恋しくてたまらなくなったという歌ですが、情景がきれいに書かれていますし、その植物の花のたたずまいに触発されて、ひたすらにお母さんが懐かしまれたという歌。気持ちが通っていますし、情景も美しいと思います。
2番目のほうは、老いというものが誰の上にも確実にやってくる。自分の上にもそれがはっきりと日々に老いていく感じがする。そんな寂しさに耐え難くて、旅にでも行ってその思いを紛らわそうとするのでしょう。お友達を誘って、旅行でもしましょうかと誘ったというのですね。これもきちっと歌えています。身につまされるような歌ですが、私は旅に行く暇もないので何をしたらいいでしょうか。
8番。『一幅の墨絵のごとき山尾根に青きあやしき月のかかりて』『一幅の墨絵のごとき山尾根に青きあやしき月のかかりて』。『鈴虫の声音かそけき秋の宵長き病の友を思いて』『鈴虫の声音かそけき秋の宵長き病の友を思いて』。両方とも美しく書かれていますが、そうですね、1首目のほう、『一幅の墨絵のごとき山尾根に青きあやしき月のかかりて』。どこかで止まっていないと歌はいけないのですね。ピリオドって・・・。