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「短歌講座」
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昭和54年10月16日
①B
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大西 ・・・なさるかどうか。『みちのくに子を送りたる帰り道樫逞しく風に鳴るなり』。少し、上の句と下の句が付いてないところがあるんじゃありませんか、離れるような感じがありませんか。もしかすると作者がたくましさに触れて、自分も元気を出さなくちゃ、それから子どもも元気でいてほしい、なんていう願いがね、もしあったとしても、あんまりそれがよく出ていないっていう感じがしました。ただ、こういうことを言って作者の気持ちを表したいという、そういう工夫が有り難いことだと思いますけれどもね。うまくはいってない感じがしました。
それから5番の歌へまいります。『漫画見てカカと笑いし孫が今朝宿題忘れてママと喧嘩す』『漫画見てカカと笑いし孫が今朝宿題忘れてママと喧嘩す』。『涼風が吹けばそぞろに旅心地図を購い心躍らす』『涼風が吹けばそぞろに旅心地図を購い心躍らす』。さて、漫画の歌ですけれども漫画を、見ながらカラカラ笑っていた孫だったけれども、今朝になって宿題を忘れたということでお母さんと喧嘩をしていました。家庭の小さい出来事を歌にしていらっしゃるわけですけれども。さて、歌らしくないところがございましょ? どこでしょう。歌っていうのは、原則とすれば新しい歌もございますけれども、大和言葉、なるべく日本の大和言葉の流麗な調べを生かすのがよろしいのですね。とすると、どこの所?
-- ママと喧嘩す・・・。
大西 ママと喧嘩す、ね。そこら辺。
-- ・・・カカ(####@00:02:15)。
大西 きっと、ママっていうのはお孫さんが、自分のお嫁さんなり娘さんなりを平生、呼んでいらっしゃるママっていう言葉なんでしょ。ママ、そのまま言ってらっしゃるけども、母でもいいでしょうね。それから、喧嘩す、は何かいい言葉ございませんか。
(音質不良にて起こし不可)
大西 争うとか、あらがう、いさかうとか。そうですね。
-- あらがう、いさかう。
(無音)
大西 ここですと、口げんかでしょうから、いさかう、でしょうかね。口でけんかをすることはごんべんに争うを書いて、諍う。それから、『漫画見てカカと笑いいし』、でしょうね。笑っていた。笑いしっていうのは、笑った、ということですけれども、笑っていた、ということでしょうから、『笑いいし孫は今朝宿題忘れて母と諍う』。母と争う、でもいいですね、どちらでも。ここに書いた抗うという字は、むしろ反抗するというような意味ですので、この場合は相対ですから、いさかうのほうがいいかもしれません。それから、いさかうっていうと少し大人っぽくなるので、争う、でもいいですね。ママと喧嘩す、っていうのは、いかにも正しくない言葉ですので、そういうところを少し押さえると良くなると思います。『漫画見てカカと笑いいし孫が今朝宿題忘れて母と諍う』。
『涼風が吹けばそぞろに旅心地図を購い心躍らす』。購うというのは、購入の購という字で、買うという言葉を柔らかく言いたいときによく購うと使います。それから、買うだけでは2音ですけど、購うですと4音になりますね。だから、買うでは言葉が足りないときに、購うとよく使われます。暑かった夏が過ぎて風が涼しくなってくると、旅に行きたいという、旅に出たいという気持ちが動いてきて、地図を買ったりして、さまざまに心を躍らせているということですね。『涼風が吹けばそぞろに旅心地図を購い心躍らす』。どこへ行こうかしらと思って、地図をさまざまに調べているのでしょう。これもまあ、両方とも平均点の歌で、よろしいでしょう、これぐらい歌えてればね。
それから6番。『身まかりし黄泉路の君は彩深き園に哀しくいませよ永遠に』『身まかりし黄泉路の君は彩深き園に哀しくいませよ永遠に』。『高ぶれる思いにいつか夜半(よわ)忘る嘆かい深き人の世なれば』『高ぶれる思いにいつか夜半忘る嘆かい深き人の世なれば』。大変、みやびやかな、美しい言葉を並べて歌っていらっしゃると思いました。身まかりしっていうのは、亡くなった、死んだということですね。死んだ、そしてあの世にいるあなたは、彩りの深い美しい庭園に、そのまま永久にいらしてください。亡くなった人を、いつまでも安らかにお眠りくださいと、冥福を祈るような歌になっていると思います。『身まかりし黄泉路の君は彩深き園に哀しくいませよ永遠に』。この歌の形は挽歌の形ですね。亡くなった人を悼む歌、挽歌と言いますけれども、その形だろうと思います。書きましょうか。
(無音)
大西 万葉集を見ても古今集を見ても、いろいろな昔の歌の詞を見ますと、必ず挽歌というジャンルと、それから相聞というジャンルがありましてですね、相聞というのは先ほども申しましたが、相手と話し合う恋の歌をおもに相聞と言っております。そして挽歌というのは、挽という字は、挽くという字で、お棺を挽きながら歌う歌というような、挽歌、挽き歌ということですけれども、その挽き歌からきていますが、死者を悼む歌という歌が挽歌、そして愛の言葉を共感する歌が相聞というふうになっていまして、短歌というものは古い、千何百年の伝統を持っているわけですが、その和歌の一つの根本をなす気持ちとして、相聞と挽歌があると言われています。ということは、人が人を愛すること、それから亡くなった人を惜しむこと、それが人生の中で本当に大きな感動の高まりがある場面になりますよね。ですから、本当にいい歌っていうのは相聞の歌とか挽歌の中にあると言われています。
昔からある歌の、歌われてきました百人一首なんかもほとんどが相聞の歌でしょう。それでも分かりますように、人の心を揺り動かすには、相聞とか挽歌に多いっていう歌、結局、気持ちの高まりの一番高まった時に歌う歌が、相聞や挽歌だからでございましょうね。この6番の最初の歌は、その挽歌に当たる歌だろうと思います。亡くなった人、非常に美しく、美化して歌ってらっしゃると思います。亡くなって黄泉路に行かれたからには、美しい園にいつまでも平和でいらしてください、と歌っています。
2番目のほうでは、高ぶった気持ちもいつのまにか夜は更けてしまった。高ぶった心のまんまにいて、眠れずに夜更けにまでなってしまった。そして、『嘆かい深き人の世なれど』と歌っていて、自分のその高ぶって嘆きに興奮した気持ちを、肯定したように、それでいいのだ、人間の世の中だから仕方がないわっていうふうに、肯定的に歌っていますよね。嘆きの深い人の世なんだから、高ぶったまま夜が更けても仕方がないわっていうような、自分で自分を慰めるような感じに歌っていますね。ここで、嘆かいという言葉の意味なんですけれども、これは嘆きという言葉と同じ言葉ですね。
(無音)
大西 延言と言っておりますけれども、嘆くということを伸ばして嘆かうと言うんですね。それから、煙のことを煙る、と言わないで煙らうとか、けぶらうとか言うんですよ。ちょっと伸ばして言うことを延言と言いますけれども、歌の調子を調えるのに使う言葉ですね。嘆くと言ったんでは言葉が足りないとき、嘆かうって言えば、少し伸びますでしょ、1音だけ。そういうふうに、歌の言葉では結局、五七五七七の調べを大事にするために、さまざまに言葉を動かすわけなんですけれども、その一つに延言というのがあって、やたらと伸ばすわけにいかないんですけれども、煙るっていうのは、煙らうっていうふうに言うことができる。だから、霧が立つことを霧らうとか言いますでしょ。そういうふうな、言葉を変化させて、昔の人はさまざまに工夫をしたって言うんですね。それで今も使われていることが多いわけで、嘆かいというこの場合は、嘆きと言いますでしょ。悲しみ、嘆きの深い人の世だから、そのまま高ぶった気持ちで夜更けまで起きていました、といって、両方とも工夫を凝らして、大変言葉を選んだ歌だと思います。
それから、7番の歌。『選挙公報いずれも同じ空々しく図書館を建てんと容易く言いぬ』『選挙公報いずれも同じ空々しく図書館を建てんと容易く言いぬ』。『枝垂れて萩が散りたる花寄せぬいつとなく円を描きて揺れ居る』『枝垂れて萩が散りたる花寄せぬいつとなく円を描きて揺れ居る』。今度の歌の中では珍しい、時事的な歌が最初の歌でございましょう。選挙、ちょうど選挙ございました。選挙公報を見ると、どれも同じように図書館を建てましょうなどと、容易く、簡単にできそうなことを言っているけれども、どれを見ても選挙公報などというものは同じようで、空々しく感じられるって言ってますね。選挙の頃になりますと新聞や雑誌の歌に、こういうのが大変多くなりまして、そんな中でちょっとこれを比べてみますとね、この選挙公報がどれもみんな同じでばかばかしいっていう歌が多いんですけれども、その中でこの歌の『図書館を建てんと容易く言いぬ』っていうところがちょっと面白いところで、この歌を丸をしました。『選挙公報いずれ空々し』っていう歌は大変ありますけれども、作者が持っているポイントがこの歌は出ているんですね。作者も図書館に関心を持っているわけなの。その図書館を建てんなどと容易く言っているのは、なんて空々しいんだろう。まだまだ図書館なんか建ちゃしないのに、と作者は思ってたわけですね。そういう、図書館っていうところでポイントをあてたところが、この歌の面白さだと思います。なかなかポイントが作者にございませんと、選挙公報をただ、しらじらしい、空々しい、そう思うだけですけれどね。ちょうど作者に何か関心があったことがあって、それをポイントをあてて歌っている、そういうところがこの歌を面白くしたと思います。
その次の歌は、ちょっと分かりづらかった。枝を垂れて散ったハギの花を、『花寄せぬ』、掃き寄せているんでしょうかね。それで、下句のほうの『いつとなく円を描きて揺れ居る』。ハギの垂れた枝が揺れている、それは円周を描いている、その枝先のほうを見ますとね、円周を描くように揺れている歌っていうところは、細かく見てよく歌っていると思うんですけれども、上のほう、『枝垂れて萩が散りたる花寄せぬ』。少し言葉の順番が違ってるんじゃないでしょうか。『枝垂れて』。その様子を歌ったという言葉が少し分かりづらいんですが。
それから、垂れるという言葉があまり好きでない人も多くて、その場合は、『枝垂りて』。垂りず、垂りたり、と活用させましたね。『枝垂りて』と詠むほうがいいかもしれない。なぜ、垂れるっていうのをいやがるかっていうと、鼻垂れ小僧っていう言葉がありますでしょ。垂れるって言葉、あんまりいいときに使いませんの。それで、『枝垂りて』っていうふうに、わざと直すことがあります。これを最初、私は、枝垂りてじゃないかなと思って読んでたんですけれども、間違えて、垂れてということだっていうことなんですよね。『枝垂りて』でもいいと思います。あんまり、垂れるという言葉に気にならない方はそれでもいいんですけれども、垂れるっていう言葉が嫌な人は、垂りてというふうに直せばいいと思います。
(無音)
大西 次のところ、もし間違いでなければ、『枝垂りて散りたる萩を掃き寄せぬ』でも、花が散ったのを掃き寄せている、という感じになっていいのではないかと思いますけれども。『いつとなく円を描きて揺れ居る』。ハギの枝が緩やかに揺れると、ちょうど円を描いている、円周を描いているような感じだっていう、その見方はなかなか鋭いんですけれども、それを十分に表現する力が足りなかったんじゃないかなという気がします。目の付けどころが良くても、それを表現する筆がしっかりしていないと、書き尽くせないことがありますでしょ。だから、目の付けどころを良くして、よく見たならば、今度はそれを言葉に置き換えるときに、十分に言葉を選んで、そして書き尽くさないといけないわけですね。歌っていうのは結局、よくものを見て、よく目を届けて、そして言葉も届くようにしないといけないわけで、そこのところが難しい。目は届くんだけれども、それを言葉に置き換えるときに届かなくなってしまうんですね。目が届き、言葉が届くということが歌の大事なことだろうと思いますよ。
8番の歌。『木犀の香り漂いいそいそとお墓参りの衣縫いおる』『木犀の香り漂いいそいそとお墓参りの衣縫いおる』。『喜雨ありてミニ菜園の朝もやけきらりと真珠白菜の葉に』『喜雨ありてミニ菜園の朝もやけきらりと真珠白菜の葉に』。最初の歌、気分が出ている歌なんですが、『木犀の香り漂いいそいそとお墓参りの衣縫いおる』。少しこの気分の出た中で、そぐわない言葉ありませんか、この一首の中で。『お墓参りの衣縫いおる』。モクセイの香りが漂っている。そんな中でなんか変な所ない?
(音質不良にて起こし不可)
大西 『いそいそと』、ね。お墓参りのお着物縫っているわけで、それは、いそいそという感じかどうか、一般的に言えば。お墓参りにかこつけて何かもっといいことがあるなら別ですけれども、お墓参りということがあるならば、いそいそという感じには少し、ならないかもしれませんね。お墓参りの、それも少し口語的、普段使う言葉過ぎるかもしれませんけれども、墓参のためのとしても構いません。墓参のための。お墓参りをするときに、ということで新しい着物を作る。それで本当に嬉しいのかもしれないけれども、歌の一首の感動とすれば、いそいそとっていうのは少しそぐわない言葉になりますね。もしかすると、字が足りなくていそいそと付けたのかもしれないので、『木犀の香り漂う窓近く』、とでもしますと、一応の歌になるんじゃないでしょうか。『木犀の香り漂う窓近く』。それから、衣縫いおる、でもよろしいですし、縫いいる、でもいいし、縫いおり、でもいいし、さまざまに言えると思いますね。墓参のためのっていうのも少し残さないとですけれども、何かいい言葉ございますか? 『木犀の香り漂う窓近く』。墓参りに着ん、でもいいですね。墓参りに着るため、着ん、墓参りに着ん衣縫いおり、きぬを縫いおり。衣というよりか、きぬのほうが今の言葉に近いかもしれません。きぬを縫いおり、でもいいですね。衣って言っても構わないんですけれども、羽衣みたいな感じがしますでしょ。羽衣って昔の言葉に近くなってしまいますから、きぬを縫いおり、きぬを縫いいる。そういうような感じに直せばよろしいと思います。もう少し爽やかな感じを出していまして、さまざまにいじくりまわしましたけれども、丸をします。
それから、『喜雨浴びて』、喜ぶべき、待ち遠しかった雨が降って来て、それでミニ菜園、小さい菜園を作者は営んでいる。その朝、雨の滴がたまっていて真珠のように美しい露が、白菜の葉を転がりて、といったことになります。朝もやけっていうのはどういうことでしょうね。朝ぼらけのこと? 朝方のこと? 朝焼けのことかな。朝も、焼けてる。朝も、朝焼けして。少し分かりづらかったですね。
それから、この歌のもう一つのミスはね、『喜雨浴びてミニ菜園の朝もやけきらりと真珠白菜の葉に』、どうしたかっていうことが書いてない。尻切れトンボになっていますね。歌っていうのは短い詩形ではあるけれども、一つの文章、一つのセンテンスとして、まとまっていなければならないという原則がございます。ですから、必ずどこかで切ること。句読点、丸はもう付ける。そういう所が1カ所ないと決まりがつかないものなんです。ですから、白菜の葉にどうしましたかっていうことが書いてないですね。そういうミスが少しこの歌にはあるようです。ですけれども、待ちに待った雨が降って、菜園の朝が、美しい露がきらきらと真珠のように輝いていて、白菜の葉にまとまっていてこぼれたりする。そういう、雨の後の菜園の美しさってものを作者は歌おうとしている。それが十分、分かると思います。どこかで止めるような歌い方をすることね。
それから9番へいきます。『産み逝きて十年(ととせ)経ちたる墓の辺に黄色く小さきほうこぐさ咲く』『産み逝きて十年経ちたる墓の辺に黄色く小さきほうこぐさ咲く』。『長伝寺与野聖人(しょうにん)の御墓所(はかど)歴史の跡を訪ねて往きぬ』『長伝寺与野聖人の御墓所歴史の跡を訪ねて往きぬ』。9番の歌、子どもを産んでそのまま亡くなった人がいるのですね。その後、10年の歳月が流れてお墓に詣でると、お墓のほとりには心なしか、ホウコグザ、母子草と書くあの黄色い、小さい泡のような花を咲かせる雑草が生えていました。女の人の死に方としては一番哀れ深い死に方ですけれども、子どもを産んでそのまま亡くなった。そして、思うと10年も過ぎてしまっていて、お墓のほとりにはホウコグザが咲くようになっている。そういう感慨を深く歌っているんですが、作者が一体、この産んで逝った人とどんな関係があるのかが、読者は分かりたい。もし産んでいった人が自分の子どもであるならば、『産み逝きて十年経ちたる子の墓に』、となりますよね。そこら辺に何かを入れれば、作者とその亡くなった人との関わりが少しは言えるかもしれない。歌っていうのは大変、欲張りなものでして。短い詩形なんだけれども、五七五七七ときちっとなっていなければならないし、その短い中でも作者が何を言いたいかという、中身がきちっと歌われていることを要求するし、一体、何がどうしてどうした、というようなことを、きっかりと一つの文章に書き換えれば、3行ぐらいの文章になるような、まとまった内容も要求する。大変、欲張りな文学でございますね。この歌もよくできているようだけれども、作者とお墓の主との関わりがはっきりしない、ということが言えますね。
それから2番目の歌のほうですと、そのお寺に、与野聖人という人を調べている作者が、お墓を訪ねて、歴史の跡を訪ねるように、そのお墓を訪ねてお参りした、と歌っていますが、この2番目の歌のほうはまた、はっきりと分かり過ぎるようなところがある。『長伝寺与野聖人の御墓所(はかど)歴史の跡を訪ねて往きぬ』。きっかりと歌えていますけれども、誰にでも歌えそうなのね。というような、ミスと言えばミス、欠点があるかもしれません。あんまり分かり過ぎてしまっても困るし、分からなくても困る。そういう、境界線の引きづらいのが、歌の変なところですね。難しいところでもございますが。
10番いきますか。10番の歌。『夕蝉を聞きつつ一人の米を研ぐ待つ人もなく耐えて久しき』『夕蝉を聞きつつ一人の米を研ぐ待つ人もなく耐えて久しき』。『行く末を思い煩う日はあれどきょうも一日(ひとひ)を懸命に生く』『行く末を思い煩う日はあれどきょうも一日を懸命に生く』。この歌は、大変よくできていて、二つともお丸を差し上げます。夕方セミの声を聴きながら、たった1人、自分の食べるだけのお米を研いでいる。いつから一体、こうして1人分のお米を研ぐような、はかない暮らしになったのだろう。もう既に待つ人もなく、1人で我慢して生きてきて、長い歳月がたったなあと思う。いつもは、あまり考えないで1人分のお米を研いでいるのかもしれませんね。たまたま、その日はセミが鳴きしきる夕暮れである。セミの声を聞きながら、いつもよりも物思いをしながら、お米を研いでいるふうに歌われています。本当に、誰を待つということもなくなってから、随分長い歳月1人で暮らしてきたのだなあという感慨が入っていると・・・。