③B

 
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大西 のわけとも、のわきとも言っておりますけれども、秋の終わりに吹く冷たい風でございます。
 それから、3番。『手移しにもらいし木の実月日経て君の面影いよよ恋しき』『手移しにもらいし木の実月日経て君の面影いよよ恋しき』。この方は収拾のつかないよわいになってコスモスの花に恋を夢見ると歌った方ですけれども、手から手へと手移しにしていただいた木の実、そういう思い出があって月日を経て、いよいよあなたの面影が恋しいことですと歌って、そう若くない人の恋愛感情っていうふうなものを2首の歌で歌っていらっしゃると思います。
 歌というのは、文学として考えますと、相手に見てもらい、第三者にも見てもらって、理解されて、いいなあと思われる歌が、文学としての歌なんですけれども、こういう歌を、人に見せるためでなくて、自分の心のために、自分の心の形見に、記念として作っておくときは、自分の思ったとおりになるべく言葉を整えて、日記の片隅でも書いておく、それもまた歌の一つの効用でございますからね。『いよよ恋しき』と歌って、歌うことによって、走っていくのではなしにそこで心を静めて、恋しいけれどもっていうふうなね、自分の心を静める、そんな役目も歌は果たすと思います。
 だからこの前、申しました挽歌というのが、亡くなった人の魂を鎮め、残された人の魂も鎮めると申しましたけれども、相聞の歌、恋の歌の場合もそういうことがあると思います。恋しいなあと歌うことで自分を静めるという、そういう役目があると思いますね。ですから、人に見せたら恥ずかしいと思うような内容でも、きちっと書いて、なるべく整えて書いて、どこかに残しておくと。そういうことによって自分の心がそこに凝り固まりますから、そのことで心が落ち着くことがございますね。
 それから4番。『八度目の外遊終えて戻る夜胸を病みにし』、病みと「み」を入れましょうか、『病みにし昔思ほゆ』。『八度目の外遊終えて戻る夜胸を病みにし昔思ほゆ』。この前の歌では、少年期にご両親に別れたけれども、その後、順調に生活してきて孫が生まれたという歌でございましたが、この歌では8回目の外遊を終わったと、どこにいらっしゃるのか、私など一度もまだ外遊したことないのに、8回目の外遊を終えていらしたという境遇の方ですね。8回も外遊をして無事に戻ってきたその夜、昔、胸を病んで、胸の病に侵されて、結核か何かだったのでしょうか、肋膜炎でしょうか、胸を病んだ昔のことが思ほゆ、というのは思われるという、自然に思われるというときに思ほゆと使います。昔の言葉ですけれども割合に思ほゆは今でもよく使います。何々が思われてならないというようなときに、何々を思ほゆとよく使いますので、これは今もよろしいですよ、思ほゆ。昔が思われるということですね。『八度目の外遊終えて戻る夜胸を病みにし昔思ほゆ』。きちっとした歌で、よろしゅうございます。
 それから5番の歌。『ふと触れて割れたる卵に黄身二つひと日の糧と飲みて安らぐ』『ふと触れて割れたる卵に黄身二つひと日の糧と飲みて安らぐ』。ちょっとして何かに触った拍子に卵が割れたと、ちょうどそれを飲んでよかったなというか何ですけれども、その割れた卵に黄身が二つ入っていた。双子の卵だったんですね。それを飲み干して、きょう一日の糧にしようと、ほっとしたという歌ですね。『ふと触れて割れたる卵に黄身二つひと日の糧と飲みて安らぐ』。幸いなことにどっかのどんぶりか何かに割れたんですね。床の上に落ちたりすると、私がよくやるんですけれども、卵を床に割ってしまうとひどいですね。この頃は上手になってティッシュペーパーで処理することを覚えたんですけれども、卵を落とすといたみませんね。この場合は飲めたんだから、うまいことどっかへ落ちたんですね。『ふと触れて』、割れた卵に黄身が二つあった、それで何かいいことがあるような気がしたんですね。そしてそれを飲んできょう一日の、ひと日の、一日の糧だなあと思って安らかになったという、偶然が重なっていますけれども、よろしいでしょう。
 それから、6番の歌。『諍いて戻りこし子の高ぶりを和らげんと誘うコスモスの丘』『諍いて戻りこし子の高ぶりを和らげんと誘うコスモスの丘』。何か諍う、ごんべん、言葉で争うというのですから、争うというときはもっと範囲が広くて手づかみの争いになっても争いですが、諍うというときは言葉の口げんかというんですね。言葉の争いですから、言葉争い、口げんかのときは諍うと使います。口げんかをして戻ってきた子ども、高ぶっている、興奮しているのを和らげようと思って、コスモスの丘のほうへ誘って何か聞いてあげようとしているわけでしょう。そんな歌でございます。
 『諍いて戻りこし子の高ぶりを和らげんと誘うコスモスの丘』、こういう『コスモスの丘』っていうふうな名詞止めって言うんですけれども、名詞止めを好まない先生も中にはいます。私は名詞止めもそのときそのときでよろしいと思うんですけれども、名詞止めはあまり使わないように指導なさる先生もおられますね。そういうときはどうするかといいますと、『高ぶりを和らげんとコスモスの丘へいざなう』と言いまして、誘うという字を下へもっていけばいいんですね。『丘へ誘いぬ』でもいいし、誘うという字をも少し優しくするのにいざなうという言葉があるでしょう。『和らげんとコスモスの丘へいざなう』とそこでひっくり返して、名詞止めでなくすることができますね。『コスモスの丘へ誘いぬ』と、誘うという字を下へもってくる、そういう歌い方でもよろしいですね。
 たくさん今、短歌の結社が300も500もあると言われていて、そこの結社には雑誌というものがあって、雑誌の他に歌会というものがあって、毎月1回、大体、歌会を開くんですね。そしてその先生がいろいろご指導くださいますけれども、その結社結社にはそれぞれのゆき方がありまして、この前、申し上げましたように大きく分ければ写実派と浪漫派とある。その中にもまたいろいろその主催する先生のご意向がありますから、それに慣れていくことが必要でございますけれども、字余りは絶対、駄目というような先生も中にはいます。
 それから、佐藤佐太郎先生なんかそうなんですけれども、歌というのは五七五七七ときっかりとしているのが最高だと。それはもちろん最高なんですけれども、字余り字足らずのない歌をお褒めになりますね。そういう先生もいるし、悲しとか寂しとか、そういう主観的な言葉を入れてはいけないという先生もいらっしゃいます。寂しとか悲しとか言わないで何かを歌うことによって寂しい悲しい気持ちを出すのが良いのであって、われはしきりに悲しとかってその悲しって言っては駄目だという先生もいらっしゃるし、いろいろな流儀が、流派じゃなくて流儀がございますので、その先生のお教えに従って歌を作っていくのでございます。名詞止めが駄目だという先生も中にはいらっしゃると、そういうときはそれじゃあ名詞で止めないためにどうするかっていう、そういう工夫をすればよろしいので、『コスモスの丘へ誘いぬ』って言えばそれで済むわけですね。ちょっとのところですけれども、そんなこともお心へお置きください。
 それから、7番の2首目。『定まらぬ心に立てるわが影の揺らぐ湖面を霧の閉じくる』『定まらぬ心に立てるわが影の揺らぐ湖面を霧の閉じくる』。心が揺らいで仕方がなくて湖のほとりに立っているんですね。そうすると自分の影が湖面にゆらゆらと揺れる、その湖のおもてを霧がだんだん閉ざしてきたと歌っていて、定まらない心をもった寂しさ、わびしさというふうなものが、1首の歌の主題になっていると思います。『定まらぬ心に立てるわが影の揺らぐ湖面を霧の閉じくる』。霧に閉ざされてしまう、そういう湖のほとりに立っている寂しい気持ちっていうものが出ているように思います。
 それから8番の2首目。『昼下がり洗濯物を取り込めば日の匂いしてひとときの幸』『昼下がり洗濯物を取り込めば日の匂いしてひとときの幸』。昼下がりになって、朝から干しておいたお洗濯を取り込んできたら、お日さまの匂いがして幸せな気持ちがしたということを歌っていますね。主婦の日常などというものは、そんなに大きな大事件などというものが、そうあるわけではございませんで、こういうふうな太陽の匂いがする洗濯物を取り込むというようなところにも、ささやかだけれども明らかな幸せ、幸福感というものがあるんだと思います。『日の匂いしてひとときの幸』、優しく歌われていてよろしいと思います。
 9番。『雨晴れて朝露光る電話線百舌の高鳴き空にはじける』『雨晴れて朝露光る電話線百舌の高鳴き空にはじける』。夜来の雨、夜の雨が晴れたのでしょう、そして朝霧が光って玉のようになって電話線にまつわりついている、そんな空を見上げていると晩秋、秋になって鳴くモズが高く鳴いていて、鋭く鳴いて空にはじけるようだと歌っています。モズのけたたましい鳴き声をよく捉えて歌っていらっしゃると思います。で、『空にはじける』というのは口語ですね、はじける。もし文語できちっと歌いたいときは、『空にはじくる』となる。はじけん、はじけたり、はじく、はじくるとき、はじくればと活用する言葉ですから、文語にきちっとしたい場合ははじくる、分かりづらいなと思ったらはじけるでもよろしゅうございますけれども、そういうところです。
 それから10番。『春蒔きのなお咲き続く百日草種もたわわに鉢植え狭く』『春蒔きのなお咲き続く百日草種もたわわに鉢植え狭く』。百日草っていうのはその名のように長く咲く花として育てられているわけですが、この歌でも『なお咲き続く』、いつまでも咲いて楽しませてくれる百日草と歌っていますね。春に蒔いて花を咲かせたけれども、いつまでも咲いてくれる百日草、そのうちに種もだんだん実ってきて、『種もたわわに鉢植え狭く』、鉢植えが狭いばかりに種も実ってきましたということですね。『種もたわわに鉢植え狭く』、種がたくさん実ってきたということを歌っていますが、たわわっていうのは少しオーバーかもしれませんですね。百日草の種のなったところを見たことがないので分かりませんが、たわわっていうのは枝もたわわっていうときは、そんな感じでございますか? 百日草の種、見たことないんで分からないんですが、上向いていますか?
 たわわに実るっていうと、もし分かりやすくするんだったらば『鉢植え狭きまでに実りぬ』とかなんかいう言い方があると思いますけれども。『春蒔きのなお咲き続く百日草鉢植え狭きまでに実りぬ』とかね、そんなような言い方でもして、押さえても結構です。その種がいかにも多くてたわわに実ったという感じであれば、たわわにということも言えると思います。『鉢植え狭きまでに実りぬ』とかなんかね、そうすればあっさり片付きますけれども。そんなところですね。
 それから11番はこの前いたしましたか。男の方でしたね。
 12番の歌。『天地(あめつち)の怒り静もり山肌は硫黄の香り冷え冷えと充つ』『天地の怒り静もり山肌は硫黄の香り冷え冷えと充つ』。私どもが小さいときは、「いよう」と習ったんですけれども、学校で。硫黄あの黄色い固まりになったお薬、「いよう」と習ったんですけれども、辞書を引きますと今は「いおう」って書いてありましたので、今は「いおう」って言うのかもしれません。昔「いよう」ってな気がするんですけれども。これは『天地の怒り静もり』っていうんですから何か暴風雨、雷雨でもあった後なんでしょうかね。天地の怒りが静もって山肌が静かな中で冷え冷えと硫黄の香りがしていますという歌で、『天地の怒り静もり』としか言っておりませんけれども、暴風雨があったか雷雨があったかした、天地が荒れたということを表していますね。『天地の怒り静もり山肌は硫黄の香り冷え冷えと充つ』、どこか温泉地であるのかもしれませんね。これもきちっと歌えて、独特の硫黄の匂いというのがはっきりと出ていて、『硫黄の香り冷え冷えと充つ』、なかなかよろしいと思います。『天地の怒り静もり』っていうようなことで、天地のドラマがあったということを表しています。
 それから、13番。『秋深くあまりに青き空ゆえにあきつとなりて共に消えなむ』『秋深くあまりに青き空ゆえにあきつとなりて共に消えなむ』。秋がだんだんふけてきて、空を仰ぐとあまりにも青い空である、その空を眺めているとあきつ、トンボですね、トンボになって一緒に消えてしまいたいと言っています。あきつ、漢字を当てれば秋津になると思います。トンボは秋の象徴のようなものですから、「つ」っていうのは「の」っていう意味ですね。秋のもの、トンボということでしょう、そこからあきつという名前になったと思いますが。とんぼとも書きますよ、せいれいですか、蜻蛉と書いても、せいれいってどんな漢字だっけな、むしへんに青いですね。
 どちらを書いても、とんぼうとも読んだり、とんぼと読んだりあきつと読んだり、かげろうと読んだりいろいろいたしますけれども、この場合はあきつっていうのが割にきっかりといっている。『とんぼとなりて共に消えなむ』と言うよりも、この歌の場合は、あきつのほうがその中身にふさわしいでしょう。だから中身にふさわしい呼び方をすればよろしいので、子どもが捕ってきたときに、子どもの捕ってきたあきつって言っても感じが出ませんね、そのときは『この捕りてきしとんぼうの』としたほうが感じが出ますから、同じ物の名前でもその中身にふさわしい呼び方をすればよろしいでしょう。あきつと一緒になってお空に消えていきたいという場合、とんぼとなりてっていうのはやっぱりそぐわない、そういうような使い方を区別していらっしゃるとよろしいです。秋が深くなって、あまり青空が深く美しいので、あの空の中に溶け込んでしまいたい、その気持ちを、あきつとなりて、トンボのようになって、トンボになって、トンボと一緒に空に消えてしまいたい、そんな気持ちになることありますよね。トンボっていうこと思い出さないにしても、あの青空を眺めていると消え入りたいというか、空に溶けてしまいたいというふうな憧れはみんな持つと思うんですけれども、そんな憧れを歌っていらっしゃると思います。
 消えなむというのは、願望を表す、希望を表す「なむ」という言葉です。消えたいということですね。『あきつとなりて共に消えたし』というと少し強いのでしょう。それで消えなむと少しぼかした言い方をしてらっしゃる。内容は、消えたいという願望を表す言葉ですね。これも読みますと共感をそそられる歌じゃないでしょうか、トンボのように、いっそのこと秋空の中に行ってしまいたいわと、そんな感じを歌っています。
 それから14番。『言うまじと心に定めて露冷うる庭に出づれば細く虫鳴く』『言うまじと心に定めて露冷うる庭に出づれば細く虫鳴く』。これなどは典型的な歌の形、歌の中身だと思いますけれども。言うまじと、「まじ」は「まい」ということですね、言うまいと心に決めて冷え冷えと露のおりる庭に出たら、夜でございましょうかね、夜露の庭に出たら、細々とした声で虫が鳴いていますという歌ですね。何か私たちが日常の中で言いたいだけ100パーセント言ってしまうことが絶対できないような生活をお互いがしているわけでして、その中で言うまじと決めた、言うまいと心に決めて庭に降り立ったら、細々と虫の声がしていて本当に寂しい夜でしたというふうになっていますね。歌の形によく乗せて気持ちを出した歌だと思います、こういうのが短歌的な叙情というんでしょうか、そういう原形のような歌だと思います。全部言いたいことを言ってしまうと諍うことになってしまいますね。
 それから15番。『整地進む片隅に野菊咲きてありいたわり抜きて庭に移しぬ』『整地進む片隅に野菊咲きてありいたわり抜きて庭に移しぬ』。何か宅地造成でも行われているのでしょうか。整地が進んでいる土地があって、その片隅に以前からあった野菊が咲き残っていた。ブルドーザーにやられてしまうだろう、黙っておけばね。それで、いたわって抜いてきて、私の庭に移植しましたという歌ですね。『整地進む片隅に野菊咲きてありいたわり抜きて庭に移しぬ』。これも植物の好きな優しい心が歌われています。きっと野菊は、来年は作者の庭に咲くでしょう。そういう感じを持たせますね。
 それから16番は、この前にて直しましたね。『初霜をスクールバスの近づけば山茶花持つ吾子先頭に立つ』とかなんかして直したと思いますね。
 それから、17番。『貼り終えし障子すがしく日に透きて心安らに夫(つま)と茶を飲む』『貼り終えし障子すがしく日に透きて心安らに夫と茶を飲む』。障子貼りをお二人でしたのでしょうか、貼り終わった障子がすがすがしく日差しを通して明るい部屋になりました、そこで心が安らかになって夫とお茶を飲んでひととき憩いましたという歌ですね。夫という場合もそれから奥さんのほうの妻という場合も、同じようにつまと読み習わしております。歌では夫もつま、奥さんもつまと読んで、夫と読んだほうが調子が出る場合もございますので、いつもつまと読まなくてもいいので、夫のままでよろしいときもあるんですけれども。それから良き人、良人と書いて夫と読ます場合もございますね。やっぱりつまっていうのはお刺身のツマって言いますように寄り添っているのですから、どっちにとってもつまなわけですので、夫も妻もつまでよろしいですね。寄り添っているものとして考えればいいんです。
 それから18番。『断ちうるや晴るる暇なきこの心屋根に庭面にしとど降る雨』『断ちうるや晴るる暇なきこの心屋根に庭面にしとど降る雨』。作者は何か心に晴れることのない、晴れる暇のない重い心を持っているようですね。この重たい心、晴れることのない苦しみを断ち切ることができるだろうか、『断ちうるや』、断ち切ることができるだろうかと自分自身に問いかけている。それにしても、屋根にも庭の地面にもしとどに降っている雨がやみそうにない。そんな雨脚を眺めていて、自分の心の雨も晴れることがないかしらと思って、自分に問いかけたような歌になっています。『断ちうるや晴るる暇なきこの心屋根に庭面にしとど降る雨』。たたきつけるように庭にも屋根にも降っている雨に寄せて、作者の心の苦しみを訴えた歌だと思います。これもその雨と作者の思いとが割合にマッチしていて、よろしいんじゃないでしょうか。
 それから19番。『町一つ呑みしとふホープの山崩れ後にインディアン二人首飾り売る』『町一つ呑みしとふホープの山崩れ後にインディアン二人首飾り売る』。ホープの山ってどこにあるのか分からないんですけれども、19番の歌の続きでどこか外地のようですね。ホープの山、ホープ山、マウントホープっていうのがあったでしょうか。インディアンっていうのがいるんだから、アメリカインディアン、アメリカ大陸でしょうか。ホープの山が崩れて町一つ全部つぶれてしまったという話を聞くわけですね。その後に何か観光地でもあるのでしょうか、そこにインディアンが2人いて首飾りを売っていましたという歌ですね。外国行ったときの歌。『町一つ呑みしとふホープの山崩れ』。崩れ後、『山崩れ後にインディアン二人首飾り売る』。『インディアン二人首飾り売る』、そこら辺は何か異国情緒があってよく歌えていると思います。
 「とう」というのは、「とふ」と書いてありますが、「という」ということの略でございますね。呑みしというというときに「とふ」と書いて略した形、「という」という。それから『衣ほすてふ天の香具山』、百人一首にございますけれども、「ちょう」とも言いますね。「という」ということを「ちょう」とも言うし「とう」とも言います。『町一つ呑みしというホープの』とそれよりも言葉が一つ縮まりますので、調子を出すときに「ちょう」とか「とう」とかいうことを使いますから、これも割合に古語なんですけれども、昔の言葉なんですけれども、「とう」とか「ちょう」とかいう言葉は今も残って割に使われますので、使いやすうございますね。
 
(音質不良にて起こし不可)
 
A- そうか、そうですね。
 
(音質不良にて起こし不可)
 
A- 『衣ほすちょう』というときは「てふ」と書いてございますね。今、新仮名使いを使うこともありますので、そのときは「ちょう」と書いても仕方ないですね、発音どおり書きます。それから旧仮名だと「とふ」だし、今の書き方だと「とう」になりますね。だから新仮名を使うか旧仮名を使うかによって使い分けてください。『衣干すてふ天の香具山』というときは「てふ」になっていますね。昔の言葉ですからね。
 それから、20番へまいりまして。定年になった方の歌でございましたね、20番。『登りきて今立ち止まる定年の山の頂尊くもあるか』『登りきて今立ち止まる定年の山の頂尊くもあるか』。何十年か勤めてきて定年を迎えた、そしてその来し方を振り返ると、登ってきて、山に登ったその頂上にいるような感じだというのでしょうか。その本当の山に登ったのか、定年の山の頂という例えなのか、よく分かりづらいところがありますけれども、定年というのを山の頂に例えていらっしゃるんじゃないでしょうかね。これからは下り坂になる、それにしても山の頂上のありがたさというようなことを歌ってらして、定年の方の感慨が出ていると思います。このままでよろしいでしょう。
 21番。『真夏日のごとき日も・・・。