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「短歌講座」
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昭和55年11月19日
④A
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大西 ・・・ことが言われまして、冷たい夏の歌が随分あふれましたけれども。冷たい夏が過ぎた後、ちょっと暑い日が戻ってまいりましたね。その頃の歌でしょうか。真夏日のような暑い日であったけれども、日が暮れると、急に季節の感じが出るのでしょうか。厨辺(くりやべ)から、台所の窓から、静かな空が見えて、三日月が浮いているのが仰がれたということですね。厨辺に、という言葉の置き方が、少しおかしいでしょうか。『真夏日のごとき日も暮れ厨辺に静かな空に』。厨辺に、静かな空にと、「に」が二つ重なるから、ちょっと不自然な感じがするのかもしれませんね。普通でしたら厨辺としないで、眺むればとかするところかもしれませんね。『真夏日のごとき日も暮れ眺むれば静かな空に三日月が見ゆ』。そのほうが無難かもしれません。
それから、22番。『燃え盛る紅葉の山を分け入りて五十里湖の水はひそと青めり』『燃え盛る紅葉の山を分け入りて五十里湖の水はひそと青めり』。紅葉の燃え盛るような、美しい山を踏み分けて行きましたら、五十里湖の水がひっそりと、青い水をたたえておりましたという歌ですね。『燃え盛る紅葉の山を分け入りて五十里湖の水はひそと青めり』。この歌ですと、分け入りてとあるので、水が分け入ったような感じに歌われていますけれども。もし作者が分け入ったのであれば、『紅葉の山を分け入れば』になると。『燃え盛る紅葉の山を分け入れば五十里湖の水はひそと青めり』。作者のお気持ちで、五十里湖に注ぐ水がね、川がね、紅葉の山を分けてずっと流れていって、五十里湖に注いでいる。その水自体を歌おうとしてらっしゃるのかもしれない。そうであれば、これでよろしいんです。『燃え盛る紅葉の山を分け入りて』。その水の入った五十里湖の水が、青かったと歌われていますね。作者が、紅葉の山を分けて入って、五十里湖のほとりに立ったというのであれば、分け入ればになると思いますね。そういう使い分けをしてくださいますように、お願いします。
それから、23番。『あまりにも突然なりし吾子の死にわが魂は抜けたるごとし』『あまりにも突然なりし吾子の死にわが魂は抜けたるごとし』。これは申し上げましたか。『抜けたるごとしわが魂は』と、ひっくり返してもいいですよと申し上げたかしらね。あまり突然だったお子さんの亡くなったことに驚いて、悲しんでいる歌でございましたね。
それから、24番。『葉月末友の夫(つま)逝くいかばかり慰めんと夢にまで見ゆ』『葉月末友の夫逝くいかばかり慰めんと夢にまで見ゆ』。葉月の末に、葉月っての8月でしたっけ、葉月。何月? 8月でよろしい? 文月が7月でしたか。8月の末に、ご主人に逝かれたお友達がいる。どのようにか慰めようとして、夢にまで見ることですって歌っていますが。そこの『葉月末友の夫逝くいかばかり』、五七五、その4番目の7音のところです。『慰めんと』、6音しかありませんね。ちょっとそこ補って、7音以上にしたほうがいいかもしれません。『夢にまで見ゆ』っていうんですから、そのお友達の上を思いやっていて、夢にまで見るほど、同情しているということなんでしょうね。そこのところ、なんか考えませんか。『慰めんと夢にまで見ゆ』。
そして、いかばかりという言葉は、どんなにかということですね。どんなにか慰めんとって、少しおかしくありませんか。『いかばかり悲しからんと』じゃないかな。『葉月末友の夫(つま)逝くいかばかり悲しからんと夢にまで見ゆ』。そのほうが、分かりいいかもしれません。いかばかりってのがありますからね。『いかばかり悲しからんと夢にまで見ゆ』。さっきの思ほゆと同じで、「ゆ」というのは、自然とそうなるという意味の、自発の助動詞っていうんですけれども、自然にそうなるという意味の「ゆ」。思ほゆのとき、思われる。見ゆのときは、見えるということですね。葉月の末に、夫を亡くしたお友達の悲しみは、どんなであろうかと思うと、夢にまで見えますという歌になりますか。『いかばかり悲しからんと』にいたしましょう。
それから、26番。『山あいを曲がり曲がりて行く道は萩の花のみ連なり咲けり』『山あいを曲がり曲がりて行く道は萩の花のみ連なり咲けり』。山の間の道を曲がり曲がり、小道を行ったのでしょう。その道は、どこまで行ってもハギの花が咲いていて、ハギの花だけ、どこまでも連なって咲いていましたという歌ですね。どこか、ハギの名所のようなところでしょうか。ハギの花というのは、万葉植物の一つなんですけれども。万葉集の4500種の中に歌われている植物の歌は、170種類ほどあるんですけども、それを万葉植物と言っていますけども、その中で一番、歌われているのはハギの花ですね。だから、万葉集の頃、1300年ぐらい前の日本の野山には、随分ハギの花が咲いていただろうと思われます。
そしてハギの花が咲くと、花見に行くんですね。ハギの花を見に。そういう歌が残っています。ですから、万葉集の頃から、日本人によく愛された花なのでしょう。ハギの花のあの優しさね。しだれるように咲く優しさ。そんなにぱっと美しくありませんけれども。優しい美しさっていうのは、万葉集の人たちに愛された花でございましょう。140何首かあって、一番、万葉集の中で多いんです。この作者も、ハギの花を眺めながら山道を行ったようです。
26番。『秋の日のはやも傾きて影長し子らの吹く笛遠ざかりゆく』『秋の日のはや傾きて影長し子らの吹く笛遠ざかりゆく』。秋の日は暮れやすくて、つるべ落としなんて申しますけれども。もう傾いてしまって、長々と影を引く。秋の夕日というのは影を濃く落としますね。影が長くなった子どもたちが遠ざかっていくが、笛を吹きながら遠ざかっていく。秋の夕方の気分がよく出ている歌だと思いますね。『秋の日のはや傾きて影長し子らの吹く笛遠ざかりゆく』。ちょっとこう、広い、関東平野、武蔵野っていう感じが出ていらして。子どもたちの笛の音も、空気が澄んでいますから、遠ざかりながら、いつまでも聞こえてくる。そんな秋の夕暮れの感じをよく出した歌だと思います。いい歌だと思いますね。
それから、27番。『昔われおさげの髪にリボン付け就職試験受けに行きたり』『昔われおさげの髪にリボン付け就職試験受けに行きたり』。昔、私がおさげの髪にリボンを付け、付けは平仮名でいいかな。リボンが向こうの言葉だから、片仮名で書いて、付けは平仮名ですね。おさげの髪にリボンをつけたりして、おしゃれをして、就職試験を受けに行ったものでしたという、昔の思い出を歌っていらっしゃいますね。おさげの髪にリボンをつけて就職試験っていうのだから、昭和10年頃までの間でしょうかね。私が就職したのが、昭和の19年ですね。その頃、リボン付けて就職試験っていうの、何の試験かな。ちょっと知りたいところですけれど。
『就職試験受けに行きたり』で、もちろん過去ですから、よろしいんですけれども、もう少し遠い過去にしたいとき、『試験受けに行きにき』とかして、もう少し過去にすることできますね。『就職試験受けに行きにき』としますと、もう少しさかのぼった過去になると思いますよ。『昔われおさげの髪にリボンつけ就職試験受けに行きにき』。少し過去になりましたでしょう。そんなところで、言葉がちょっと変わりますと、歌の気持ちが変わってくるものでございます。
それから、28番。『ふたとせ』って書いてありますが、20年ですから、『はたとせ』でしょうね。『はたとせといつとせの間共稼ぎ妻この頃は疲れたと言う』『はたとせといつとせの間共稼ぎ妻この頃は疲れたと言う』。男の側から歌った歌でございますね。25年もの間、共稼ぎをして、2人で励んできたけれども、奥さんのほうがこの頃はよく「疲れた」ということを言うようになったということで、お互いに老いを深めながら、年を重ねて働いてきたということを物語っていますね。そこのところ、疲れたと言うという奥さんの言葉を、そのまま歌に持ってきていますが、疲れしとして、文語にしてもようございますね。奥さんの言葉をそのままどうしても使いたければ、疲れたと言うでもよろしいですけれどもね。子どもの言葉なんかをよく、そのまま持ってきて歌うことありますが、そのときも子どもの言葉、そのまんま使ってもよろしいですが、そのときは括弧をして使えば分かりやすいですね。この場合も、「疲れた」というところに、こう、鍵括弧をしておけば、奥さんの言葉になりますし、それを歌の言葉に書き直してしまうなら、疲れしと言う。文語に直しますとね。『この頃は疲れしと言う』。
それから、はたとせとか、いつとせとか昔の人は詠みましたけれども、今はもう20年、5年とか、そのまま詠むような歌を作ることが多くなっております。活字で読むだけでなくて、聞いて分かりやすい歌のほうが、現代的だということになってるんだと思いますけれども。普段、読むように、20年、5年、30年。よく、30になったこと、みそじになったと、三十路とか書いて、みそじになったとか、よそじになったとか。むそじの坂を上っていくとか、よく言いますけれども。もう60歳、20年、そういうふうな、普通の言い方でよろしいと思いますね。でも、調子を整えるときに、60の坂を越えて行きゆくとかするよりも、むそじを越えてなおいき何とかっていうほうが、調子が良ければそれでもよろしいんですけれども。普通の歌のときは、普段、言っているようにおっしゃって大丈夫です。
それから、29番。『みちのくへ布団を送るわが前にかねたたき出で鐘をたたきぬ』『みちのくへ布団を送るわが前にかねたたき出で鐘をたたきぬ』。これは、秋になろうとして、秋の早いみちのく、東北のほうへ、お布団を送ろうとしているのでしょうか。そんなときに、カネタタキ、虫でしょうね。カネタタキの虫が出てきて、鐘をたたくように鳴き始めたという歌でしょうか。『みちのくへ布団を送るわが前に』。なんか、北国に、秋の早い、冬の早い北国へ、お布団を作って送るというような気持ちが、優しく出ている歌だと思います。そんなときに、秋を告げるカネタタキという虫が出てきて、鳴き出したという。これも割合にうまく歌えていますね。
それから、30番。『若き日の銀座の夜を語りつつ老友二人昼餉静かに』『若き日の銀座の夜を語りつつ老友二人昼餉静かに』。昔、銀座で、夜明かしに飲んだとか、騒いで楽しかったとか、そういう、昔、銀座で遊んだ若い頃のことを語り合いながら、今は年取ってしまった友達が2人、静かにお昼のご飯を食べている場面ですという歌ですね。
昼餉静かに、ちょっと止まらない感じがしますから、『老友二人の昼餉静けし』と止めましょうか。『若き日の銀座の夜を語りつつ老友二人の昼餉静けし』。静かであるという、静けしとして、終止形にいたしましょう。それで、この歌は大丈夫と思います。
それから、31番。『いねがてぬ夜行車にいて君思う相見て燃ゆるよわいならねど』『いねがてぬ夜行車にいて君思う相見て燃ゆるよわいならねど』。なかなか、情感のある歌でして。夜行列車の中で、いねがてぬ、眠られぬということですね。眠られない夜行列車の中にいて、あなたのことを思っています。もし、会うことがあっても、お互いに会っても、もう、燃えるような、燃え立つような年齢ではないけれども、眠られない夜行列車の中で、あなたのことが思われてなりませんという歌。なかなか、情感の豊かな歌だと思います。ここで注意しなければならないのは、寝るという字の活用ですね。寝る。
寝るという字は、語幹が「い」という字なんですね。いねん、いねたり、いぬ、いぬるとき、いぬれども、いねよと活用する、下二段活用の動詞なんですね。よく間違ってしまうんですけれども、今は寝るというふうにこの字を使いますけれども。昔の言い方ですと、いねん、いねたり、いぬと活用する動詞なんです。ですからこれで、『いねがてぬ』と読めるわけですね、『いねがてぬ』。いねがてぬというのが、がたいということの語尾変化ですから、いねがたい、寝がたい、眠られないというんですね。眠られない夜行列車の中にいて、もう会っても、燃え上がるような年ではないけれども、あなたのことが忘れられないと。なかなか、いいじゃないですか。
それから、32番。『嵐去り流れる雲の行きがたに輝いて見ゆ虹のかかりて』『嵐去り流れる雲の行きがたに輝いて見ゆ虹のかかりて』。暴風雨が去った後、雲が流れていく、その雲の流れる行方を追うように見ていると、虹がかかっていて、美しく輝いて見えたという歌ですね。嵐の後の虹の美しさっていうふうなものを歌っていらっしゃいます。そこを、そうですね、見ゆと文語にしてらっしゃるから、流れるは口語ですね、流るる雲。『嵐去り流るる雲の行きかたに』。行くかたにかもしれないですね。『嵐去り流るる雲の行くかたに輝いて見ゆ虹のかかりて』。嵐の後の虹に目を止めて、歌っていらっしゃる。これもよろしゅうございますね。『嵐去り流るる雲の行くかたに輝いて』、イ音便、使ってらっしゃいますが、『輝きて』でもよろしゅうございますよ。そのまま、『輝きて見ゆ』でもいい。『輝いて』は、イ音便ですね。
33番。『心なき慰めも言い病棟を出できて時雨の雨に打たるる』『心なき慰めも言い病棟を出できて時雨の雨に打たるる』。この歌も、調べよく歌われています。前の歌で、うろうろと訪ねていった病室には、ただ事でない人が伏せっていましたという歌がありまして、それがただ事でない病気だったのでしょう。だからその病名を、作者自身、病人は知らないでいるのかもしれません。それで、心にもないような慰めを言って。「間もなくあったかくなれば治りますよ」とか、「秋になれば治りますよ」とかいうような慰めも、心なく言わなければならなかったのでしょう。そんな慰めの言葉を言って病棟を出てきたら、時雨の雨が降っていて、その雨に打たれながら帰ってきましたという歌ですね。『心なき慰めも言い病棟を出できて時雨の雨に打たるる』。これもなかなか調子のいい、いい歌になっています。
34番。『障子貼る部屋ぬちに秋日の深く差し新築の木の香ほのかに漂う』『障子貼る部屋ぬちに秋日の深く差し新築の木の香ほのかに漂う』。障子を貼るというのは、何となく気分のいいものなんですね。よく歌に作られて、さっきも出てきましたね。障子を貼った部屋の中まで深く、秋の日差しが入ってくる。まだ、その家は建てたばかりの新しい家で、静かにしていると、新しい木の香の漂うような部屋で、明るくていいですという歌ですね。部屋ぬちというのは、部屋の内側、裡(うち)ということですね。これも覚えておいたほうがいいかな。
この、ころもへんに里という字を書いた、「り」というふうに発音する、「盛況裡に終わりました」とか言うようなときの裡ですけれども。これは、盛況の内に終わったというふうな意味ですね。一つで裡、裡深くっていうふうなこと、よく言うときに、心裡に深く、心に深くっていうようなときに、裡深く思いとおればとかいうふうなことを使いますので。このころもへんの里、裡という字も、使いやすい言葉です。心の中ということですね。裡。ここの場合は、部屋の裡、部屋ぬち、部屋の中にということです。障子を貼っていると、部屋の中に秋の日が深く差し込んで、いかにも新築の木の香らしい、いい匂いがしますというのです。
それから、35番。『薄野の果てのふりにし尼が庵』。これはやりましたか。やりましたかしらね。『尼が庵枝折り戸閉ざす蔦のもみじ葉』。やりました? よろしいですか。
それから、36番。『水もなく生姜芽を吹き青々と伸びゆく様にわれ驚く日々』『水もなく生姜芽を吹き青々と伸びゆく様にわれ驚く日々』。生姜っていうのは、新生姜のことかな。姫生姜じゃなくて。新生姜かな。そうですか? 私、あんまり、お炊事しないでしょ。だから、よく分からないですが。水もないのに、生姜が芽を吹いて、青々と伸びていくってのは、新生姜。姫生姜。新生姜? あの、お酢に漬けて、赤くしていただくのでしょうか? 水もないのに、生姜が芽を吹いて、青々と伸びていく。姫生姜でも、芽がピッと出てくるけれども。青々となるかな。それ見たのかな。
(音質不良にて起こし不可)
大西 そうなんですか。姫生姜を買うと、よくしなびけちゃって捨てることが多いんですけれども。水もないのに、生姜が芽を吹いて、青々と伸びていく。それに、生命力に驚いてしまうというような歌でしょうね。『水もなく生姜芽を吹き青々と伸びゆく様にわれ驚く日々』。ちょっと下の句のほうが調子悪うございますから、『伸びゆく日々にわれは驚く』としましょうか。『水もなく生姜芽を吹き青々と伸びゆく日々にわれは驚く』。日々に伸びていく、それに私は驚いてしまう。生命力に打たれるということですね。
生命って、命の神秘っていうことをよく言いますけれども。この間、私が今、図書館に勤めていますが、図書館の館長さんがちょっとお話してくださったことで、びっくりしたんですけども。私の久喜の図書館の館長さんが、前、さきたま資料館、風土記の丘の館長さんだったんですね。その風土記の丘の野っ原の中にね、水が湧いて仕方がなかったので、池を掘って、そのお水を処分することにしたんだそうです。山の中の、丘の上ですね、丘の上に池を掘ってね。ちょっとした池だったそうですけれども、池を掘って、水をそこに溜めることにしたんですって。周りは一面の野原なんですってね。それで、そこに池を掘って、職員で皆で掘って、そこに水が溜まるようにしておいた。そして、10日ほどたってね、何ていうことなく、その池のほとりへ行ってみたんですって。
そしたらね、掘ったばかりの池なのにね、これぐらいの魚がいるんですって、ピューッと。それでね、1匹いるだけだと驚かなかったんだけども、よく見たら、これぐらいのお魚がいっぱいいたんですって。一体どこから来たんだろうって、ね。1匹の魚ならね、誰かいたずらして、どっからか持ってきて置いたってことあるけど。これぐらいのコイ、いたんですって、10日ほどの間に。「あれはどこから来たんだろうね」って、私にお聞きになるので、「私も分かんないけど、湧いたんじゃない」って言ったんですけどね。だから、池掘れば魚が湧くとかって昔の人はよく言いましたけれども。どっから来たのか、これぐらい、20センチぐらいのお魚、ピューッていたんで、びっくりしたって言うんですけども。生命の神秘っていうのかな。何にもない湧き水と、溜まり水でしょ。「その中にお魚がいた」って言いまして、「うそ」って言ったら「本当なんだ」って言うんですけどね。本当に、そういうことあったんですって。
それで考えてみたら、70メートルほど離れた所に、沼があるんですね。「そっから、魚が飛んできたかも分かんない」って言うんですけども。「まさか」って言ったんですけどね。これぐらいの魚、いっぱいいたっていうのが不思議ですね。これぐらいのは、1匹なら分かるんですけど。だから、命っていうのはどこから生まれてくるのかなって話をしたんですけれども。だから、水もなくても生姜が芽を吹くぐらい、当たり前のことかもしれないですね。何にもなかったお水に、お魚がいたんですよ。それは驚きだったそうです、行ってみてね。
それから、37番。『三年と子は言い置きて立ち行きし異国へ送らん梅を干しいて』『三年と子は言い置きて立ち行きし異国へ送らん梅を干しいて』。意味、分かりますか。「3年だけよ」と言って、息子さんが外国へ行ってしまった。本当に3年かどうかと思いながら、外国に住んでいる息子さんの所へ梅干を送ろうとして、梅を干しているという、優しい歌ですね。『三年と子は言い置きて立ち行きし』。本当に3年かしらと思う思い、3年たてば帰ってくるという思いと、両方が、この作者の胸には交錯しているんだと思いますね。そういうようなこと思いながら、梅を干しているという歌でございますね。この、『異国へ送らん梅を干しいて』、と止めてありますけれども、『干しいて思う』という言葉が補われないと、分からなくなりますね。『干しいて思う』。