目次
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「短歌講座」
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昭和56年6月10日
①B
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大西 ・・・ような、短歌という形式がなかなか向かないのですけれども、新しい前衛の作家たちは乾いた叙情っていうようなことを言いまして、今までの短歌の持っていたウエットな、濡れた叙情っていうのを脱却しようとするのですね。それで暗喩というような方法を取り入れながら、新しい歌を作っていったわけなんですけれども。それは俳句から影響されたり、現代詩から影響されたりして、作られたものでした。
私どもが一番、使いやすいのは、直喩という、何々は何々のごとくっていう使い方なんですけれども、それだけに、古くさくなってしまうことも多いわけなんです。ですから、何々は何々のようだ、その例え方をなるべく新鮮に、フレッシュにすることが大切なんですけれども。そして独自的である、個性的であることも大切だと思いますけれども、この歌の場合は、ヒトリシズカの花の咲き方を『前触れもなくて訪う人のごと』というのはなかなか発見だと思うんです。すっと、前触れがなくて初めて来た人への驚きと喜びというようなものがありますね。そのヒトリシズカの花の咲き方がちょうどそんな具合で、すーっと静かで優しくて美しかったというふうな感じですかね。それをうまく捉えていらっしゃると思います。
それから、10番。『五十代の娘二人を出迎えて涙ぐまるる母の日の母』『五十代の娘二人を出迎えて涙ぐまるる母の日の母』。これも丸をしたくなる歌でしょうから、丸をいたしまして。母の日のお母さん。もう50代の娘を持っているのですから、だいぶお年を召しているわけでしょう。その年取ったお母さんが、もう50を過ぎてしまった娘2人が訪ねて来たことを大変、喜んで、そして涙ぐんでいらっしゃるという歌ですね。自分のお母さん、作者は、多分その50代の娘の2人のうちの1人なんじゃないかと思いますけれども、50代にもなった娘が2人そろって訪ねていったのを、大変、お母さんが喜んで、涙ぐんで歓迎してくださったというようなことで。『五十代の娘二人を出迎えて』、そこら辺が大変、独自でございますね。50代になった娘が2人もいるので、もう年取ったお母さん。普通から言えば、70歳を超えてらっしゃるでしょ。そんなこと何も言わないけれども、50代の娘2人ということで、そのお母さんの年齢も十分、推察できるというような面白さがあると思います。
それから一つだけ、『涙ぐまるる』という、涙ぐむということの敬語に使っていらっしゃる。涙をお見せになったという意味の敬語に使っていらっしゃいますけれども、『涙ぐまるる』という言葉は、「るる」という助動詞なんですけれども、自然に涙が出てきたという意味にも取れます。自然に、自発の助動詞って言いますけれども。これはよろしいですか、水枕は。この俳句は、私は好きな俳句なんです。
(無音)
大西 これはお母さんのことを『涙ぐまるる』とおっしゃってるんですけれども、例えば作者が『涙ぐまるる』と歌えば、自然に涙が出てきましたという意味になるんですね。自発の助動詞、おのずから発する、自然に出てくるという意味ですけれども。その助動詞に「る」「らる」というのがあるんですが、これは『涙ぐまるる』、「る」のほうを使ってらっしゃるんですけれども。自然に涙が出てきました、母の日の母は。取りようによっては作者自身がね、お母さんであるようにも取れますの。
それを避けるためだったらば、『涙ぐみます』というふうな敬語のほうがいいかもしれない。『出迎えて涙ぐみます』。「ます」というほうの敬語の助動詞を使ったほうがわかりいいかなという気もいたしましたけれども。その50代の娘2人を出迎えて、ちょっと目頭を押さえていらしたかもしれない。そういうお母さんを描いていて、この歌もなかなかいいと思いました。『涙ぐみます母の日の母』としてくださってもよろしゅうございます。
そしたら11番。『見上げればけぶるとばかり雑木山浅き緑の新芽萌え立つ』『見上げればけぶるとばかり雑木山浅き緑の新芽萌え立つ』。この歌もなかなか風景をしっかりと見ていらっしゃいまして。ふと目を上げてよく見ると、けぶる、煙るということですね。煙るように雑木山の浅緑が、新芽が萌えて美しかったと歌っています。『見上げればけぶるとばかり』思わせてということですが、『けぶるとばかり雑木山の浅き緑の新芽萌え立つ』。これも写生が行き届いて、新芽の萌え立つ様子をよく描いていらっしゃって、丸をあげられると思います。
そして、『見上げれば』というのは口語ですね。文語だとどうなりますか。『見上ぐれば』、見上ぐればになりますね。文語できちっと歌いたい方は『見上ぐれば』となります。今は文語も口語も混ぜながら使う歌が多くなっておりまして、殊に若い人は文語の、特に下二段活用なんてのはなかなか、よういたしませんので、若い人が大体、口語的な発想が多くなっておりまして、若い人ですと大体、『見上げれば』とやってしまいます。それが句において嫌な人は、昔風のきちっとした歌を作りたいと思えば、『見上ぐれば』と、きちっと文語でなさればよろしいと思います。
12番。『夜来の雨去りて川辺の柳萌え川面に揺れて爽やかに見ゆ』『夜来の雨去りて川辺の柳萌え川面に揺れて爽やかに見ゆ』。これも写生の歌で、きっかりと歌われていると思います。昨夜の雨が上がって、川岸の柳が萌えているけれども、それが川面に揺れて、川の水面に揺れて、爽やかに見えていることですという歌です。これも写生の行き届いた歌だと思います。雨が上がった後の爽やかな気分を歌えていらっしゃると思いますが。他の歌、例えばその前の、『見上ぐれば』の歌ほど、個性的でないというかな、ごくありふれた風景で、夜来の雨が上がって、柳の様子が川面に映っている。あんまり特殊な場合でなくて、誰にでも見られる情景かなあと思います。よくできてますけれども、あえて丸を差し上げないでおきます。
13番。『子の一周忌過ぎたる今もなかなかにわが心より去らぬ面影』『子の一周忌過ぎたる今もなかなかにわが心より去らぬ面影』。子どもを喪った方が、満1年を過ぎたけれども、なかなか亡くなった子どものことが忘れられないで、その面影も心から消え去ることがないと、嘆いて歌っていらっしゃいます。これもきっかりと歌えていまして、『なかなかに』、容易なことでは、消すことができないでいるということで、きっかりと歌われていると思います。
ちょっと欲を言えば、『わが心より去らぬ面影』ということで、面影っていうのはもちろん心の中にも住みますけれども、面影という映像のことですから、何ていうのでしょうか、目の眼裏みたいな。『わが眼裏を去らぬ面影』みたいなほうが、面影という映像からするとふさわしいかもしれませんけど。その場合ですと、目に映るという意味でしたら、『わが眼裏を去らぬ面影』となるかと思いますけれども、そのような微妙なところですので。『わが眼裏を去らぬ面影』。眼裏っていうのは、まぶたの裏ということですね。『子の一周忌過ぎたる今もなかなかにわが眼裏を去らぬ面影』とすれば、面影が映像として生きると思います。これも丸にしましょうか。
それから、14番。『緞帳は埼玉県花鳥人も西陣織技あでやかにして』『緞帳は埼玉県花鳥人も西陣織技あでやかにして』。これは、まだ見ていませんが、埼玉会館かどこかの緞帳でしょうかね。新しくできた緞帳なのでしょうか。埼玉県花のサクラソウですか、それを織ってあって、その中に出てくる鳥も人物も、西陣織に織られて、技術が鮮やかで、いかにも出来上がったそれが、あでやかに艶っぽく、生き生きと見えるというようなことで、緞帳の美しさをたたえた歌になっています。『緞帳は埼玉県花鳥人も西陣織技あでやかにして』。緞帳、その美しさをたたえた歌としたらよくできていると思います。そのことに作者は心打たれて、西陣織を素晴らしいなと思って、緞帳に見とれた歌でございますね。これはこれでよろしいでしょう。
それから15番。『万葉の歌かと思う迢空の歌碑に日当たり高麗の静けさ』『万葉の歌かと思う迢空の歌碑に日当たり高麗の静けさ』。高麗という、帰化人が住んでいたと伝えられる、日本の中にある異国みたいな土地ですけれども、その高麗を訪れたときの歌でございますね。釈迢空、折口信夫の歌碑が掛かっていたのでしょう。それを見ると、万葉集の歌かと思うほど古典的で美しかったという感じでしょうね。万葉の歌かと思うほどだった。釈迢空の歌碑には日が当たっていて、高麗の里は静かであったと歌ってらっしゃって、旅の歌としたら、しっかりとまとまっていると思います。
それから16番。『待ち合わせ乙女椿の一輪にいら立つ心静めつつおり』『待ち合わせ乙女椿の一輪にいら立つ心静めつつおり』。誰かを待って、待ち合わせをしているわけですけれども。なかなか相手が来ないのでしょう。いら立ってくる。そのいら立つ心を、目の前にあった乙女椿の一輪に、それを見ることによって静めようとしていたという歌ですね。『待ち合わせ乙女椿の一輪にいら立つ心静めつつおり』。静めながら、この人を待っていたわけでしょう。そういう状況が歌われていると思います。作者の待っていた人が、乙女椿というような花を思わせるような人だったのかもしれないなという、ちょっとロマンチックな感じがいたします。
それから17番。『五月晴れわが誕生日悔いのなき五十路の道を歩みてゆかん』『五月晴れわが誕生日悔いのなき五十路の道を歩みてゆかん』。五月晴れの中で誕生日を迎えた作者。これから50歳の坂を登っていくわけだけれども、それをしっかりと悔いのないように歩いていこうなと、誕生日に気持ちを引き締めて歌ってらっしゃる。そんな歌でございます。これはもうよろしいですか。直喩、暗喩。
(無音)
大西 歌の一番の根本的になる考え方というのは、述志、志を述べるということにあるということが言われます。歌というのは志を述べる文学である。そういうところから、人が亡くなるときに、維新の有志たち、幕末の志士たちが亡くなるときに歌を作りますね。そのときは志を述べて、歌を作って亡くなるわけなんですけども。述志という言葉、志を述べるということが歌の根本であろうと言われております。それは万葉集の中をたどっていきますと、まさに思いを述べるという歌が出てくるんですね。正述心緒といっておりますけれども。そういう、まさにそのとおり、自分の思いを真っ正直に述べる、そういう歌も出てくる万葉集の詞書きがあるんですけれども。
そういうふうに歌っていうのは、なぜそれを言いましたかっていいますと、17番の歌を見て、述志の歌だなと思ったからです。本当にこの人は誕生日を迎えて、50歳から60歳にかけての道をしっかりと歩いていこうという志をまさしく述べている歌でしょ。そういう歌だなあと思って、思い出したんですけれども。歌っていうのは自分の思いをありったけ、そのまま述べるということが根本の思想としてあると思います。そこにいろいろな装飾が加わったり、いろいろなことが加わるわけですけれども、根本的には歌っていうのは述志の文学、志を述べる文学であろうと思います。17番はそれに該当する、きちっとした歌であろうと思います。
その次もそうでしょうか、18番。『柿若葉白く光れる朝(あした)なり歌学びたしと切々思う』『柿若葉白く光れる朝なり歌学びたしと切々思う』。これも述志の歌ですね。柿若葉の白く光って美しい朝です。そんな朝に、また思うことは、歌を本当に、本気になって学びたいと切々思った。それも述志でございますね。歌を学びたいという自分の気持ちや志を述べた歌だと思います。これも素直に自分の思いを歌っていらっしゃると思います。
それから19番。『日に一度写真と語るわれなりしが近く帰るときょうは声聞く』『日に一度写真と語るわれなりしが近く帰るときょうは声聞く』。これは丸ができる歌だと思いました。離れて住んでいる家族なのでしょうね。日に1回は写真と話をするような日を過ごしてきたけれども、あたしだったけれども、近々帰りますよという声をきょうは聞くことができたと、その喜びを歌っていらっしゃいます。近くの「か」は要らないですね。近し、近くと、活用するところが「く」から始まりますから、「か」は要らなくて、近く。送り仮名は「く」になると思います。
(無音)
大西 よろしゅうございますね、この歌はね。日に1回は写真でしか語り合えなかったけれども、そのご本人が近く帰ってきますよという電話でもかけてきたんでしょうかね。近々帰りますよという声を掛けてきたと。やがて帰ってくるのが楽しみだという歌でございますね。
それから20番。『退院を確かむるがに癒えし夫(つま)みずきの花を仰ぎていたり』。仰ぐという字、1本要りませんので、にんべんに、迎える、仰ぐ、違うんですけれども。
(無音)
ゲイという音ですけれども、そのときは1本要らないのね。『仰ぎていたり』、『退院を確かむるがに癒えし夫(つま)みずきの花を仰ぎていたり』。これもいい歌で丸をいたします。長く病院に入っていたご主人が退院をすることになって、退院ができるということを確かめるかのように、ミズキの花の美しいのをしきりに仰いでいて、ああ、うちに帰ってきたのだという実感を深めていらっしゃるのじゃないでしょうかね。ミズキの花は、もしかして道端にあったとしてもよろしいんですけれども、病院を出られたということをミズキの花を仰ぐことによって確かめようとしている。そんな感じが出ていると思います。『退院を確かむるがに』、それが効いていると思いますね。病院の窓からは見えなかったものが見える世界に出てきたという、病院を出た喜びっていうものを歌っていらっしゃるのだと思います。
それから、21番。『美しく老いたきものと語り合う友もわれもはや五十路近く』。五十路近くだと字足らずになりますでしょう。『五十路近く』、六音にしかなりませんね。『美しく老いたきものと語り合う友もわれもはや』、『五十路に』とでも入れれば良いですね。『五十路に近く』、これは「か」はまた要りませんね。送り仮名は「く」。『美しく老いたきものと語り合う友もわれもはや五十路に近く』。年を取っても醜くはなりたくないわねえって、美しく老いたいわねっていうようなことをお友達と語り合った。お友達も私ももう50歳になろうとしているのですという、その年齢の曲がり角のところで悩んでいる2人の友達を歌っています。これも述志というかな、考えを素直に述べた歌でございましょう。
それから、『繕える布に散りけり枯れ一葉小枝揺るぎて鳥いずくにか』『繕える布に散りけり枯れ一葉小枝揺るぎて鳥いずくにか』。繕い物をしていた作者、その繕っている布に枯れ葉一枚が落ちてきました。その枯れ葉が落ちたのはきっと、枝を揺るがせて小鳥が飛び立ったせいでしょう。その鳥はどこに行ったのでしょうか、という歌のようです。『繕える布に散りけり枯れ一葉小枝揺るぎて鳥いずくにか』、そうですね。鳥が飛び立ったために枯れ葉が落ちてきたのだ。その枝を揺るがせて飛び去った鳥はどこに行ったのでしょうかというふうに、繕い物をしていながら散ってきた枯れ葉を見て、想像しながら、鳥の行方を考えている歌。そんなふうに受け取れます。
『散りけり』、落ちるという字を散ると読ませるのは少し無理でございますから、こういうときは振り仮名をしておくことですね。でなければ『落ちけり』となりますか、落ちると読ませるのでしたらば。『繕える布に落ちけり枯れ一葉』。散るという字であれば、散という字を書いて散ると読ませたほうが自然でしょう。『落ちけり』だとあれかしらね。『繕える布に落ちけり枯れ一葉』。こういうふうに、目の前のことから連想をして、見えない世界のことを歌うことも歌を豊かにする一つの方法だと思っております。工夫をして歌っていらっしゃいますね。
それから23番。『薔薇祭り出店見つけし一早くプラモデル手にし目輝きおり』『薔薇祭り出店見つけし一早くプラモデル手にし目輝きおり』。少し調子がばらついている歌でございますけれども。作者が小さい子どもを伴って、バラ祭りに出掛けたのでしょう。そこのバラ祭りの会場に出店が出ていた。そこでは子どもの好きなプラモデルが売られていたのでしょう。子どもは、いち早くその出店に駆け付けていって、プラモデルを手にして、目を輝かしていたという歌で、作者と子どもとの、子どもとどこにも書いていないんですけれども、多分そうだろうと思って読みました。子どもの状況、それを歌っていらっしゃいます。
助詞の使い方ですけれども、『薔薇祭り出店見つけて』じゃないかな。見つけていち早く、『プラモデル手にし目を輝かす』という感じじゃないでしょうかね。『薔薇祭り出店見つけて一早くプラモデル手にし目を輝かす』。子どもなんてどこにも書いていませんけれども、多分、子どものことだろうと、幼い子どものことだろうと想像が付きます。『目輝きおり』、7音ではありますけれども、ちょっと読みづらいので、『目を輝かす』と普通に歌ってよろしいかと思います。『薔薇祭り出店見つけて一早くプラモデル手にし目を輝かす』。分かりやすくなりましたね。そういうふうにいたしましょうか。
それから、24番。『早緑の茂れる下に揚羽舞う網持ち追いし子は離れ住む』『早緑の茂れる下に揚羽舞う網持ち追いし子は離れ住む』。この歌ちょっと情感があって丸をしたくなる歌です。丸をします。早緑に新緑が茂っている下に、アゲハチョウチョウがゆったりと舞っている。それを眺めていると、子どもがいて、虫網を持って追い掛けていたときを思い出す。その子どもは、そばに置いておきたい子どもなんだけれども、今は離れて住んでいるという、離れて住んでいる幼い子どもを思って歌っている歌だと思います。『早緑の茂れる下に揚羽舞う網持ち追いし子は離れ住む』。
『網持ちて』と、「て」を補ったほうが分かりいいかもしれません。『早緑の茂れる下に揚羽舞う網持ちて追いし子は離れ住む』。それから、上の句が『揚羽舞う』と動詞で止まっていまして、下の句のほうも『離れ住む』とまた動詞で止まっていますので、変化を付けるという意味では、上の句のほうを、『舞う揚羽』と名詞止めにするほうが抑揚が付くかもしれません。『早緑の茂れる下に舞う揚羽網持ちて追いし子は離れ住む』。上の句と下の句を同じに名詞止めにしたり、同じに動詞止めにしたりするときは、どっちかを名詞止めにして、どっちかを動詞止めにするというふうな方法のほうが変化が付く、抑揚が付くんですね。そういうふうにしたらいかがでしょうか。『早緑の茂れる下に舞う揚羽網持ちて追いし子は離れ住む』。そのほうが調子が滑らかになると思います。
お休みしますか。どう? 大丈夫? トイレに行きたい方(####@00:29:07)。休憩にしますか。
-- じゃあ10分ほど休憩いたします。15分から始めたいと思います。
大西 ・・・『その子らの騒がしき声気にもせず新聞読み入る休日の子よ』『その子らの騒がしき声気にもせず新聞読み入る休日の子よ』。この歌も好きな歌ですね。丸をします。お嬢さんが勤めてでもいるのかな。ゆっくりしているのね。勤めていなくてもいいですが、ご主人が休みだし、ゆっくりとしているわけですけれども。その子っていうんですから、作者にとっては孫ですね。その娘の子どもたちが、しきりに騒いでやかましいんだけれども、そんな声が少しも気にならないふうで新聞に読みふけっている娘の様子だということで、いかにもにぎやかな中で安らぎのあるような生活絵ですね。生活の一こまが歌われていて、『その子らの騒がしき声気にもせず』、そういう述べ方が面白いと思います。作者は気になっていますよね。ところが、その母親は一向、気にならなくて、そして新聞を読んでいる。いかにも休みの日だなという感じを、娘の様子で受け取っているのでしょう。面白い歌です。
それから、28番。『塩振りし空豆熱き湯に散りて緑清かにぶつかり沈む』『塩振りし空豆熱き湯に散りて緑清かにぶつかり沈む』。この歌も丸をしたくなったんですけれども。厨歌ですね。女の人の作りやすい、厨の歌、台所歌なんですけれども、台所の歌としたら、よく見てしっかりと表現しているんですね。お塩を振って空豆をゆでていると思うんですよ。その空豆が『緑清かにぶつかり沈む』。ここまではちょっと・・・。