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「短歌講座」
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昭和54年10月16日
②A
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大西 ・・・どうなると思い煩う日はあるけれども、ともかく、きょうはしっかり生きようと思って、その日その日を一生懸命暮らしていくのが私です。というふうに歌ってらして、この作者は『待つ人もなく耐えて久しき』というようなところで、ある程度の作者の年齢みたいなものも推し量れますし、それから、生き方として行く末思い煩う日がないではないけれども、それよりも、その日その日をしっかり生きようと思っているっていうことを打ち明けていらっしゃいますね、告白している。そういうようなところが歌の求めているものにうまくマッチしているというのかな。そういう意味でこの2首はいただけると思います。
こういう境涯にいる人は、決して少なくない世の中なんではないでしょうか。私も1人分のお米を研ぐ身分なんですけれども、この毎回研ぐのが面倒くさいんですが、4回分一緒に研いでしまって、あー4人分だなんて、研いでいるんですけれども、1人分の食事を作るつまらなさっていうのは同じことでございますね。この間、 朝日講堂で全国大会っていうのがありましてね、その中に8000首全国から集まったんですの。それを2日間通って選びましてね、私が1位に選んだ歌が、やっぱり一人暮らしの人の歌でした。
『荒涼は肩身に知りておどけつつ』。ともかく1人でする食事が非常に索漠としているものなんです。それをお互いが知っていて、おどけながらその1人の食事の様子を友達と話し合ったという歌だったんですが。その歌を1位に選んで批評したんですけれども、その1人でする食事っていうのがいかに索漠としたものだか、それは1人食事をしている暮らしの人でないと分からない寂しさなんですけれども。あるときはたくさん食べてしまったり、食べないで過ごしてみたり、お茶漬けをしてみましたり、いろんなことをして索漠としたものなんですけれども。そのことを歌った歌がございました。そういう境涯にいる人も多いんだなと思いましたね。
お休みするんですか。このまま続けていいですか。このまま続けていいですか、4時まで。お休み時間とると、その分足りなくなりますね。じゃ、続けます。
A- はい、お願いします。
B- 先生は、大丈夫なんですか。(####@00:03:07)。
大西 頑張りましょう。いらっしゃる方は、御用のある方はお立ちください、途中でね。
11番。『戦いにたもと分かちて有余年便り懐かし会う日間近に』『戦いにたもと分かちて有余年便り懐かし会う日間近に』。『刈り終えしあぜにしゃがみて一服の煙とともに夕日暮れゆく』『刈り終えしあぜにしゃがみて一服の煙とともに夕日暮れゆく』。30何年前かに終わった戦争ですが、戦争のためにたもとを分かって、お別れしてから随分歳月がたってしまった。それが何かのことで会う日が間近になって、その便りを読むことができて懐かしい思いを一生懸命歌った歌ですね。『戦いにたもと分かちて有余年』、そこがちょっと。有余年、たくさん時間がたったということを詠んでいらっしゃるんですが、有余年と使うときは、30有余年と書かなければ意味が通りませんね。10有余年、そういうふうに使う言葉ですから、有余年だけでは意味をなさないでしょう。
ここは指を折って数えると、34年かもしれないし35年かもしれないですけれども、そのときに『戦いにたもと分かちて三十年』でも構わないですね。はっきりと30でなくても、30年でも構わないんじゃないでしょうか。その長い年月がたったということを言うのに、有余年ではだめだと思いますね。『たもと分かちて三十年』でも構わないと思いますね。『便り懐かし会う日間近に』。会うが入りますね、送りがな。会日ではないでしょうね。『会う日間近に』。歌の気持ちとすると、会う日間近く、のほうが落ち着くかもしれません。『戦いにたもとを分かちて三十年便り懐かし会う日間近く』としたほうが、止まりがいいかもしれません。
それから、2首目のほうでは、刈り終えた田んぼのあぜにしゃがんで一服している、その一服していると煙と一緒に、きょうも暮れてしまうようだと歌っていて、今も農家をやっていらっしゃる方の歌でしたらよくできている歌だと思いますけれども。最後のところに、『夕日暮れゆく』。『刈り終えしあぜにしゃがみて一服の煙とともに夕日暮れゆく』、少し足りないところがありませんか。
『今日も暮れゆく』。それにしても少し、『刈り終えしあぜにしゃがみて一服の煙とともに今日も暮れゆく』。何か足りないような気がするんですけれども。気が付く方いらっしゃいません。『刈り終えしあぜにしゃがみて一服の煙とともに今日も暮れゆく』。しゃがみて、の辺りがおかしいと思います。歌の体、言葉の体といたしますと、『刈り終えしあぜに帰れば』というような感じなんですね。そういう何々すれば、『一服の煙とともに今日も暮れゆく』みたいな感じのほうが、歌の体、スタイルとすると、ピシッといくのでしょう。それで、しゃがみて、だけでは、ちょっと歌の形にしたときに整わないのだろうと思いますね。しゃがめば、ではおかしいし。
C- 先生、このしゃがみての後に、一服の煙が何々と暮れていくのかっていう、その何かの内容というか、何かがありそうですね。
大西 そうなんですね。何かがね。そういうようなところに、思わぬ落とし穴があるんですね、歌っていうのはね。『刈り終えてあぜにかがめば』とかいうような感じでしょうかね。『刈り終えてあぜにかがめば一服の煙とともに今日も暮れゆく』。それで一応、体というか歌の形はなると思いますね。『刈り終えてあぜにかかめば一服の』。しゃがむ、かがむ、同じことですね。かがめばのほうが、すらっといく言葉のようになりますね。『刈り終えてあぜにかがめば一服の煙とともに今日も暮れゆく』。そんな感じで置いときましょう。
それから、12番。『長雨の寂しさ故にこたつ点けて声なき家にいざ頑張らんと思う』『長雨の寂しさ故にこたつ点けて声なき家にいざ頑張らんと思う』。『窓を開ければ雑草の庭に虫すだく与野の住まいははや秋になりたり』『窓を開ければ雑草の庭に虫すだく与野の住まいははや秋になりたり』。この二つの歌の共通点、言いますと、『声なき家にいざ頑張らんと思う』、それから『与野の住まいははや秋になりたり』。ちょっと下の句の七七が、口早に読まないと間に合わなくなっているということでしょうかね。字余りになっているんですね。歌っていうのは、字足らずよりも字余りのほうがいいのでして、せっかく31音あるのだから、それを使わないのはもったいないのでして、31音をきっかりと使い切るのが理想でございますね。
佐藤佐太郎っていう現代作家の代表者がおられますけれども、佐藤佐太郎さんは五七五七七と字余りも字足らずもないのが一番、というふうにおっしゃっています。そして、その五七五七七もきっかりと単語が分かれていて、句が割れたり、またがったりしないのがいいというふうにおっしゃっていますけれども、今のような世の中の複雑な時代になりますと、そうもいかないので、字余りは、最小限に食い止めるようにして、できるだけ使ってもいいということ。字余りがいい、字足らずは損しちゃうからやめると。それから、句またがり、句割れっていう、途中で五七五七七の七の中で、単語がいくつもあったり、次の句にまたがっていたりする、句またがりとか句割れとかいう言葉がありますね。そういうこともあんまりこだわらず、ともかく五七五七七、31音内外でしっかりと一つの思想をまとめて言うということ、今の歌の大体の作り方になっていると思います。
ですから、字余りは恐れなくてもいいけれども、その字余りを処理するときに、なるべく上の句のほうにしてしまうほうが、格好がいいのではないか。字余りが上の句のほう、五七五の中でしてしまって、下の句は七七、となるべく定音にまとめておく。そのほうが、歌を詠んだときに、すらすらっと詠めるのでございます。特に、最後の七音は、なるべく字余りしないようにして、きちんと七音で収めると、声を出して詠んだときに詠みやすうございます。
ここの歌は2首とも、『声なき家にいざ頑張ばらんと思う』、『与野の住まいははや秋になりたり』。ちょっと七七のほうで字余りをしていらして、詠んだときにどなたかフフッとお笑いになったけれども、そんなことになるんだろうと思います。長雨が寂しくて、寒くて、こたつを点けた。そして、1人住んでいらっしゃるのかな。だからこの方も、誰も声をかけてくれる人なんかないんだけれども、『声なき家にいざ頑張らんと思う』。自分で自分を励ますように歌っていらっしゃると思いますね。
もし、字余りを取ろうと思うならば、『長雨の寂しさ故にこたつ点けぬ声なき家にいざ頑張らん』。と思う、取ってしまってもいいでしょ。『声なきに家にいざ頑張らん』。頑張らんはおかしいのかな。でも、いざ張り切らんでもおかしいし。いざ頑張ばらん、むつかしいですね。声を出して詠んでみることが大事なんですけれども。声を出して詠んでみたときに、そぐわないことが歌にもありますの。『声なき家にいざ頑張らん』。なんかやっぱりおかしいですね。と気が付くようなことが、声に出すことで分かることが多うございます。私は30首なら30首作りますとね、1人で住んでるもんですからいつでもいいんですけれども、録音してみます。そして聞いてみる。そうすると、目を閉じて聞いていますとね、変なところはやっぱり引っ掛かるんですね。それで自分の声で詠んだものを聞いてみて、歌を直すことが多いのです。詠みづらい歌っていうのは、結局、人が詠んでも詠みづらい歌なんですね。
そういうふうな工夫もしながら歌を作ってはいましたけれども、詠んで詠みやすいっていうことは、結局、五七五七七の調べに乗っていて、そう難しい言葉もなくて、活字で読んでも分かるし、耳から聞いても分かる、というのが一番いい歌なんでございましょうね。『声なき家にいざ頑張らん』というのはおかしいでしょうか。頑張らんというのは、ただ事ではないのかな。でもこの方は、自分で自分を励ましながら暮らしていらしてね。そして、歌っていうのはそういうところあるんですけれども、歌を作ることで自分を慰め、自分の魂を鎮め、鎮魂歌、レクイエムでございますけれども、歌を作ることで自分の魂が安らいだり、それから自分を励ましたりする効用っていうのは、歌にはとてもあるんですの。ですから、この歌も、大事なあれだと思うんですけれども。
D- いざ、っていう(####@00:16:35)言葉はね、違う言葉かもしれませんけど、(####@00:16:50)なので、(####@00:16:54)先生おっしゃって(####@00:16:58)。なんかそれを抜いてね、それで頑張るっていうことをもう少し柔らかくなる(####@00:17:11)、いざってそのときの気持ちを、いざやりましょう(####@00:17:19)って、さあ、やりましょうという気持ちなんだけれども、いざって言わなくても分かると思うんですけど。
大西 ああ、そうですか。詠んでみましょうか。『長雨の寂しさ故にこたつ点けて声なき家に頑張らんと思う』。
D- そうじゃなくて、頑張らんと思うというとこは、頑張るという言葉はあの言葉の中に入れてもいいんですけど、頑張らんと思うというのじゃなくてもいいと思うんですけど、いざというのがね、わずかの31音の中に絶対入れなきゃいけない言葉なんですかということなんですけど。
大西 うん、作者のこの歌が、独り言のように歌われているから、きっとね、自分を励ます言葉で、さあっていう言葉を入れたかったんでしょうね。こういうところに人にも見てもらう歌、結局、自分だけで作る歌じゃなくて、人に見てもらう歌ということがございますね。そのときは少し遠慮するところがあるわけですね。本当はこう歌いたいんだけれども、このとおり行ってしまうとおかしいかしらと思って、それが歌の推敲になるわけですけれども。
自分だけでいいかっていうと、誰かに読んでもらって分かってもらいたい。それには、どっかを削ったり、どっかを補ったりしなきゃならないわけね。そういう自分だけの歌と、人にも読んでもらいたい歌、言い換えれば文学としての歌って言いますか、人の鑑賞に堪える歌にするためには、ある程度自分の本音というものを抑えたり削ったりしなきゃならないこともあるわけですし、それから、抑えたり削ったりするだけが能なのではなくて、デフォルメって言いますか、デフォルマシオンって言うんですか、わざと大きくしたり、することもあるわけですし、それから誇張することだってあるわけですし、美化することだってあるわけだし、あるときは虚飾と言いますかね、そういうふうに着飾った言い方をすることだってあるわけですね。
歌の表現っていうのは、そういうふうに抑えたりばかりするのではありませんので、あるときは飾り、あるときは歪め、あるときは誇張し、そして一つの自分の感じっていうものを一首の中にまとめていくということが、歌を作る修練なのでございますね。ですから、いざ頑張らんというのは少し派手だから、もう少し抑えて抑えてというわけでもないわけでして、自分の魂を鎮めたり、自分を励ましたりする効用も歌は十分に持っておりますから、こういう歌も大事に私は感じているわけなんです。例えば、『いざ頑張らん』、さあという言葉を出したいんだけれども、詠めばおかしいかしらと思えば引っ込めればよろしいので、そういうところに歌の姿勢があるわけですね。
E- (####@00:20:21)すごく読んでても、内容がね、割に複雑なね、(####@00:20:35)そこで、いざってこういうね、言葉が(####@00:20:40)。
大西 いろいろなご意見あってよろしいですよ。それから、『いざ頑張らんと思う』と最後にきたのが、余計に目立つのかもしれませんので、『頑張らんと思う声なき家に』、ひっくり返してみても面白いですね。そうすれば少し目立たなくなる、ね。『長雨の寂しさ故にこたつ点けて頑張らんと思う声なき家に』。こうしてひっくり返してみますと、頑張らんと思うが落ち着くんではありませんか。『頑張らんと思う声なき家に』。そうすれば、こたつ点けて、でもよろしいですよ。『長雨の寂しさ故にこたつ点けて頑張らんと思う声なき家に』として落ち着けましょうか。そういうときは、倒置法というんですが、逆さに置く、倒置法。頑張らんと思う声なき家にと、ひっくり返してみる。そういうことも、自在になさってみてよろしいわけですね。倒置法。
逆に置いてみる。言葉が声を出して詠んでみて落ち着かなかったときは、逆さに置いてみる、逆に置いてみる、倒置法という技もよく使うわけですね。さまざまに工夫してみますと、その言葉、使いたい言葉が何とか使えたりするわけです。
2番目の方は、窓を開けると雑草が茂った庭に、虫がすだく。すだくっていうのは集まって鳴くことですね。虫が集まってさまざまに美しい音色を聞かせてくれる。思えば与野に住むようなってから、秋になろうとして、与野の住居も、住まいも秋になろうとしている。二首を読みますと、一人暮らしをしていらっしゃるのかな、窓を開けてみたり、それから少し早いんだけれども、おこたを点けてみたりして、独り身を励ましながら暮らしていらっしゃるような方ですね。こういうような方にとっては、歌っていうのは、またとない友達になるのでございまして、今の身の上をさまざまに歌うと同時に、そういう方はきっと、深い年輪を持ってらっしゃるに違いない方なので、さまざまに過去の事もさかのぼって歌い、それから現在の身の回りのこともつくづくと見て歌う、そして将来のことも歌う。離れて住んでいる肉親のことも歌う、亡くなった人のことも思ってあげる。そうしていけば、一人暮らしているものの、何よりの友達になるのが歌なんでございまして。
そういう意味では、恐れないで何でも歌ってらして、頑張らんでもいいじゃありませんか。頑張らんと思うというように歌ってね、ご自分を励ましていらっしゃる。そして亡くなった人がいれば、亡くなった人の歌を作ることによって、その冥福も祈ることもできますし。それから亡くなることもつろうございますけれども、生き残るということはもっと辛い事でして、その生き残った者の魂を鎮めたりしながら、終の日まではしっかり生きていかなければならない。そういうときに、歌っていうのは大変力になる文学だと思います。
万葉集など読みますと、神鎮めのために歌われた歌もございますね。神様に祈りをささげるための歌っていうのがございますし、それから何かを占うための歌もございますし。歌っていうのは、日本語の言霊って言いますか、言葉の持っている魂がさまざまに作用して、額田王みたいな、巫女さんのような役目をした歌詠みもございますからね。言葉っていうものには魂が宿る。だから、うっかり使ってもいけないし、使った以上は責任が伴うわけでして、それは神様の気持ちを、動かすものだというふうに昔から信じられてきておりますね。その言霊の花を咲かせるのが歌だったわけでございますね。ですから、今の私たちも、さまざまに歌を作って。
作ることによって悲しいこともございます。私の場合なんかもそうなんですけれども、何年も前に夫と別れたとか、それから7年も前に妹を亡くしたとか、そういうことを、その都度その都度、歌に作って残してきましたでしょう。ですから、それを読む度にね、昨日の事のように悲しいんです。こんなことをね、歌に作っておかなければ、もう、とうに忘れてしまったような悲しみなんですよね。30年も40年も前のこと、その日その日、一生懸命作って歌い継ぐことで耐え忍んできたようなことがありました。こんなに悲しいんだということを必死に歌に託していると、慰められてね、そして明日を迎えられるということがあったんですけれども。
30年たった後、読みますとね、本当にその悲しみが昨日のように感じられて、書くことによって一層傷を深くしてきたなと思うこともございます。ですから、歌を作ることが必ずしも慰めだけではなく、むしろ書くことで傷を深めることもありますし、思い出せば余計に悲しくなることもございますけれども、その日その日歌わずにいられないということも人間はあるものですから、その日その日の思いを歌に込めて残していく。それがアルバムなどでは及びもつかない人間の足跡になることだと思いますね。へたでも構わない。ともかく、その日の思いをできるだけ推敲して、そして純粋な形で残していくということが大事なんじゃないかと思います。後で振り返って、その歌を作るという営みが悲しいものかもしれませんけれども。でも、その日その日そうしなければ、過ごさなければ仕方がないなと思って、いまだにやっているわけなんですけれどもね。歌っていうのは、そういう意味では業の深いものであるわけでして。
さて、13番の歌にまいりましょう。『秋雨や夫(つま)も戻らず幼子と消えゆく先を案じ』。案じて、でしょうかね。『秋雨や夫も戻らず幼子と消えゆく先を案じて思う』。『夕暮れにこおろぎ鳴きてわれ寂し友一人だにありやなしやと』『夕暮れにこおろぎ鳴きてわれ寂し友一人だにありやなしやと』。『父と母いぬ寂しさやわれ一人秋雨の中そぼ降るにいる』『父と母いぬ寂しさやわれ一人秋雨の中そぼ降るにいる』。さあ、この方も大変寂しいようですね。『秋雨や夫も戻らず幼子と消えゆく先を案じて思う』。「て」を入れてみたほうが分かりやすいですね。秋の冷たい雨の降る時間、なかなか夫が戻ってこない。幼子と2人で夫の帰りを待っているわけですが、『消えゆく先を案じて思う』。もし、そのまま夫が帰ってこなかったりしたら、どうしようっていうことかな。ちょっと分かりづらいところがありましたが。
それから2番目の歌ですと、『夕暮れにこおろぎ鳴きてわれ寂し友一人だにありやなしやと』。コオロギの鳴く夕暮れ、秋の夕暮れっていうのは、西行法師が歌いましたが、みんな誰でもものを思う時刻で、秋の夕暮れコオロギが鳴いて寂しい。私には一体、お友達が1人でもあるのだろうか、ないのだろうかと孤独な思いにふけっているようです。『父と母いぬ寂しさやわれ一人秋雨の中そぼ降るにいる』。そこのところ、ちょっとおかしいですね。『秋雨のそぼ降る中に』、そぼ降る、秋雨の中。そぼ降る秋雨の中にいるということなんでしょうけれども、ちょっとこの順番が違うようです。句割れになりますけれども、『秋雨のそぼ降る中にいる』。そぼ降るを秋雨の、の次に置きましょうか。『父と母いぬ寂しさやわれ一人秋雨のそぼ降る中にいる』。そうしますと言葉の順番に、整いますね。
その三首の歌ですが、1人の人が作者だとすると、作者の人間像っていうのを描きますと、作者はどうも人の奥さんで・・・。