①A

 
  別画面で音声が再生できます。
 
A- 私たちも、みんなの短歌どの程度やったらいいか分かんないので、去年一応、先生に話していただいて、今回で3回目ですので一応作ってきていただいて、去年に準じて、あとはもう先生にお任せして、皆さんとのふれあいの中でやっていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。というわけで、これだけやりましたところとか、多数。なかなか夜っちゅうのは、去年も言ったかしれないけど、やるにしても、ちょっと一歩間違うと利用者を集めるのに苦心惨憺するけども、皆さんが良いのやら講師が良いのやら、その辺は分かりませんけども、短歌やってる人も随分来ていただいて、心強く思ってる次第でございます。
 で、先生には、広報等にも書いておきましたけど、去年、今、持ってくるの忘れましたけども、『野分の章』とか『大西民子集』なんか出版されていて、多忙な創作活動なんかしていただいて、ましてや今、県立久喜図書館ですか、そこにお勤め、久喜のほうで、開館準備で追われてる中を無理して来ていただきましたけども、何かと得るところがあるんじゃないかと思っております。で、去年も言ったと思うんですけど、やっぱり、なかなか同じ趣味を一つにして、これを一つの、それから輪を広げていろいろ、これから、年配だからそういうんじゃないけど 知育、徳育ありますけど、よくこの頃はゲートボールなんてはやってますから、体育のほうはゲートボールでも何でもやっていただいて、知育のほうでも短歌なんてやって頭をふるってもらえれば、長生き、ますますいいんじゃないかと思うんで、これからぜひ、おすすめになって、よりよい、こっちの講座を(####@00:01:50)、よろしくお願いいたします。
 
大西 こんにちは。(####@00:01:57)いいですか。お願いいたします。
 
B- じゃあ先生、訂正から。
 
大西 訂正? 
 
B- はい。
 
大西 プリントの訂正がありますので。
 
B- 先ほども訂正をしましたけれども、くり返して訂正させていただきます。まず、何番とありますが、7番を見ていただきたいと思います。7番の、『枝重なりて』、というふうな短歌がございますけれど、これを、重なるという字を、垂れるという字に直してください。それでその送り仮名ですが、「り」となっておりますけれど、「れ」ですね。『枝垂れて』、ということになります。よろしいですか。それと先ほども申しましたけれども、また新しい方が入っていらっしゃったので、もう一度くり返しますが、21番、次のページです。21番の前の句なんですが、『その夫(つま)の逝きて一人となりし』、夫というふうになっておりますが、『その夫(つま)』を、『人』と直してください。よろしいですか。それと、27番の後の句なんですが、『何気なくいでし言葉の』、というふうに書いてございますけれども、いでしの「で」をですね、「ひ」、いひし、「ひ」に直してください。以上です。
 
大西 それでは、訂正をしていただきましたので、歌が確定したことにしたいと思います。先ほど、館長さんからお話ございましたように、私はこの4月から久喜の図書館の準備事務所という所へ転勤いたしまして、来年の6月頃オープンになる予定の第4番目の県立図書館でございますけれども、久喜に今度できますけれども、準備の仕事をさしていただいております。で、1億2000万のお金で本を買いまして、今5万冊ぐらいそろってるところでございますけども、オープンまでに7万冊ぐらいそろえたい。その本を買う仕事とか、それから買ってきた本を整理する、ラベルを貼ったり、分類したり。そういう仕事に大追われに追われていまして、今年はお邪魔できないんじゃないかなと思ってたんですけど、館長さんがはるばる車で迎えに来てくださって、それで伺うことができました。
 で、3年目だということで、皆さまが歌の形に慣れた表現をしていらっしゃると思いました。歌の、この間『短歌のすすめ』という本が出ましたのですけれども、その裏表紙を見ますと、『日本人なら誰でも作れるのが短歌。ただし、なかなか奥が深くて行き着かないのも短歌である』っていうふうにうまいこと書いてございましたけれども、本当に日本語を知っていて歌いたいことさえあれば誰にでもできるのが歌だと思いますけれども、それを、どこまで行けば良いっていうわけではなくて、本当に奥の深い道が、本当に奥の細道なんじゃないかっていうくらい。
 私は、歌を作り始めてから、もう40年にもなります。歌を作り始めたのが15、6歳の女学校の頃でございましたから。40年やって、今考えますと、歌いたいことがあれば、一応それを歌の形にできる、表現できるところまで、40年やると言えるような気がする。それは上手、下手まではまだいかない感じはしますけれども、ともかく表現したいことがあれば表現できる、という感じになったのが、40年たって、やっとそこまで来たという感じでございました。これから何年生きるか分かりませんけれども、歌いたいことが歌えるだけじゃなくて、上手に歌えるようになりたいなと思っておりますけれども。
 与謝野晶子という人、ご存じですね。与謝野晶子の伝記を、このあいだ時分から読んでるんですけれども、あの人は55、6まで生きましたかしら。たくさんの歌を作って永眠されました。子どもがたくさんいましてね、ある本には子どもは11人あったとか、ある本には9人あったとか。それぐらい分からないぐらいたくさん子どもがいたんですね。結局、最後に読んだ伝記ですと、森藤子さんっていう与謝野晶子の末っ子の、末娘の藤子さんが書いた伝記では、「私は11人の子どもの末っ子であった」と書いてございましたから、多分、11人なんだろうと思うんですね。それから歌集の数も、ある本には27冊出したと書いてある。ある本には23冊と書いてある。それでたくさん、歌集出してしまったので、それが合計何冊かも分からないまま仕事なさってた方なんですけども。そんなように与謝野晶子の歌でも、本当に全部が全部、優れているかっていうと、今見れば大したことのない歌も混じっているんですね。
 なるほど、文学史の上で大きな仕事をした人ですけれども、万葉集と同じで、万葉集で読んでも、私は全部良い歌かっていうとそうでもない。それから与謝野晶子の歌でも、何千首もある中の全部が良い歌かっていうと、そうでもない。ですから自ら慰めるわけですけれども、駄作があっても仕方ない。たまには自分で歌えたな、という歌を作って死にたいものだなと思うわけでございます。
 この間、テレビを見てましたらば、平安京時代の平均寿命のことを言っておりましたね。男の人は58歳で女の人は43歳でしたので、私など、もうとっくに死んでるわけですね。まだ55にもなって生きているっていうのは、やっぱり現代の医学の恵みであり、(####@00:09:03)けれども。平均寿命まで、あと何十年もございますしね。その間、少しでも奥の細道の奥のほうへ行きたいなと(####@00:09:15)けれども、昼間は働いて、夜だけの時間でございますので、なかなかうまくいってないんです。
 さて、出していただきました歌を、お名前が分かりませんので、思ったとおりズバッと申し上げてよろしゅうございましょう。作者がいないと思って。よろしゅうございましょう。
 
A- はい。
 
大西 風邪をひいていまして、モガモガいたしますけれども。今もおっしゃいましたけれども、短歌講座なんていうのは人が集まらないのが常でございまして。この間、久喜の短歌講座は5人しか来なかった、俳句講座は1人しか来なかったということもございますので、こんなにたくさんいらっしゃる短歌講座っていうのは少ないんじゃないかと思いますね。
 1番の歌にまいります。『通り庭が風の道なり真夏にも汗さえ知らずふるさとの家』『通り庭が風の道なり真夏にも汗さえ知らずふるさとの家』。『縫い上げし帯を撫でつつ久々に足りし心を弄びおり』『縫い上げし帯を撫でつつ久々に足りし心を弄びおり』。格調高く歌っていらして、1番の歌では最初のほうに丸を差し上げたいと思います。『通り庭が風の道なり真夏にも汗さえ知らずふるさとの家』。今は離れて住んでいる故郷の家なのでしょうね。人が通るために造られているお庭、通り庭。それが風の道にもなって、風が騒ぐ度に際立ってくる。真夏だってクーラーなしでも汗さえも出ないような、そういう涼しい家が私のふるさとの家なのよ、ということを歌っていらして、爽やかな夏の歌でしたら、爽やかな歌になっていると思います。
 語句の上でも直す所がなくてよろしいと思いました。後のほうの歌ですけれども、『縫い上げし帯を撫でつつ久々に足りし心を』、までは分かったんですが、『弄びおり』って所に棒を引いてまいりました。帯を縫い上げて久々に満足な充実感が味わえた、その足りし心をもてあそぶというのは、どういうことなのでしょうか。もてあそぶっていうのは、持って遊ぶことですね。そうじゃないんじゃないかな。何かそこの、『弄びおり』のところで、もう一つ作者が言葉を探しあぐねたんじゃないでしょうかね。そういう表現する言葉っていうのを探し切れないでしまったんじゃないかな。最後の結句って言いますが、弄びおりのところに後で作者がいらして、「ここはこういうふうに足りないから、こういう意味です」っていうふうにおっしゃってくだされば、また考えたいと思いますが、『足りし心を弄びおり』では少し分かりづらいと、しておきます。
 2番の歌。これは何時までですか。
 
A- 一応4時までですから。間に、おトイレ行っとく時間取っていただいて。
 
大西 4時っていうと、(####@00:13:14)。
 
A- いえ、ですから2日間ございます。23・・・。
 
大西 これだけじゃ難しい。もう一回(####@00:13:22)。
 
A-  先回のときは1回やって、あと一回来た1週間の中でっちゅうことでしたけども、今回の今のところ、最初からこれだけ、1人2首ということでお願いしてるんですけれども。だからあとはそれこそ、こないだの方式がいいか、これを2日にわたって添削をうんとやったほうがいいか。その辺ちょっと(****フセテ@00:13:49)なかったんで。
 
大西 そうなんですか。今回は歌をお出しいただくのがこれ一回だそうで、このプリントによって、この次の回と2回に分けるんだそうですね。どんなふうにしたらよろしい? 詳しくやって、きょう半分までやった後にもう一回しますか。それとも特急列車でやってしまって、次の回に何か別の話を。特急でもちょっと追っつかないかもね、全体に。
 
-- そっか、そうですね。
 
大西 そしたら1首ずつしましょうか、飛ばし飛ばし。1番の始めのも2番の始めのも。そうすれば2回もつわね。2回もたせるの。どうします? きょうやってしまうと次の回、この前やってしまったからいいやってことになるかもよ、ね。どう? じゃ、最初の歌だけずーっとしていきましょう。
 
B- 3首ある人がいるんですね。
 
大西 3首の人もいる。
 
B- それは結構ですけど。
 
大西 どっちがいいですか。何かご希望があれば。
 
C- 1首目はやっていただいて、その次はまた楽しみに残しときたい。
 
大西 そうですか。そういう方と。
 
D- 来週、出られないということもありますよね。
 
大西 そうですね。じゃ、もしあれであれば。ちょうど、与謝野晶子の伝記、『一生の歌の句と生涯の歌』っていう題で、今度の金曜日に話さなきゃならなくて、作ってるプリントがあるんですね。もし与謝野晶子の歌を一通り読みたいってご希望でもあれば、来週は与謝野晶子のお話でもいいです。どっちでもいいですよ。
 
(音質不良にて起こし不可)
 
大西 2時までともかくやってみて、その後にしましょうか。そちらがいい?
 
-- (####@00:16:10)。
 
大西 晶子の歌も読みたいでしょ。
 
B- 先生、もうもったないです。
 
大西 それじゃあ、なるべく無駄口をなくして、行けるところまで行って、そして余ったら来週やって、その来週の余りの時間は与謝野晶子の歌を読むということにしましょうか。それで決めていただきまして、2番の歌。『保育所の窓辺に顔を押し当てて子らは待ちおり夕やけ小やけ』『保育所の窓辺に顔を押し当てて子らは待ちおり夕やけ小やけ』。『幸せは君が手にあり真澄みたる秋日の中に門出を祝う』『幸せは君が手にあり真澄みたる秋日の中に門出を祝う』。保育所というのは、今は夫婦共稼ぎが多い時代ですから、社会の必要不可欠な設備だというわけで、保育所に子どもを預けて働いているお母さんっていうのは、大変数が多いわけでございますね。保育所の窓辺に顔を押し当てて夕方になってきて、お父さんかお母さんかが迎えに来る時間が間近になっていくわけですが、その迎えの時間を待って、子どもたちが窓辺に顔を押し当てているという情景を歌っています。『保育所の窓辺に顔を押し当てて子らは待ちおり』、そこまでは大変写実的に歌われていて、最後にきて、『夕やけ小やけ』。そのところで少しはぐらかされた感じがいたします、歌としますとね。
 夕やけ小やけ、美しい言葉を使っていますけれども、上のほうからきた写実的で、やや深刻な、社会的な現象みたいなことが歌われていて、終わりへきて童謡みたいな、夕やけ小やけって言ったことでね、少し歌の、一つのことを貫くということからすると、少し離れた感じになりますね。そしてこう歌ったことで、作者がいなくなってしまう。この作者が一体どういう人なのか、『保育所の窓辺に顔を押し当てて子らは待ちおり夕やけ小やけ』。そうでなくても、この人の、この歌を作った人はその保育所に子どもを預けている人なのか、預かっている人なのか、第三者なのか、分かりますか? 少し分かりづらいよね。歌っていうのは、第一人称の文学ですから、何にも言わなければ、私っていうことが主語になってしまうんですけれども、この歌は主語っていうのは子どもたちなんですね、その子どもたち、保育所に預けられた子どもたちの作者は何にあたるのかっていうことがあんまり分からない。違いますか?
 子どもたちのお母さんなのか、預けられている保母さんなのか、少し分からない。たまたま通りかかって保育所の窓を見た人なのか、第三者なのか、そこのところ少し分かりづらい。一首の歌の中で、作者がどんな人なのか、どんなこと考えているのかっていうふうなことも分かるほうが、歌としては成立するっていうことを言えます。作者不在というか、そんな感じがするみたいです。それは多分、夕やけ小やけに言葉が足りなかったんじゃないかな。夕やけ小やけと言う必要があれば、作者の立場なら言えたかもしれない。
 それから、後のほうの歌ですが、『幸せは君が手にあり』、その『真澄みたる』、その言葉も少しおかしいかもしれない。真澄みたる。真澄みなる、でしょうかね、むしろ形容動詞とすると、『真澄みなる』かもしれませんね。よく澄んだという意味でしょう。門出って言いますから、それも少しは鍵になると思うんですけど、『幸せは君の手にあり』、『秋日の中に門出を祝う』。門出にも、さまざまございましょ。結婚の門出、卒業した門出、就職する門出、いろいろございますけれども、それも少し分かりづらい。こういう贈答歌って言いますか、人にお祝いに送る歌の場合は、作者と送られた主だけが分かればいいということもございますけれども、こういう場所に出す歌のときは第三者が分かるほうがありがたいんですね。この歌の場合は、『幸せは君の手にあり』と歌われた、その君なる相手と、作者とがいれば成り立つ相聞の形式ですね。自分と相手だけじゃないという形式ですけれども、こういう所に出す時は第三者にも、何のお祝いなのかなって少し分かりたいところがありますよね。そんな気がいたしました。
 『幸せは君が手にあり』、とても美しく歌われていて、爽やかでよろしいんですけれども、第三者として読んだとき、もう少し分かりたい、客観性が欲しいということでしょうかね。 歌っていうのは、もともと大変主情的な、主観的な文学ですから、一から十まで全部、第三者で分かるっていうこと、あまり期待できないこともございます。まして短い詩形の中で、一つのことを過不足なくきちっと歌うっていうことは容易なことではございませんし、ある部分は読者に委ねて、読者の想像力に任せるところがありますけれども。でも、やっぱり少しは分かりたいっていうのが人情なのでございまして、なるべく分かりやすく、自分が分かり、自分が歌いたいだけ歌って、そして当の相手にも分かってもらえる。それで一応の歌の任務っていうのは達するんですけれども、できればその他に、第三者にもある程度分かるような歌っていうことが大事なんじゃないでしょうか。もし、自分が言いたいことだけ言うんであれば、日記の端に書くのでも十分ですし、それから相手にだけ分かってもらうのであれば、お手紙に書くだけで十分ですね。そこを歌の形にするっていうことは、第三者が読むことを期待しているわけでございます。第三者にもなるべく分かるっていうふうな歌い方を心がけてみてください。
 それから3番。『鮮やかな赤きカンナの咲ける庭秋の日差しの強く輝く』『鮮やかな赤きカンナの咲ける庭秋の日差しの強く輝く』。『誰(たれ)にでもできると言われ参加せしゲートボールはいと難しき』『誰にでもできると言われ参加せしゲートボールはいと難しき』。この二首は、言いたいことがさらりと歌われていて、過不足のない表現をしていると思います。赤い鮮やかなカンナが咲いていて、秋の日差しが強く輝いているという、その庭の情景を写実的に歌っていらっしゃる。最初の歌ですね。2番目の歌のほうでも、歌と同じですね、誰にでもできると言われて、そしてゲートボールに参加した。ところが、実際やってみたゲートボールは『いと難し』。そんなに簡単にできたものではありませんでした、と歌っている。1首のほうでは、カンナの状態が作者の思ったように描けたと思いますし、後のほうの歌では、ゲートボールだって、なかなかやってみれば難しいものでしたよ、という一つのまとまった思想といいますか、そういうものが出ていると思います。
 それでは、この初めの歌も後のほうの歌も丸をあげるかというと、私は丸をあげないの。なぜでしょう。それは、『鮮やかな赤きカンナの咲ける庭秋の日差しの強く輝く』。これは、誰にでも歌える歌という感じがするんですね。ありのまんまでありすぎる。『鮮やかな赤きカンナの咲ける庭秋の日差しの強く輝く』。その作者でなければ歌えない、何か個性的なきらめきがあるかっていうと、大したことないじゃありませんか、難しく言えば。過不足なく歌われているけれども、例えば、私のお師匠さんの木俣修の歌にあるんですけれども、終戦の詔勅を聞いたときに、折しも赤々と花が咲いていたというふうな、終戦の時の歌があるんですけれども、その作者が特に感動を受けたというふうなカンナでもなさそうで、鮮やかな赤いカンナが咲いている庭で秋の日差しが強くふっている。それだけの歌と言えば言われてしまう。ただ、歌の本質的な、一番の核になる部分がきちっとおさまえていたもので、合格点ですけれども、大きな丸はあげないということなんですね。
 それから、『ゲートボールはいと難しき』っていうね、『誰にでもできると言われ参加せしゲートボールはいと難しき』。ゲートボールのところに、ソフトボールかなんか持ってきたらどうなりますか? 何でもここに入るようになる。ソフトボールでもいいし、ローンテニスでもいいし、何でもここに入れれば入ってしまうじゃないかで、当たり前のことを歌ってらっしゃるという感じがしないでもない。でもこれも、五七五七七という新しい短歌の詩形の中で、きちっと自分の気持ちを処理できているということで合格点はあげたいということなんです。さて、大分厳しくなってまいりました。作者がいないと思って言っておりますので、ご勘弁ください。
 4番。『かねたたき叩き続くる庭に出であてなき旅に心誘わる』『かねたたき叩き続くる庭に出であてなき旅に心誘わる』。『みちのくに子を送りたる帰り道樫逞しく風に鳴るなり』『みちのくに子を送りたる帰り道樫逞しく風に鳴るなり』。この4番は、初めの歌のほうに丸をあげたいと思います。今まで丸をあげました歌は、1番の最初の歌と4番のこのカネタタキの歌ね。少し厳しいかもしれません。カネタタキ、秋の虫の中でもひと際美しい音を立てる虫ですけれども、カネタタキが叩き続けている庭に出てみると、何となくそぞろな思いになって、あてのない旅に出たいような気持ちになると。『あてなき旅に心誘わる』。そこら辺に作者の気持ちが自然に出ている歌で、この歌は割に良くできていると思います。『かねたたき叩き続くる庭に出であてなき旅に心誘わる』。どこという目的のない、そういう、何となく旅に出たいような気持ちになったということですけれども、『あてなき旅に心誘わる』。そこら辺の言葉の置き方が上手になっていると思いました。
 カネタタキが美しい音を立てて鳴いているような日には、さまざまな思いが私たちの気持ちをよぎるわけですけれども、それをこの作者があてのない旅を思ったし、もし、ある作者がそのカネタタキの美しい音色を聞きながら思うこと、さまざまに、その人その人の思いがあろうと思うんですね。例えば、離れ住んでいる母に会いたいと思う人もいるでしょうし、それから、亡くなった子どもの年を数えるような思いになる人もいるかもしれないし、さまざまな思いが浮かぶものだろうと思いますけれども、その中の一つで、作者としてはあてのない旅に誘われるような思いがした。ということで、このあてどない寂しさっていうのが出ていると思いますね。何か目的があって旅に出るのと違って、流浪の旅みたいに、漂泊の旅みたいに、あてのない旅に出たい思いがしてっていうところで、作者のうつろな気持ちというのかな、そういうものが出ているような気がしました。
 それから、次の歌のほうでは、奥羽地方、東北地方に子どもの住んでる人で、みちのくに子どもを送っていった帰り道。ふと気が付くと樫の木がたくましく風に鳴っているのに気が付いて、と歌っていますね。その『樫逞しく風に鳴るなり』、そこら辺で作者は何かしら気持ちを言い表したかったに違いないと思いますけれども。『みちのくに子を送りたる帰り道』、気持ちが優しくなって、寂しくなっているわけですけれども、そのときに道のほとりの樫の木が風に鳴っているのが、いかにもたくましい感じがした。もしかすると作者は・・・。