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「短歌講座」
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昭和54年10月16日
②B
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大西 ご主人も。
A- いえ、主人は詠みません。
大西 『夫(つま)も戻らず』ということは。
A- これは、秋の空ですね。雨が長く降っていて、秋空が戻ってこないという意味を込めたつもりだったんです。
大西 ああ、すると比喩なんですね。比喩、たとえ。
A- デフォルメしたつもりだったんですけど。やり過ぎちゃった。
大西 つまっていうと、歌の場合だと作者にとっての『夫(つま)』ってなりますね。そして、秋雨、幼子と消えゆく先、というのは、このままどんどん寒くなる?
A- 冬になるというのと、もし夫が帰ってこなかったらという意味を重なって、どうなるのかなと思うようなことを感じてみたっていう。
大西 ああ、そうなんですか。実際のことじゃなくて。
A- デフォルメしています。
大西 デフォルメ。そうですか。なるほどね。結局、秋の雨で寂しかったのね。そのことを歌にしたわけね。でも、歌っていうのはね、その歌を見て、その背後にある人間像っていうのかな、どういう人が作ったのかなあって、計り知るような文学なんですね。ですから、昔はよく夫(つま)の心になりて歌えるとかね、なんかそういう成り代わって歌うことが行われた、儀礼的に行われたんですけれど。今はもう一人称の文学のジャンルとして成立していますから、その歌が、作者イコールその歌の中の主人公、私になるんですね。そういうような習慣からしますと、この歌の三首、人間像が分からなくなってしまうんですね。そんなかわいらしいお嬢さんがいるお母さんなんじゃなくて、止まんなくなっちゃうね、ほんとにしょぼくれた男の人かなと思ってしまう。
そういうような、夫(つま)も戻らず、というようなことになると、夫の帰りを待っている奥さんだなというふうなことになるしね。そういうふうなところで統一した作者の人間像がつかめるような、そういう歌い方が必要ですね。特に三首並べるときはね。この作者は、大体どんな年齢でどんな境遇の人で、どんな考え方を持っている人かなっていうようなことが、統一した形であるような心配りをして、三首作るっていうことが大事でしょうね。作者がまるで違ったような歌にならないようなことも大事でございます。
それから14番。『白萩のこぼれ咲き染め秋は来ぬ葉末の露も輝きてさやか』『白萩のこぼれ咲き染め秋は来ぬ葉末の露も輝きてさやか』。『こは秋の桜花かと見まがいぬ紅の葉に枝垂れ咲き満つ』『こは秋の桜花かと見まがいぬ紅の葉に枝垂れ咲き満つ』。これは秋の気配の爽やかを歌ってらっしゃいますね。白萩がこぼれ咲き始めて、秋になった。萩の葉末の露も、光り輝いたりして爽やかになるという一首で。それから、こはというのはこれはということですね。これは秋の桜花かと思わず見違えてしまうような、明るいハギが枝垂れて咲いているのが本当に美しい。
ハギの花に寄せて、秋をたたえた歌ですね。また万葉集を思い出しましたけれども、万葉植物という万葉集4500首の中に歌われている植物の数っていうのは、160種類ぐらいあるんですね、万葉植物。その中で一番多い歌がハギの歌です。万葉時代の、奈良時代の人たちが、さまざまな野原に咲く花の中で一番愛したのがハギの花だったいうことが言われているんですけれども、ハギのような目立たない花で優しい花っていうのが、万葉集の時代には好まれたらしいんですね。それで思い出しました。ハギっていうのは、本当に日本的な花で、万葉人にも愛された花でございました。
15番まいりましょうか。『老いまとう心揺さぶるごとくして庭に来て鳴く山鳩一羽』『老いまとう心揺さぶるごとくして庭に来て鳴く山鳩一羽』。『山鳩の鳴くしきりなり短日の暮れゆく秋を惜しむかなれど』『山鳩の鳴くしきりなり短日の暮れゆく秋を惜しむかなれど』。15番では初めのほうの歌に丸をあげたいと思います。『老いまとう心揺さぶるごとくして庭に来て鳴く山鳩一羽』。山鳩の歌を二首出していらっしゃいますが。老いっていうふうなものを、いつよりか身にまとうようになって、その私の心を揺さぶるように、山鳩がたった1羽庭に来て、しきりに鳴いて声を聞かせてくれる。山鳩が寂しく鳴くという歌は、よく読むんですけれども、この歌のように自分自身の老いっていうふうなものを意識し始めた人、そういう人にとっては老いをまとう心をまるで動揺させるように、山鳩のたった1羽来て鳴いている。山鳩の鳴き声の捉え方が、この人自身のことであるような気がして、この歌に丸をしたわけです。
その次の歌も工夫して歌われていました。『山鳩の鳴くしきりなり短日の』、短い秋の日なのですね。秋の日の暮れゆく、そういうもう晩秋のころ、暮れゆく秋っていうんですかね。秋を惜しむかのように。暮れゆく秋を惜しむ気持ちが自分にあるわけで、しきりに鳴いている山鳩も、同じように秋を惜しむ、暮れゆく秋を惜しむ気持ちじゃなかろうかと、山鳩に呼びかけるように歌っていると思いました。
16番。『わだかまり残せしままの友に遇い物憂き夕べに秋霖止まず』『わだかまり残せしままの友に遇い物憂き夕に』、あきづゆと読むかもしれません。秋霖、秋の長雨のこと、秋霖と申しますね。秋梅雨とも申しますが、『わだかまり残せしままの友に遇い物憂き夕べに秋霖止まず』。『波風のなき一つ屋よ健やかに深き子なれよ頬寄する間も』『波風のなき一つ屋よ健やかに深き子なれよ頬寄する間も』。何かわだかまりを残したまんまのお友達と、会いたくなかったんだけれども、そこに遇いというそのあうは、偶然の遇を書いてあいと読ませていますから、たまたま会ったということでしょう。できれば、会いたくない友達だったのかもしれませんが、わだかまりを残したまんま過ごしていたお友達に偶然会ってしまって、本当に憂鬱なんです。その夕べに、秋の長雨が降りしきっていて、いよいよ私を憂鬱にさせる夕方だと歌っています。割によくできていますね、この歌は丸にしましょう。
それから、その次の歌なんですけども、『波風のなき一つ屋よ健やかに深き子なれよ頬寄する間も』。お幸せなご一家のようですね。波風がないような家に、作者と子どもと孫と住んでいるのでしょうか。そこに、かわいらしい孫が1人いて、1人か分かりませんけども、そのお孫さんに頬寄せて、健やかに深き子であれと願うような気持ちだということなんですね。作者は分かってらっしゃるんですが、『健やかに深き子なれ』、何が深いんでしょうね。健康で深い子どもであってほしい。その作者だけが分かっていて、読者に分からない言葉が一つございましたね。『波風のなき一つ屋よ健やかに深き子なれよ頬寄する間も』。そこのところ、ちょっと足りない、言葉がね。
深き子、だけでは、第三者には何が深いのか分からない。思いやりが深いのか、思慮深いのか、さまざまございましょう。深い、何が深いのかその主語に当たる部分が足りないんですね。『頬寄する間も』、そこまで言わなくて、深き子、のほうに主眼を置いて歌ったほうが良かったかもしれないと思いましたね。まあ、頬寄せる程かわいらしいお孫さんだということで、捨てかねた言葉なのかもしれません。
17番。『岸近くかすかに見ゆる藻の上を魚影かすめて波静かなり』『岸近くかすかに見ゆる藻の上を魚影かすめて波静かなり』。『寝付けぬ間書をめくる音闇に溶け物音ひとつなく夜が』。夜が去く? 去るだから去くかな。『寝付けぬ間書をめくる音闇に溶け物音ひとつなく夜が去く』。読めないことはないですね。この17番は、初めのほうの歌に丸だろうと思います。川の流れの岸辺に近いところに、かすかに藻草が生えていて、水草ですね。藻がかすかに見えている。その藻の上を魚の影がかすめて過ぎていくけれども、水を波立たす程ではなくて、水は静かに流れていく。『岸近くかすかに見ゆる藻の上を魚影かすめて波静かなり』。ゆらゆらと藻があって、その藻のほとりを魚が、小さい魚でしょうか、過ぎていく。波が静かだなと思う。この歌でなぜ丸をしたかといいますとね、情景が大変静かに描けているということは、作者の気持ちも静かなんでしょうね。作者が平和な気持ちというかな、その平和さを見逃さない、深い平和が作者の身にあるような気がして、その静けさがいいと思いました。
それに比べると、2首目のほうは眠られなかったりしている。1人の人でもさまざまにありますね。眠られなくて、本をめくっている。本をめくる音も闇に溶けてゆく。物音が何もしないで、ただ深々と夜が更けていくようだというのですね。たくさんの、1月の間に何千首という人の歌を私は読みますけれども、眠られない歌っていうのは非常に多いですね。眠られなくて困っているというのが大変多いですね。この方も不眠症ですね。これで半分ぐらいまでいきましたでしょうか。
B- ちょうど半分です。
大西 ちょうど半分ね。4時になってしまいましたが、さて、この分では与謝野晶子までいかないですか。でも、プリントだけはあげましょうね。そして、読めるだけ、読めるように。4時になってしまったので、奥さまたちですから、遅くならないようによろしいでしょう。
B- 脂がのってきたところと思うんですけど。次の23日に、お楽しみは次ということで。そのときよろしく。本日はこれでおしまいにしますけど。ありがとうございました。
大西 あの、風邪ひいていてごめんなさい。聞きづらかったでしょう。すみません。
(了)