目次
/
「短歌講座」
/
昭和56年6月18日
③B
別画面で音声が再生できます。
大西 『産み終へし母が内耳の奥ふかく鳴き澄みをりしひとつかなかな』。女の人がお産を終わった後の、気が遠くなるような中で、カナカナが鳴くのを聞いていたという歌ですね。それから、子どものお尻にある蒙古斑。青いあざですね。子どものお尻の蒙古斑も、だんだん、おぼろになってきている。赤い月が、ゆらゆらと、森を離れて上っているのを見て、そして連想して、子どもの蒙古斑っていうようなことに思いを馳しているわけですね。子どもの蒙古斑などというのは、歌おうにも、私どもの世代は歌えなかったんですけれども、今の母親は、『子の尻の蒙古斑おぼろ』っていうようなことを豊かに歌って、そして、ゆらゆらと、赤い月が上って行く、その森とつなげるような、そういう豊かさがあるんだと思うんですね。
最後の歌では、『突風の檣(ほばしら)のごときわが日日を』ってあるんですが、2人子どもを抱えて歌を作る生活をしていて、毎日が、本当に、突風が吹きまくっているような日を送っているのでしょう。小さい子どもが、まだ三つか五つかぐらいの子どもが2人いるわけですから、大変な生活、子どもに追われる生活をしているわけですけれども。自分を例えれば、突風の中に立っている、帆柱のような、その日、帆掛け船の柱ですね、帆柱。帆柱のように毎日、揺れ動きながら暮らしているんだけれども、その自分にまつわる2人の子どももまた、一緒に揺られているようでかわいそうだわって思っていて。子どもがあればあったで、また苦しいんですけれども、何となくこう歌われてみると、若い母親の豊かなメンタリティですかね、そのものが歌われていて、ここら辺からまた、新しい女の歌っていうのが開けていくんだと思いますけれども。今、中堅どころが歌っている歌というのは、本当に、同じように青春時代を戦争にうずめた人たちの孤独な歌が多いということだと思います。これからはきっと、豊かな母親の歌が生まれていくんだろうというように思います。そんな話でようございますか。
さて、私どもの歌です。
(雑音)00:02:35~00:02:46
大西 どうですか。難しくはないでしょう? 女同士だから分かるところ。男の方はどうでしょう。
A- よく分かります。
大西 よく分かります。
A- 大変よく分かります。
大西 上手ですね、皆さんね。この間、初めて歌を作ったっていう方が後で持っていらっしたのよ。だから、ちょっとたってから。40、41としている、40番と考えましょう。
(無音)00:03:20~00:05:24
大西 初めの歌を2つ書きました。『モンゴルで陶技磨きし陶工の器に生けししもつけ映ゆる』『モンゴルで陶技磨きし陶工の器に生けししもつけ映ゆる』。『子どもらは昔語りに目輝きてきょう古里は義父の法要』『きょう古里は義父の法要』。よろしいでございますか。生まれて初めて作った歌なんです。
それでは、この前、最初の歌だけやっておりましたので、2首目の歌を見てまいりましょう。『なにゆえに険しくおわすと問いたまい点前の席に誘いし君よ』『なにゆえに険しくおわすと問いたまい点前の席に誘いし君よ』。この作者の表情を見て、どうしてそんなに険しい表情をしていらっしゃるのですかと問いかけて、お茶のお点前の席に自分を誘ってくれたあなたよ、という歌い方をしていますね。きっちりと歌えていて、たまたま、何かで険しい表情をしていた自分を、お茶席に誘ってくれた人の優しさを歌っていらっしゃるのでしょう。で、『おわすと問いたまい』。なにゆえに険しくおわす、おわすは自分に掛かってくる敬語ですね。どうしていらっしゃるのですかとお聞きになって、この問いたまいは向こうに対する敬語になっているわけですけれども。で、『点前の席に誘いし君よ』。この歌い方ですと、君という人が、非常に大事な人として歌われているかたちだと思います。もし、その君っていう人がそう大した人でもないなら、というかな、そんなに君っていう人を際立てて歌わなくてもいいのであれば、歌とすると、『点前の席にいざないくれむ』というようなことになってます。『誘いてくれむ』とかね、くれた、というふうに考える。歌のかたちからしますとね、『なにゆえに険しくおわすと問いたまい点前の席にいざないくれむ』、という歌い方が自然な歌い方だと思います。誘ってくれて、誘いてくれむでもいいですけれども、誘いてくれむという言い方になるんだろうと思いますけれども。今のこの語句の歌のような歌い方ですと、君という人に割に比重がかかった歌い方になると思います。
そして、贈答歌というのがありますけれども、お人に贈る歌の場合は、やっぱり『君よ』でないといけないですよね。この君なる人に、もしお礼の言葉として、この歌など贈るとしたら、『君よ』っていうことが大事になるでしょう。そういう場合は、『君よ』のほうがよろしいと思います。そんなところです。普通の歌としてまとまりがいいのは、『点前の席にいざないくれむ』、誘いてくれむ、というほうが、歌としては自然な歌い方だと思います。
それから2番。『散るは疾く待つは久しき桜花はやも若葉の大樹を仰ぐ』『散るは疾く待つは久しき桜花はやも若葉の大樹を仰ぐ』。桜の花が散るのは、昔から早いのが桜の花ですから、花の散るのはいかにも早くて。この疾という字を書く場合はうんと早い、疾風の疾ですから、風のように早い。非常に早くて、そして、桜の咲くのを待つのはなかなか長かった。けれども、もう散ってしまって、早くも桜が若葉の季節となってしまったという、葉桜になった、その頃のことを歌っているわけですね。『散るは疾く待つは久しき桜花』、そういうところに、作者のもうひとつの人生に対する考え方というかな、人生観照と言うんですか、そういう気持ちが出ているのかもしれないと思いました。何事でもそうだけれども、待っている間はなかなかで、それで、花が咲けばすぐ散ってしまうように、喜び事というのはすぐ過ぎてしまうというふうな、そういう人生の悔いがあるのかもしれないと思いました。とても早く、若葉が出てしまっていて、日々仰ぐと大きな木で、桜の葉が茂っているという歌ですね。これもよろしいでしょう。
3番。『たが袖にこの縫う着物着らるるや日がなひと日を耐えて春の日』『たが袖にこの縫う着物着らるるや日がなひと日を耐えて春の日』。この歌は丸をしていい歌だと思います。縫い仕事をしている人なんですね。自分が縫っている美しい着物があるのね。美しい着物、その着物は一体誰の袖に着られるのでしょうか。誰が着るとも分からない着物を、賃仕事かなんかで縫っている。頼まれて、デパートからでも頼まれて縫っているのでしょうか。一体誰の袖にこの縫う着物が、今縫っている着物が着られるのだろうか。それも分からないまま日がな一日、長い一日を、一日中こらえて、針を運んでおりましたということですね。こういう仕事をしている人でないと、歌えない歌ですね。誰が着るのとも分からない着物を縫うっていうことは、そういう仕事をしてる人じゃないと分からない。人は針仕事賃仕事しますけれども、着る人が分かって縫うことが多いんです。ところが、この歌の作者は、誰が着るか分からない着物を縫うというふうな、今の時代のね、現代の一つの仕事の在り方を示しています。昔の賃仕事というのは、誰かに頼まれて、誰かさんの奥さんが着る着物とか、どっかのお嬢さんの晴れ着とかって分かって縫ったことが多いんですけれども。それが古風な歌い方、『たが袖にこの縫う着物着らるるや』っていうふうな歌い方をしているけれども、現代の仕事。デパートから頼まれたかなんかする仕事、モデルさんが着るのかもしれないし、お人形さんが着るのかもしれないし、誰が着るか分かんない着物を縫うっていうふうなね、今の仕事の在り方みたいなものを表しているし、そういう仕事をしている人じゃないと歌えないのかなと思います。そんな意味でも、いい歌だと思いますよ。
4番。『豪雪に折れし杉森眺めつつ車走れり福島の里』『豪雪に折れし杉森眺めつつ車走れり福島の里』。この冬はすごい雪だった。雪に折れたいろいろな杉山の報告を見たことがありますけれども、あんまり密に見えても、まばらに見えても駄目でっていうふうに、いろいろ難しい森林の作業があるようですけれども。その豪雪に折れてしまった杉の森の無残な様子を眺めながら車で走って行ったという歌ですね。福島の阿武隈山の辺りの山林地帯かもしれませんが、そういう所に行ったということです。これも豪雪の翌年でないと歌えない歌だなという気がして、作者にとっては大事な歌になるんだろうなと思います。
第5番。『離れ住む人思わじと決めいしに天気予報にあの地探しぬ』『離れ住む人思わじと決めいしに天気予報にあの地探しぬ』。これは丸をしてきた歌ですが、いい歌だと思います。離れて住んでいて、もうその人のことを思わない、思わじですから思うまいという決意を示すんですね、思うまいと思って決めていたんだけれども、天気予報を聞いていたら、見ていたらかもしれませんが、その人の住んでいる土地を思わず探してしまったという歌で、やっぱり、今でもその離れ住んでいる人が忘れられないのだわと、自分で自分を再確認しているようなところがあるんだなと思います。
それから、これは6番はカットしまして、7番。『三十路余もむつみし夫(つま)は今はなく青葉の庭にひとり佇む』『三十路余もむつみし夫は今はなく青葉の庭にひとり佇む』。この歌もしっかりと歌えている歌だと思います。三十路余もっていうんですから、30年間も、銀婚式も終わって、そして、一緒に仲良く暮らしていた夫であったけれども、今はもう亡くなって1人残されてしまった。そして、青葉が深くなる梅雨の近い頃になると、ひとしお、その孤独がかみしめられるというような歌でしょうかね。
その、30年余りということを三十路余って詠むかどうかなということ、ちょっと心配になりますけれども。三十路っていうのは、年齢を言うときに、30歳から40歳までの間を三十路って言いますね。ちょっと、30年余の(####@00:16:22)かなって気がするんですけれども。三十年余もだって構わないと思いますが、美しく歌ったのでしょう。こういう歌は、歌の原型のようなものでございまして、一つの悲しみ事を自分の心に収めきれなくて訴えて詠む歌。歌うっていうのは訴えるということから来ているんですけれども、自分の思いを訴えるという歌ですので、歌のかたちとしたら一番基礎になる、原型になる歌だと思いますね。
それから、8番。『紛れなき老いの顔寄せ集い来しクラス会の夜を語りて尽きず』『紛れなき老いの顔寄せ集い来しクラス会の夜を語りて尽きず』。卒業をして、女学校でしょうか、小学校でしょうか、または大学か分かりませんけれども、何十何年過ぎて、紛れもない、隠すことのできない老いの顔をみんな持ってしまった。その老いの顔を寄せ合って、そして、みんな集まってきたクラス会の友達。そして集まって、その夜をいつまでもお話していて、そして尽きることがなかったという歌ですね。
だんだん年を取りますと、クラス会の歌が大変多くなりますね。新聞でも雑誌でもクラス会の歌が多うございますね。私のお師匠さんは、木俣修っていうんですけれども、クラス会短歌って、一笑に付してしまうんですけれども、大体、似たり寄ったりのことを歌うって言うんですね。若々しい顔をして集まるってことはないわけですから、大体、年を取ってしまったとか、孫連れて来たとか来ないとか、それで、席上で懐かしくて旧姓を呼んだとか呼ばないとか、本当に、チープな歌になって、クラス会短歌ってのつまらんよって、よくおっしゃってましたけれども。つまらなくても作者は歌わなくていられないわけですのでね、歌って構いませんし、これぐらいできていればようございますけれども。まあクラス会の歌っていうのは、誰が歌っても同じようになってしまいますの、結局は。幼い顔がなかなか浮かんで来なかったとか、名前忘れちゃったとか、大体同じですね。似たり寄ったりになってしまうので、それは気を付けてクラス会のことは歌うとよろしいかなということですね。
それから、9番。『諦めに身をかわしたる悔い有りて空白々と無に残しいる』『諦めに身をかわしたる悔い有りて空白々と無に残しいる』。この歌は、ちょっと、表現に工夫がありまして、丸ができる歌だと思います。ていうのは、『諦めに身をかわしたる悔い有りて』、そこら辺の言い方に工夫があるんですね。諦めて、真正面から向かわないで身をかわして身を退けた、身を引いたというようなことの後悔が残っているという歌でしょう? そして、そのことを思うと、空虚な感じがするということでしょう、多分。空虚でならない。『空白々と無に残しいる』っていう。空白、白って、分かりませんけれども、なんか、身をかわして真正面から取り組むことのできなかった後悔みたいなものを歌ってらっしゃるのだろうと思いますが、ちょっと間接的で分かりづらいですけれども、作者の言いたいことはそこら辺にあるのだろうと思いますね。思い切って、じゃ真正面にぶつかれたかって言えばぶつかるわけにいかないわけだったんでしょうけれども、身をかわしたことが後悔につながったというんですね。その後、空虚で仕方がないということですね。
それから、10番。『遊び場に子どもらの声消えて今ブルドーザーが土掘りまくる』『遊び場に子どもらの声消えて今ブルドーザーが土掘りまくる』という歌で、これもこの頃のよくある情景ですね。いろいろな宅地造成、ビルが建つ、そういうようなことで、遊び場などがどんどん壊れていくわけですけれども、遊び場の子どもたちの声が消えてしまって、やがて何かそこに建つらしい、何か造られるらしい。ブルドーザーが土を『掘りまくる』なんてのは、なかなか現実的でよろしいと思いますね。掘りまくるっていうようなことを歌に持ってくるのは、なかなか難しゅうございますけれども、思い切って使っていて、ブルドーザーの見るも無残に掘りまくっている様子を歌っていると。
11番。『春一番水ぬくもりて池の端風の隙間に蕗の苔咲く』『春一番水ぬくもりて池の端風の隙間に蕗の苔咲く』。この苔っていう字は略して書いてあるんですね。本当は、くさかんむりに難しい臺という字なんですよね。昔の臺という字です。これは、こけとも読めるので、難しいところですけれども、分かりやすくするのには、ふきのとうと、ひらがなでもよろしいんじゃないでしょうか。蕗のこけ、と読まれてしまうとなんにもならないので。春一番が過ぎて、水がだんだんぬくもってきた。池のほとりには風の冷たいその間を縫うようにしてフキノトウが出てきましたという歌で、春先の春を待つ気持ちというか、そんなものを歌えているんだと思います。
12番。『繊細に描きたるごとく木目あり一意木彫りの翁を磨く』『繊細に描きたるごとく木目あり一意木彫りの翁を磨く』。これは、丸をしていい歌だと思います。どこがいいかって言いますと、木彫りの翁の置物を磨いていたんだけれども、磨いていくと木目が繊細に現れてきた。その木彫りの仏さま、翁だから彫り物かな、その彫り物の、木の木目の美しさに見とれたわけですけれども、それを『繊細に描きたるごとく木目あり』。その歌い方はなかなか、しっかりとね、木目の美しさを捉えていらっしゃると思うのですね。『繊細に描きたるごとく木目あり一意木彫りの翁を磨く』。これは丸をしまして。
3時ですので、ちょっとお休みをいただきまして、また、ゆっくりと。
B- 終わらないとこもあるからね。
大西 それでは25番。
B- 25番じゃなくてね。
大西 13番、ごめんなさい。13番、1枚飛ばして。『伊豆の旅幾たびかトンネルくぐりぬけ新緑と海眺めつつ行く』『伊豆の旅幾たびかトンネルくぐりぬけ新緑と海眺めつつ行く』。伊豆の旅を楽しんでいるもよう。トンネルが幾つもあって、それをくぐり抜けると新緑が現れ、そして、その間に海が見える。いかにも爽やかな旅だというふうに、旅の歌ですね。伊豆の旅とこう示しておいて、そして、その様子を歌っていらっしゃるのね。これはこれで、そのままいいと思います。
14番。『野も丘も雨に煙りて青錦三蔵法師の塔訪ねし日』『野も丘も雨に煙りて青錦三蔵法師の塔訪ねし日』。これは、丸をします。どこがいいかと言いますと、『野も丘も雨に煙りて青錦』。錦って言うと、大体、紅葉の錦とか、いろいろな色が混じった錦を想像するんですけれども、なるほど雨が降ったときの野原も丘も一斉に緑で、それが緑が少しずつ色合いが違いますでしょう? それを青錦と眺めたところ、それがこの人の目であろうと思いますね。『野も丘も雨に煙りて青錦』。青錦という捉え方がいいと思いました。
それでね、ただこの歌で、『三蔵法師の塔訪ねし日』としてね、訪ねた日って過去にしていますの。それを過去にしないで、今見ている状況に歌うほうがもっとこうリアルなんじゃないかなっていう気がしますね。そうすると、『三蔵法師の塔訪ねゆく』とでもすると、その途中の景色である。そして、それを見ながら三蔵法師の塔を訪ねて行こうとしているんだっていう、その道すがらのね、情景として生きてくるんじゃないかと思いますね。『三蔵法師の塔訪ねゆく』、その途中だというふうなほうがリアルなんですよね。そんなところです。訪ねし日って、回想して歌うんじゃなくて、訪ねゆくと、その途中で歌ったふうに仕上げていくということですね。実際に歌を作るのは、帰ってきたその夜のことになるでしょうけれども、歌としては、訪ねゆく、その途中の景色だというふうなほうがようございますね。歌としてはリアルになります。これは丸をしまして。
それから15番。『垣根越し給わりし花山帽子旅なる夫(つま)の絵筆待ちいる』『垣根越し給わりし花山帽子旅なる夫の絵筆待ちいる』。これも優しい歌で丸をしたいと思いますが、ちょっと、垣根越しと名詞で切れてね、給わりし花とまた切れて、山帽子って切れるでしょう? その名詞でポチポチ切れるところが少し、リズムに合わないように思うので、『垣根越しに』と「に」を入れましてね、助詞を一つ入れて、そして続く感じにしますと、『垣根越しに給わりし花山帽子』、後の切れはあんまり目立たなくなると思う。あんまり切れ切れにならないように、続けていくんですね。ヤマボウシの花って、四照花と書くんですね。四つ照る花と書いてヤマボウシというんですけれども、美しい花です。それを垣根越しにいただいて、生けてあるのでしょうか。それが、絵の好きな夫は今、旅先にいて、それをすぐ描くことができない。それで、花と一緒に作者も、旅から帰ってきて夫が絵筆を取る日を待ちわびているというような感じで、花だけに焦点を置かなくて、夫が今、旅先にあること。そして、留守居のときにそのヤマボウシの花をもらったというようなことがね、生活の一こまとして分かると思います。そして、そんな花を早く夫に見せてあげたい。ご主人に見せてあげて、描かせたい。そんな優しい気持ちが表れていて、花をいただくということも優しいし、夫の絵筆を待っているという、その花と一緒に待つような感じ。それが優しいと思います。
16番が1首で、17番。『新緑のまばゆき季節わが心この月のごといつもさやかなれ』『新緑のまばゆき季節わが心この月のごといつもさやかなれ』。梅雨に入る前の5月っていうのは、短いけれども、新緑がまぶしくって、美しい爽やかな季節でございますね。この5月という月のように、いつも爽やかでありたいなと歌っていらっしゃるんですね。ところが、最後のところの『いつもさやかなれ』というところ、8音になってね、字余りになるんですね、最後の7音がね。詰めって言いますか、結句が字余りになって、ちょっと落ち着かなくなる。それで、『この月のごと常さやかなれ』でもしたらどうでしょう。『新緑のまばゆき季節わが心この月のごと常さやかなれ』。常に、ということですけれども、歌の場合、常さやかなれとでもしますと、字余りにならなくて収まるかもしれません。『新緑のまばゆき季節わが心この月のごと常さやかなれ』。常っていう言葉を使い慣れますと、割に便利な言葉です。そして、いつもという意味に常という言葉を使います。とてもいい歌ですね、常さやかなれ。丸をしまして、だんだん甘くなって。
18番。『老い二人の暮らしに慣れて昼下がり真紅の薔薇のはらりと散りぬ』『老い二人の暮らしに慣れて昼下がり・・・』。