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「短歌講座」
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昭和55年11月12日
②A
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大西 ・・・しくしたりする、前衛的なフロンティア精神っていうんでしょうか。開拓精神で新しい短歌を作っていこうとする人たちもいるわけですね。そういうのが今の歌の流れになっていて、ご自分で歌を作るときに自分がきっちりと風景を、先のどれでしたか、ソバの花のような、風景をきっちりと、ありのままに美しく描きたいというような歌の作り方の人は、写実派の雑誌へもし入るなら入ればよろしいし、それから幻のような白い月が私と一緒に歩いていったというふうな感じの歌を作りたい方は、浪漫派の雑誌を選んでお師匠さんを選べばよろしいと思うんですね。自分の個性に合った歌を作っていきやすいようなお師匠さんを選んで、作っていけばよろしいわけで。ロマンチックな夢のような歌を作りたい方が、アララギへ入っても苦労するばかりなわけです。「あんたの歌は分からないよ」って言われてしまうわけです。
アララギの中で、今、選者をしている清水房雄っていう方、浦和にいらっしゃるんですよね。その方が、こないだお話したのを聞いたんですけれども、その人が東京高等師範の学生だった頃に、初めてアララギの歌会に出たんだそうです。その方がまだ若かったから、学生だったから、早春の原っぱに寝っ転がっていたら、草の萌える音が聞こえるような気がした。草の、しくしくと萌えてくるような音がしたような気がした、という歌を作って出したんだそうです。そしたらアララギの五味保義という先生が、「それはどんな音だったか」って聞いたんだそうです。「どんな音って聞こえたわけじゃないけれども、草の萌えてくる音が聞こえたような気がしたんです」って頑張ったけれども、「ちゃんとどんな音だか言ってみろ」とおっしゃって。「聞こえないようなことを歌っても駄目だ。ちゃんと聞こえたり、ちゃんと見えたりした、そういう本当のことしか歌っちゃ駄目なんだ」と言われた。「そのことが結局アララギの歌い方の根本なのだ。ような気がした、じゃ駄目であって。確かに見た、確かにあったということだけが歌なんだよ」と教わった。それをそれ以来、信じて、自分は歌を作ってきたというふうなことをおっしゃいましたけれども。
浪漫派のほうだったら、草萌えの音が聞こえたような気がしたと歌うと、なかなかデリケートでよろしいとこう褒められるわけなんです。それほどの違いが極端にいけば、あります。だから、あまりこだわらないでよろしいけれども、自分の歌がどっちに向いた歌かということは、向き向きによって、よろしいんだと思うんですよ。
歌う内容によって、歌い方はさまざまに変わってきます。例えば与謝野晶子でもそうですけれども、若い頃は、『柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君』っていうふうに、与謝野晶子は22歳のときに与謝野鉄幹って人が、奥さんも子どももあったところへ、押しかけ女房で出掛けて行くんです。堺から出てきて、東京へ来て、前の奥さんを追い出してしまって。後から押しかけ女房で居座ってしまうような激しい恋愛をした人ですので、その若い頃の歌っていうのは非常にロマンチックです。ですけれども、与謝野晶子も実際、結婚してみると、旦那さまは生活能力がなくて、ちっとも働かないんですよね。だから与謝野晶子は自分の歌を作って売り、文章を書いて売り、源氏物語の講義をして儲け、そして11人の子どもを養っていくんですね。そういう中で、いつまでもロマンチックではいられなかった。
それで与謝野晶子の歌も、次第に苦しい生活の中で、リアルになっていきます。現実的になっていく。それでも初めから写実派の人とは違ったリアルになっていくんですけれども。歌の中身によって、内容によって歌い方は非常に違っていきます。与謝野晶子は死ぬまでに、63歳で死にますけれども、5万首もの歌を作った。5万首の歌を作って亡くなるんですけれども、5万首の歌全部がロマンチックであるわけがないです。現実的な歌が非常に多いです。ただ、亡くなるまでやっぱり、浪漫派の血筋だなあと思うリアルな歌を作ったんです。内容によっても変わりますけれども、誰も与謝野晶子のことを写実派とは申しません。やっぱり浪漫派の大きな星であったことは確かでしてね。だから歌う中身によってロマンチックであったり、リアルであったりすることは同じ作者でもあるんです。
ですけれども、その本質として私はどっちかというと浪漫派の歌を、もっと20年もたっても、やっぱり作ると思いますけれども。それは年取ったなりの歌になっていくと思います。そういうことでございますから、自分がどっちのほうかなあと、真ん中頃かなあという方もいるかもしれません。どっちつかずだなあと思う方もいるかもしれませんけれども、そういうことにこだわらずに思うように歌っていらして、お師匠さんを見つけるとき、どこかの結社に入るときは、自分を見極めて、自分に合った雑誌を見つけて入るということが大事だと思います。
加藤克巳さんは、埼玉の生まれではいらっしゃいませんけれども、もう埼玉に住んで30年、もっとたっておられるかな。もう埼玉の方同然で、県の歌人会の会長さんもしておられますし。歌の上では大変、冒険なさいますけれども、ご自分の歌は冒険なさいますけれども、割合に他の方の歌も公平に見てくださる先生ですので、加藤先生の存在というのは埼玉では大きゅうございます。私なども励まされたり、叱られたりしながらいるのですけれども。そういう方もいらっしゃる。ご自分の歌はあくまでも前衛ですけれども、お弟子さんにそれを強制しようとはしていらっしゃらない方です。それは安心だと思っております。
初めての方や、いろいろいらっしゃるので、いろいろなお話をしていきたいと思います。何か分からないことがあれば、またお聞きくださいますように。それでこの、よろしゅうございますか? 写実派、浪漫派、前衛派。そして旧派という、正岡子規、与謝野晶子、それ以前の歌が多く旧派なわけです。今も宮中で歌われている歌が、旧派に近い歌い方でございます。天皇様も皇后様も皇太子様も美智子様も、割合に景色をお歌いになるでしょう。ご自分の夫が恋しいなんて歌は作らないでしょう。そういう、何ていうか古風な平淡な歌をお作りになる。どっちかっていうと旧派の歌の続きを、少しずつ改めながら作ってらっしゃるのが宮中の歌ではないかと思うんですけれども。仁徳天皇の皇后の磐之媛などという人は非常に嫉妬深くて、天皇がなかなか帰ってこないと、しきりにやきもちの気持ちを歌った歌を作っていらっしゃる。それが素晴らしいのですけれども、今の皇后様はそんなことなさいませんで、淡々と山が青かったとか花が咲いてたとか、そういう歌をお作りになる。その方が無難でございます。モデル問題が起きて、大変でしょう。誰のことだろうっていうようなこと、早速、週刊誌が書きますからね。そんなことされないように、用心して宮中では多分、作ってらっしゃるんだと思います。
景色を歌っている分には無難でございます。私どもも妻子、何ていうかな、家族の人に迷惑かけないようにするためには花が美しい、バラが咲いたとかって歌ってるほうが無難なのでして。帰ってこない夫は何してるんだろうなんて歌うと、何もしてないじゃないかって、こう旦那さまがおっしゃるでしょうから。そういうことを考えながら、あんまり家庭の中でトラブル起こさないような歌い方をして、さりげなく上手に歌っていらっしゃることが大事でございます。
それでは現実に戻りまして、11番の歌。『ボイラーの扱いにも慣れ二の人生磨けば素直に光る計器よ』『ボイラーの扱いにも慣れ二の人生磨けば素直に光る計器よ』。意味が分かりますか。『二の人生』というところ、第二の人生ということなんでしょうね。再就職なさったんじゃないかなあと思いました。今までどこか別のお仕事してらして、再就職でボイラーを扱う仕事になったということじゃないかな。それで、再就職してしばらくたって、ボイラーの扱いにも慣れてきた。ボイラーの付属品である部分を磨くと素直に計器が光って、この仕事も愛していけるなあと、そういう感じじゃないでしょうか。
『二の人生』、第二の人生ということを、第を取っても通用するかどうかということは、ちょっと難しいかもしれませんね。さっきもご質問があったんですけれども。字余りがあってもいいかというお話でございましたけれども。五七五七七の、たった31音しかございませんので、字足らずにして28音しか使わないなんてのは、最も損なやり方でございますから、なるべくきっちりと31音は使い果たすように。余った分をうまく処理して字余りにする、ということが歌の節約した使い方だろうと思うんですけれども。この歌ですと、『二の人生』なんて言わないで、再就職したということを、ちゃんと書いてもいいんじゃないかと思うんですね、もしそうならば。私の解釈が間違っていなければ。『再就職し』、最初に持ってきちゃっても構わないでしょうか? 『再就職しボイラーの扱いにも慣れぬ』と。『磨けば素直に光る計器よ』。『再就職しボイラーの扱いにも慣れぬ磨けば素直に光る計器よ』というふうなまとめ方もある。第二の人生などということを言おうとすると、面倒になります。だから『再就職しボイラーの扱いにも慣れぬ磨けば素直に光る計器よ』とあっさりおっしゃってしまっても、いいと思います。もしそうであれば。再就職かどうか、そこのところが分からないのでございます。
それから12番。『明日を待つ祭りの法被肩掛けて今宵の君はさんざめき去く』『明日を待つ祭りの法被肩掛けて今宵の君はさんざめき去く』。お祭りが明日になって、お祭りのときに着る法被を肩に掛けて、今宵のあなたは何となくさざめいて、愉快そうに去っていきましたと、いうのでしょうかね。『さんざめき去く』。さんざめくという言葉、さざめき騒ぐ、そんな感じですけれども。『肩掛けて』、肩に掛けて、ということでしょうかね。『明日を待つ祭りの法被肩に掛け』でも構わないと思います。『今宵の君はさざめきて去る』、ゆくという字を去るという字書いてますけれども、去るでも構わないじゃないでしょうか。『さざめきて去る』くらいのほうが、優しいかもしれません。さんざめく、少し騒がしい感じで、いつもより落ち着かない感じ、うれしそうな、そぞろな感じ。そんなことでしたら、『さざめきて去る』で十分だと思います。『明日を待つ祭りの法被肩に掛け今宵の君はさざめきて去る』。いかにも明日の祭りを、楽しみなふうだなあということ、歌ってらっしゃいますね。
それから13番。『王室の名も美しき花薔薇(そうび)誇りを秘めてたおやかに咲く』『王室の名も美しき花薔薇誇りを秘めてたおやかに咲く』。クイーン何とかっていうような名前のバラの花が多うございますね。そういう花の優しい美しさを歌っていらっしゃる。王室の名っていうのですから、具体的には言っていませんけれども、クイーン何とか、キング何とかっていうんでしょうか、そういう名前を持った名花ですね、名花。美しい花がそういう誇りを秘めたかのように、たおやかに優しく美しく咲いていると、バラの花を歌った歌で、これはこのままでよろしいでしょう。『王室の』と言わないで、例えばクイーンメリー、クイーンメリーってのは紅茶の名前かな? クイーンメリーのとかってそこへ入れちゃっても構いません。クイーン誰それの、『名も美しき花薔薇』と、そこへ入れてしまってもいいと思います。王室、と一般的にしないで、クイーン何とか、キング何とかって入れても構わない。
14番。『今年また茶の花白くこぼれ落つ旅にある子は帰らぬままに』『今年また茶の花白くこぼれ落つ旅にある子は帰らぬままに』。この歌はいい歌ですね。また今年もお茶の花が白く寂しく咲く季節になった。遠い長い旅に出ている子どもは帰らないまんまだと、親の嘆きを訴えています。親の嘆きを訴えるのにいかにもふさわしく、お茶の花が歌われています。これなどは、いわゆる短歌の叙情っていうようなことを、うまく取り込んだ歌だと思います。お茶の花の感じ、そして子どもの帰ってこない嘆き、そんなものをうまく組み合わせて歌っています。
15番。『華麗なる色染め分けし夕映えは空の衣桁に掛けて眺むも』『華麗なる色染め分けし夕映えは空の衣桁に掛けて眺むも』。少し展望の大きい、スケールの大きい歌でして。美しく色を染め分けた夕暮れの空、その美しさを眺めてみたい、眺めようというんですけれども。その眺めるのに『空の衣桁に掛けて眺むも』と、比喩を使って、例えを使って書いているのですね。ただ眺めるんじゃなくて、美しい着物を衣桁に掛けて眺めるように、空の美しさをしばらく眺める、そういう感じに仕立てています。『眺むも』の「も」は感動詞の「も」。眺めることよと、眺めているよというような歌ですね。『眺むも』、「も」っていう、あんまり使わない感動詞ですので、『掛けて眺むる』だって構いませんね。眺むるだって構いません。それから眺めたいというふうに、眺めんと歌っても構いません。『眺むも』、ちょっと舌がこうもつれるような感じですから。『空の衣桁に掛けて眺めん』、空の衣桁に掛けて眺むる。そんな感じのほうが、比喩がありますから、「も」のところで強調しなくてもいいかもしれませんね。
それから16番。『稲こきてむずかゆき身を湯浴みたりシルクロードのテレビは終わる』『稲こきてむずかゆき身を湯浴みたりシルクロードのテレビは終わる』。この歌も面白いと思いました。稲こきをしたので、のぎが体に刺さるのでしょう。むずがゆい。それで、ちょうど8時頃ですか、お風呂に入っていた。そうしている間に楽しみにしていたシルクロードのテレビは終わってしまうという歌で、生活感覚が出ていると思います。何を見なくともシルクロードっていうんで、私なども見ているんですけれども、シルクロードの楽しみにしていたテレビが、せっかくのテレビが終わってしまったと歌っていて、農繁期にある農家の秋の生活が出ていると思います。
そこの『湯浴みたり』と止めるかどうかってことですけれども、『むずかゆき身を湯浴む間に』というふうな歌い方もあると思います。『稲こきてむずかゆき身を湯浴む間に』、湯を浴びている間にシルクロードのテレビは終わるという、はっきりとした書き方もあるかもしれません。『湯浴みたり』という次元と、『テレビは終わる』という時間とのこのずれをなくするためには、湯浴んでいる間に、湯を浴びている間にと、『湯浴む間に』としてはっきりさせるのもいいかもしれません。
17番。『この朝(あした)磁気ネックレスのことさらに肌に冷やけし秋深みかも』『この朝磁気ネックレスのことさらに肌に冷やけく秋深みかも』。どちらがいいか分からなくて、冷やけしと、冷やけくと両方書いてらっしゃいますね。この今朝はことさらに寒くて、磁気ネックレス、マグネットって磁気の入ったネックレス、私も持っておりますけれども、磁気ネックレスがことさらに冷たく感じられる。いよいよ秋が深くなったのだなあと、晩秋の感じを出しています。どちらが良いでしょうね。どちらでも別に障りはないようですけれども。『肌に冷やけし秋深みかも』、そこで切るか。『冷やけくして秋深みかも』、と続けるかどっちかですね。冷やけく、のときは冷やけくしてというような言葉を補って考えればよろしいですね。『冷やけくして秋深みかも』。『冷やけし』のほうが落ち着くかな。『冷やけし秋深みかも』。どちらでもよろしいですよ。磁気ネックレスなんていう、細々とした金色のネックレスですけれども、それが喉に冷たいと感じられる。そんな肌寒い朝の感じを出してらっしゃると思います。
それから18番。『西果ての灯台の道風に咲きし』かな? 『咲きし』であれば「き」が入ります。送り仮名の「き」。『風に咲きし赤く小さき山の椿は』。西果てというのは西の果てだったので、こんな字を書いてますが、普通ですと最もという字。最も果てのほう、最果てと書くときは、最もという字を書きますが。最も、大丈夫ですね?
(無音)
大西 大抵の場合は最果て、最も向こうという、そういう字を書くようです。これは、最も西の果てという意味で西という字を使ったのでしょう。陸地の一番、突端のほう、西のほうの果ての灯台。その行く道は風が寒くて、気が付くと赤く小さく山椿が咲いていたというのですね。そこの切り方ですけれども、『風に咲きし』というのは、ちょっと不自然ですので、『西果ての灯台の道風寒し』と切って、『赤く小さく山椿咲く』。山の椿と言いたいところですけども、『山椿咲く』としてもいいような気がします。『西果ての灯台の道風寒し赤く小さく山椿咲く』。そんなような、調べを出して歌う。『風に咲きし』、ちょっと不自然ですからね。『西果ての灯台の道風寒し赤く小さく山椿咲く』。そんなことでいいと思います。西果ての灯台だから、どこか西国の向こうのほうの果てですね。
それから19番。赤く小さく、でないと続かなくなりますね。『赤く小さく山椿咲く』。「く」が重なるかな。
19番。『国境に立つタコマ富士忘れ得ず国恋う日本の老い人もまた』『国境に立つタコマ富士忘れ得ず国恋う日本の老い人もまた』。タコマ富士ってどこにあるのかなあ。どこか外国の土地に立っている富士山の形をした火山なのでしょうね。国境に立っているタコマ富士を忘れることができない。そして、故国を懐かしがっていた日本の老人の姿も、同じように忘れ難いと歌って、異国をしのんだ歌ですね。『国恋う日本の老い人もまた』。ちょっと舌足らずなような気もしますけれども。そこを続けて、『国境に立つタコマ富士国を恋う日本の老い人』何とかって続けちゃって、『忘れ得ず』とまとめていっても構わないところでしょうけれども。調子を出すために、『タコマ富士忘れ得ず』と歌ってらっしゃるんだと思います。そこに住んで、年老いてしまった日本の人々の様子などを忘れ難く思っているということですね。少し下の句、工夫を要するかもしれません。『国恋う日本の老い人もまた』、ちょっと尻切れトンボになってますね。作者が分かってから、また工夫いたしましょう。
20番。『退職の後の一日をひとり来て心ゆくまで二科展を見る』『退職の後の一日をひとり来て心ゆくまで二科展を見る』。この歌は、きっかりとできていまして、よろしいと思います。退職をしてゆっくりした気分になって、本当に珍しいことなんだけれども、二科展を見に来た。『心ゆくまで二科展を見る』。二科展というと、どちらかというと短歌ではありませんが、前衛的な冒険に満ちた絵でございますね。そういう絵の展覧会を心ゆくまで見て回った。退職した人でないと歌えない歌で、よろしいと思います。
21番。『病重き母に添い寝の窓近く吹雪ける音にふと目覚めたり』『病重き母に添い寝の窓近く吹雪ける音にふと目覚めたり』。病の篤いお母さんに付き添っている、付き添ってうつらうつらしているのでしょう。吹雪の音にふと目が覚めたりして、また、ああお母さん病気なのだと思い直したりして、夜を看取っている人の歌ですね。これもきっかりと歌えています。
それから22番。『コスモスは溢れて咲きぬ高原にあるともなげな風に揺れ揺れて』。高原のコスモスというのは秋の風情の美しいものの一つですけれども。溢れるように咲いたコスモスが、高原の風に揺られている。『あるともなげな』、風が吹いてるとも思えないような、あるとしもない風に揺られている、高原のコスモスを描いていると思います。『あるとしもなき』でも構わないかもしれませんね。『あるとしもなき風に揺られて』でも構いませんね。『揺れ揺れて』。揺られて、でもいいかもしれない。字余りのとき、なるべくならば五七五七七の最後の7音は字余りにしないほうが落ち着きます。『風に揺れ揺れて』と。ちょっと舌をかみそうになりますから。『風に揺られて』でも構いませんね。7音にする。着地をしっかりするということです。
23番。『わが庭に秋咲く花は萩と薔薇黄菊白菊ほととぎすなど』『わが庭に秋咲く花は萩と薔薇黄菊白菊ほととぎすなど』。ちょっと花づくしという感じですね。私の庭に咲いている秋の花はハギとバラ、黄菊白菊、そして珍しいホトトギスの花などもありますよと歌っていますね。万葉集などにも花づくしの歌がありますけれども、そんな気がいたしました。
それから24番。『後遺症持つ母なれば懸命に生きんと今朝も杖つき散歩』『後遺症持つ母なれば懸命に生きんと今朝も杖つき散歩』。散歩って止め方、少しあっさりし過ぎてるかな。『杖つき散歩』。脳軟化症かなんかでしょうか、脳卒中かなんかでしょうか。後遺症があって、お母さんは一生懸命その病後を生きようとして、杖をついて試歩をしているのでしょう。できれば散歩すと、止めたいところですが。杖つき散歩、ちょっと浮いてしまうでしょ、最後がね。字余りになりますけれども、『今朝も杖つき散歩す』と、きちっと止めましょうか。
それから25番。『憧れし海は真下に波打ちてヨットの白帆ゆるく遠かり』『憧れし海は真下に波打ちてヨットの白帆ゆるく遠かり』。憧れて海を見に来た。その海は目の真下に美しく波を返していて、ヨットの白帆はゆるく遠ざかりながら、漕がれて行った、と歌っていますね。『ゆるく遠かり』、遠かりというのは遠くありということですね。遠くありの詰まった形です。『ヨットの白帆遠ざかりゆく』、ぐらいの止め方のほうがいいかなあ。『憧れし海は真下に波打ちてヨットの白帆遠ざかりゆく』。『遠ざかりゆくヨットの白帆』と、ひっくり返してもいいですが。こういう歌は風景を美しく絵はがきのように歌わなきゃなりませんから、調べもなだらかに行くことが大事です。『憧れし海は真下に波打ちて遠ざかりゆくヨットの白帆』、というふうな調子を出した歌い方をするのもいいと思います。
26番。『冷たさの少し残りて冬は行き丸き水面に梅花の散りて』『冷たさの少し残りて冬は行き丸き水面に梅花の散りて』。丸き水面っていうのは何かなあ。その器が丸いということかなあ。水面というのは水平なわけだから、丸いというのは器か池かが丸いんでしょうね。『梅花の散りて』、梅花なんてのは漢詩みたいですからね、梅の・・・。