目次
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「短歌講座」
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昭和56年6月18日
③A
別画面で音声が再生できます。
(雑談)00:00:00~00:00:49
大西 歌の(****オンギョウ@00:00:50)だけでなくて、何かお話があるといいという声が聞こえましたので、プリント刷りました。どれにしようかなと思ったんですけれども。
(雑音)00:01:00~00:01:27
大西 余りましたか? 余ったら置いといてくださって、後でお返しください。お友達に持って帰るだけでもお取りくださって・・・。
(雑音)00:01:37~00:02:00
大西 何のプリントにしようかなと思ったんですけれども、女の方が多うございますので、今、女の人が、いわゆる専門のプロ歌人と言われている女の人たちのどんな歌を作っているかということを見ましたら、新しい歌の傾向というのかな、そういうことがお分かりいただけるんじゃないかなと思って、『現代の女流歌人ノート』っていうプリントが何枚かあるんですけども、これの2枚目で、比較的新しい歌人たちの歌をちょっと引いたものでございます。
万葉集や新古今集と違いまして、読めばおおよそ分かるという歌が多うございますけれども、少し注釈を加えないと分からない歌もあるかもしれませんので、ざーっと読んでみて、この歌好きとか、この歌分かんないとかいうようなことがあれば、それを詳しく申し上げたいと思います。
馬場あき子さん。『つくづくと見れば少年の太き指母を養ひ学ぶと言ふも』『つくづくと見れば少年の太き指母を養ひ学ぶと言ふも』。『ほのかなる心の闇に咲きしのみ我が木犀も言葉の花も』『ほのかなる心の闇に咲きしのみ我が木犀も言葉の花も』。『楽章の絶えし刹那の明かるさよふるさとは春の雪解(ゆきげ)なるべし』『楽章の絶えし刹那の明かるさよふるさとは春の雪解なるべし』。
山中智恵子さん。『さくらばな陽に泡立つを目守(まも)りゐるこの冥(くら)き遊星に人と生れて』『さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて』。『とぶ鳥のくらきこころにみちてくる海の庭ありき 夕(ゆうべ)を在りき』『とぶ鳥のくらきこころにみちてくる海の庭ありき 夕を在りき』。『たたかひはいづこの辻の祭ぞと少女らいひてすべなかりけり』『たたかひはいづこの辻の祭ぞと少女らいひてすべなかりけり』(註:原歌は『たたかひはいづこの辻の祭ぞとをとめらいひてすべなかりけり』)
富小路禎子さん。『女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季(とき)』『女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季』。『父と娘(こ)と争へば長き夜となり明るき卓に貨幣が光る』『父と娘と争へば長き夜となり明るき卓に貨幣が光る』。『玉葱の皮剝ぐ時に易々と人にも見せて涙ながせる』『玉葱の皮剝ぐ時に易々と人にも見せて涙ながせる』。
北沢郁子さん。『美しき女優の老いし寂しさもまざまざと見て終バスを待つ』『美しき女優の老いし寂しさもまざまざと見て終バスを待つ』。『床のなきエレベーターに踏み込める恐ろしき失墜を我は夢見る』『床のなきエレベーターに踏み込める恐ろしき失墜を我は夢見る』。『かの旅に君と行かざりしをかすかなる悔いとして今年の花も終わりぬ』『かの旅に君と行かざりしをかすかなる悔いとして今年の花も終わりぬ』。
三国玲子さん。『いにしへも今も等しき哀しみに朝鮮を想ふ貝塚の上』『いにしへも今も等しき哀しみに朝鮮を想ふ貝塚の上』。『フライング犯して笑ふ爽やかさ黒い大陸のをとめぞ笑ふ』『フライング犯して笑ふ爽やかさ黒い大陸のをとめぞ笑ふ』。『無縁墓寄せしあたりは鳴子百合茂みて大きまいまいがある』『無縁墓寄せしあたりは鳴子百合茂みて大きまいまいがある』。
河野(こうの)愛子さん。『たけだけしく人のかけたる号令に素直に馬をかへす兵あり』『たけだけしく人のかけたる号令に素直に馬をかへす兵あり』(註:原歌は『たけだけしく人のかけたる号令に素直に馬かへす兵のあり』)。『銭湯の人ら子を抱きひたすらに守れるものを今日(きょう)は見ていぬ』『銭湯の人ら子を抱きひたすらに守れるものを今日は見ていぬ』。『朝明けに小さき木だまとなりながらひぐらし一つ鳴き始めたり』『朝明けに小さき木だまとなりながらひぐらし一つ鳴き始めたり』。
安永蕗子さん。『つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる』『つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる』。『昏れ方の風に吹かるるみづからも青き羽毛をもつごとくゐき』『昏れ方の風に吹かるるみづからも青き羽毛をもつごとくゐき』。『愛と思ひ憎と思ひて超えて来し段丘も青き砂ばかりなる』『愛と思ひ憎と思ひて超えて来し段丘も青き砂ばかりなる』。
こちらは河野(かわの)裕子さん。『産み終へし母が内耳の奥ふかく鳴き澄みをりしひとつかなかな』『産み終へし母が内耳の奥ふかく鳴き澄みをりしひとつかなかな』。『子の尻の蒙古斑おぼろ朱き月ゆらゆらと森を離れつつあり』『子の尻の蒙古斑おぼろ朱き月ゆらゆらと森を離れつつあり』。『突風の檣(ほばしら)のごとき我が日日を共に揺れゐる二人子あはれ』『突風の檣のごとき我が日日を共に揺れゐる二人子あはれ』。
というような句が、今の40代の後半から50代の前半にかけての女の人たち、いわゆる中堅作家と言われるような方たちの、女の人たちの歌でございます。最後の河野裕子さんだけが34、5歳だと思います。一番若い人でございますけれども、こんな歌を作っているわけでして、馬場さんから安永さんあたりまでが、いわゆる戦争中に若い日を送った、青春を戦争にうずめたと申しますか、そういう人たちの歌でございまして、この中で富小路さん、北沢さん、安永さんなどという人は、結局、戦争に巻き込まれた結果として結婚できなかった、独りで暮らしてきた人たちです。ですから、富小路さんや北沢さんや安永さんの歌には、非常に孤独なにおいと言いますか、孤独な悲しみのにおいが濃いと思います。馬場さんは岩田正という立派な旦那さまお持ちですけれども、子どもがいないご夫婦です。それから、河野愛子さんも戦争中に軍人さんと結婚するんですけども、やっぱり子どもがいないんですね。それに比べると、河野裕子さんという人は、いわゆる戦後に育った、戦後派の人で、今、34、5歳ですから、ちょうど女盛りでございまして、昨年の『ミセス』が女流文学賞として、短歌賞というのいただいたということで、今これからと言われている人ですけれども。そして他の人と比べて、子どもさんの歌、が(####@00:10:43)。他の人はみんな結婚していても子どもがいませんので、何となく結婚していても孤独なにおいっていうのがあるように思います。結局、その人たちが何に命を懸けて生きてきたかと言えば、今になって考えれば歌に一筋、懸けて生きてきたと言えるような女性が多いと思いますね。
馬場さんの歌は、今はもうフリーで(****シュッ@00:11:18)著述業で、選者などをして活躍しておられますけれども、初めの頃、定時制高校の先生でした。それで最初の歌があるわけですけれども、『つくづくと見れば少年の太き指母を養ひ学ぶと言ふも』。定時制高校に学んでいる生徒のことを歌ってらっしゃるのね。かつがつに親を養いながら昼は働き、夜、学校に行って学ぶ。そういう子どもを(****アサセユ@00:11:46)心を込めて歌っている歌だと思います。『つくづくと見れば少年の太き指母を養ひ学ぶと言ふも』。
馬場さんは古典研究に介してたものですから、歌も古典的な感じがいたします。2首目などがそうだと思うんですけれども、『ほのかなる心の闇に咲きしのみ我が木犀も言葉の花も』っていうなものも、古典的な感じを持たせる歌だと思いますね。
3首目は、ふるさとの雪解け。それを思いやって美しい、明るい歌にしていますけれども。馬場さんは東京の人なんですが、お母さんが福島県の出身の人で、ふるさとと言って、よく(****ドウシチデヲ@00:12:37)歌うことが多いんですけどね。雪解けの明るさを最初に(****デアッタッテイウカネ@00:12:42)。
それから、山中さんっていう人は、伊勢に住んでいまして、三重県の鈴鹿という所に住んでいるんですけれども、非常にまぼろし、幻影のような歌を作る人というか、比較的分かりやすい歌を3首並べたんですけれども。桜の花が日に照らされて咲いている。それが、遠くから見ると泡立つように咲いているのが見える。自分はと言えば、この地球という暗い遊星に生まれてきて生きているんだというような、地球に生まれて、人として生きていることを『この冥き遊星に人と生れて』というふうな感じ方ができるから、ちょっと珍しいかなってね。そして、そのことを呼び覚ましたのは、桜の花が泡立つように咲いている、それを見ていると、この暗い地球に生まれてきたことが思われるというような、大変美しい歌だと思います。
それから山中さんはよく、鳥に自分を託して歌うことが多いんですけれども、2首目は、『とぶ鳥の暗き心に満ちてくる』、鳥となって空を飛んでいると、海の庭が見え、そして、夕べ、自分が空のかなたを飛ぶ1羽の鳥であったというふうな、自分を鳥に仮託して歌うことが多い人です。
3首目は、昨年作られた歌なんですけれども、私はこの歌大変好きです。『たたかひはいづこの辻の祭ぞと少女らいひてすべなかりけり』。ちょうど私と同じぐらいの年代ですが、私は戦争の末期に奈良の学校でいました。この山中さんは京都女専に行ったんですね。それで、同じように戦争末期を関西に過ごしていたんですけれども、少女時代に体験した戦争を歌っているわけですが、『たたかひはいづこの辻の祭ぞと』。戦争というものは女の人にとって、何か遠くでどこかの辻でお祭りをしているようなものであったんじゃないかというようなことを回想して歌っているわけですけれども。少女時代に戦争中だった私たちは、戦争の意味も知らなければ、その惨劇も知らず、なんかこうどこかでお祭りがあるような、騒々しい気分で映っていたと思いますけれども、そういうようなことを非常に上手に表現していると思いますね。『たたかひはいづこの辻の祭ぞと少女らいひてすべなかりけり』。少女らの中に自分もいるわけですけれどね。遠い戦争の日を回想した歌でして、なかなか、しっかりと歌えていると思います。歌い方はほのかですけれども、当時の回想がよく出ているかなと思います。
富小路さんも、ちょうど私と同じぐらいの年代ですが、富小路子爵家の一人娘でございました。で、戦争中まではお姫さまで育ってきた人なんですけれども、戦争が終わった途端に、爵位などは解かれてしまいました。本当に、父と子だけになってしまった。お母さんがもういなかったんですね。父と子だけ2人残されて、そして、お父さんは子爵というような爵位を持っていて、国家からお金をいただいて暮らしている裕福な身分だったわけですけれども、戦争が終わった途端にそれも全部なくなってしまって、残されたのは、ほんの生活力のない男の人とその娘だったんですね。富小路さんはそのとき、学習院の中等科っていうんですか、そこを出ただけの、ほんのお嬢さんだったわけですけれども、いきなり戦後の混乱の世界の中に投げ出されてしまうわけですね。お父さんは生活力がないですから、1人で働いて、旅館の女中さんまでして働くんです。7回も職場を変えたそうですけれども。で、お父さんを養うような生活をしていますけれども、子爵の令嬢であるという誇りというか、プライドは非常にいつまでもあるわけなんですね。そういう戦後の混乱の中で息絶えながら歌った歌に、名作と言われるものがあるわけなんですけれども。結局独身を通しまして、今も1人で、もう間もなく会社を定年で辞めようとしております。9月で辞めるということですけれども。戦後の世界の中で、本当に零落した生活を送らなければならなかった。それを短歌という詩に命を託し、そして、お父さんを養って暮らしていたわけですけれども、お父さんが亡くなって、今ではたった1人で暮らしているということです。
その人がお嫁に行かず、子どもを産むこともないという生活を歌っていたのがこの1首目で、『女にて生まざることも罪の如し』。物の、草花の種などが乾く季節になると、ひそかに女で子どもを産まないことが罪のような気持ちで思われる、という独身女性の嘆きというものを歌っているんですね。2首目の歌では、生活力のない父親と娘とが争う。お金のことで争うわけですね。お父さんは生活力がないけれども、金遣いは荒いわけですね。お嬢さんのほうは、必死に働いて生活を支えるわけですけれども、その明るいテーブルの上に置かれた貨幣をめぐって、父と子が争わなければならない。いや、長い夜があったというふうなことを歌っています。そして、非常に男勝りの気性の人ですけれども、タマネギの皮を剥ぐときぐらい、やすやすと涙を見せて人の前で泣くことができたという人生で。ぎりぎり耐えて生きていく女の人が、タマネギの皮を剥くことに事寄せて、泣けちゃうというのが、そういうぎりぎりに耐えた生活の中から歌われた歌だと思います。
北沢郁子さんは、私より一つ年上かもしれません。やはり、1人で暮らしていて、この間会社が定年になって、辞めて、今は歌一筋になっているということですけれども。信州の山中で育つんですけれども、お母さんとうまくいかなくて1人で東京に飛び出していって、それから自活をして、赤坂に住んで、都会生活をして、1人で暮らしていたんですね。今では八王子のほう移ったんですけれども、ともかく1人暮らしをしながら、本当に歌に懸けた生き方をして来られました。都会の放浪者などと言われているんですけれども、都会的な歌を作る人です。『美しき女優の老いし寂しさもまざまざと見て終バスを待つ』。本当に、杉村春子とか山田五十鈴とか、たくさん、名優と言われる女優さんだったのにみんな年を取りましたね。お芝居の好きな人ですから、舞台でも見たのではなかったでしょうか。美しい女優も年を取って、寂しいなと思いながら、劇場がはねた後、終バスを待つという歌です。
2首目の歌。東京のビルで働いていますから、しょっちゅうエレベーターで上がったり下りたりして仕事をするようなことですが、床のないエレベーターに踏み込んだという、そういう恐ろしい転落、失墜を、時には夢を見ながら、そんな夢を見ながら昼も働いている暮らしを続けて、そんな女の人の恐ろしさみたいなものを感じていると思いますね。もし、踏み込んだエレベーターに床がなかったら、本当に底まで転落ですよね。そういう恐ろしさを(####@00:21:03)しながら(####@00:21:05)の中で働いているという歌です。
とても美しい人なんですけれども、1度も結婚せずに暮らしてきているんですが、ちょっと『かの旅に君と行かざりしをかすかなる悔いとして今年の花も終わりぬ』なんていう歌を見ますと、憧れている気持ちが出ていると思います。自分が1人で行った旅か、他の人と行った旅か分かりませんが、あのとき、あなたと一緒に行かなかった。そういうことをかすかに後悔しながら、今年の花もまた終わってしまったという、お嫁に行かない女の人が、いつまでも憧れているような人ですが、出ていると思います。
それから、この中では、三国玲子さんという人が、写実派の鹿児島寿蔵さんのお弟子で、写実派のリアルな歌い方をする女流なんで、ちょっと珍しいのですけれども。ちょっと思想的にもなかなか鋭いものを持っている人です。それで、歌うことも、おのずから、そういう思想性が漂うわけですけれども。『いにしへも今も等しき哀しみに朝鮮を想ふ貝塚の上』。朝鮮と日本は昔は陸が続いていて、同じ文化を共有していたかもしれないという歴史がございますね。いにしえも今も、昔、高句麗とか百済とかに分かれて戦いをしていた時代の朝鮮半島も悲しいし、それから日本に支配されていた朝鮮もあったし、そして、今また、北と南に分かれている朝鮮。朝鮮という国は何と悲しい国だろうってことを歌っているわけですね。それを今、しみじみと思わせているのは、今、自分が、貝塚の上にいるという、そういう史跡の上にいて、遠い古代の文化っていうふうな、朝鮮と日本はつながっていたんだろうとか、いつの頃から分かれたのだろうとかいう、そういう歴史上のことを思いめぐらしながら、やっぱり、いくら考えても朝鮮半島は悲しい国だなというふうなことを考えているんですね。その歌などは、よく(####@00:23:21)かと思います。
2首目のところでは、『黒い大陸の乙女』というふうな、歌になりにくい素材を持ってきています。これは、オリンピックのときのことでもございましょうか。スタート台に並んで、慣れていないからフライングするんですよね、黒人の女の人っていうのはね。で、フライングを犯しては、真っ白い歯を見せて笑う。その黒い大陸の乙女はいかにも明るくて、爽やかであるというふうに歌っていて、民族差別とか、種族の差別とかいうふうなことを思い切って払いさろうとしているような気持ちをここに出していると思います。『フライング犯して笑ふ爽やかさ黒い大陸のをとめぞ笑ふ』。こう歌われますと、何となく、真っ黒い顔をした黒人の女性がね、白い歯を見せて笑って、また引き返してきて、スタートラインに並ぶというふうな、そういうオリンピックの一場面が思い浮かぶと思います。
それから、その次の歌は、この三國さんが勉強してきた写実派の、リアルな歌い方の典型的な歌だと思いますけれども。無縁墓を寄せたあたりに鳴子百合が咲いていた。その茂みの中に大きなマイマイ、カタツムリでしょうかね、大きなカタツムリがいます。『無縁墓寄せしあたりは鳴子百合茂みて大きまいまいがある』。こういうふうな歌い方をしますと、一つの景色というか、情景というものが生き生きと浮かんできて、そこにある無縁墓というような、人生の終末を告げるようなお墓たち。そこに咲いている鳴子百合という、美しいオレンジ色の百合。そこにまた大きなカタツムリが住んでいたというような景色をありありと歌う、そういう技術のある歌だと思います。
それから、河野愛子さんは、私より少し年上で、もう60に近いかもしれません。戦争中、ご主人が軍人さんだったものですから、その当時のことを歌った歌も残っておりまして、それが1首目です。『たけだけしく人のかけたる号令に素直に馬をかへす兵あり』。何か戦争中の歌ですけれども、大きな声で号令を掛けられて、兵隊は素直に引いていた馬を返して、戻って行ったというような、戦争の一場面ですけど、目を閉じれば見えるような歌われ方をしていると思います。
それから、河野さんは若いときから体が弱い人で、結婚しましたけれども、子どもがありませんでした。子どもがないまま、今に及んでいますけれども、あるとき、戦争直後のことですね、銭湯に行った。銭湯に行くと、人々は子どもを抱いてひたすらにその子どもを守って洗ってあげている。ひたすらに守っているものを、きょうは、自分は子どもがいなくて守る子どももいないというようなことを考えながら、銭湯の様子を眺めていたというので、子どものない悲しみのようなものを歌っていると思います。
河野さんも近藤芳美という人のお弟子なんですけれども、もともとは写実派の人です。それで、3首目のように写実的な歌もできるわけですね。『朝明けに小さき木だまとなりながらひぐらし一つ鳴き始めたり』。朝方にヒグラシが鳴くっていうの、なかなか、澄んでいていいものです。『小さき木だまとなりながらひぐらし一つ鳴き始めたり』。木と木の間にこだましながら、カナカナが美しいですよね? その声を歌っている歌です。
それから、安永さんという人は、河野さんと同じぐらいの年かもしれません。60近いかもしれませんが、九州の熊本に住んでいて、やはり独身のまま今いる人でございます。『つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる』。突き抜けて、どこまで行ってもむなしい空だなと思って仰いでいると、雪が舞い落ちてきた。その雪を『燃え殻のごとき』っていうような歌い方をしている。それは、あくまでも雪は雪であって、白いわけですけれども、それが、そういう気持ちの中で灰色に見えたりするわけではないでしょうか。燃え殻のような(****カワルトキ@00:28:16)見えたんですね。その燃え殻っていうのも、考え方によっては自分の情熱な燃え殻のように見えたのかもしれない。その若き日をね、むなしく過ごしてきたという、その燃え殻のような雪が落ちてきたというふうな歌です。
で、『昏れ方の風に吹かれるみづからも』。夕暮れ方の風に吹かれていると、自らも、私自身も、風に吹かれるままに、何となく、青い羽毛を自分も持っているような気がして、夕方の風に吹かれていたという、鋭い歌ですね。風に吹かれて気持ちがいいというだけではなくて、自分も鳥のように羽毛を持っているように風に吹かれていたという歌で、夕方の快い風をうまく捉えていたというように思いますね。
そして、もう人生60年の女性の歴史といいますと、あるときは愛、あるときは憎、そういうことを繰り返しながら、独身ながら、いろいろ生きてきているわけですけれども、振り返るとそれがだんだん同じか、丘のように見える。段丘のように見える。そして、自分が通ってきた道が、みんな青い砂ばかりのような気がする。自分の通ってきた道が必ずしも実りの多いものでなかった、砂漠のような、砂のような、不毛の青春を送ったというふうなね、そういう気持ちが、『段丘も青き砂ばかりなる』というふうな歌い方で過去を振り返っているわけですね。こういう50代前後の人、歌に懸けてきただけに、みんなそれぞれ自分の持ち味を生かして上手でございますね。
それに比べると、最後の河野裕子さんという人は、若くて旦那さまが京大の先生かなんかしていて、学者の奥さんです。そして、自分もどこかの女専を出ていて、国語の達者な人です。で、子どもを2人産んでいるわけですけれども、子どもを持っている34、5歳の女の人の豊かな感じというのが出ていまして、その安永さんまで読んだ人たちと、約20年の年齢の隔たりがあるわけですが、そこに大きく変わってくる時代の豊かさみたいなもの、私どもが生きてきた青春時代っていうのは、本当に、日本中が貧しいような時代でございましたし、思想も貧しかった。でも、今、若い世代を送ろうとしている、入ろうとしている人たちは、豊かな生活、豊かな精神生活を送っているんじゃないかなという、豊かな感じがする歌だと思います。『産み終へし母が内耳の奥ふかく鳴き澄みをりしひとつかなかな』。自分が、子どもを産み終わった母っていうのは、自分ですね。