目次
/
「短歌講座」
/
昭和56年6月18日
④A
別画面で音声が再生できます。
大西 19番。『定期バスの待合室に並びいて停留所の名の文字追いてゆく』『定期バスの待合室に並びいて停留所の名の文字追いてゆく』。停留所には大きな明かりが立っていて、標識が立っていて、そこに停留所の名前が次から次へと書いてあって、90円、100円と書いてありますけれども、あの標識のことでしょう。待合室に、待合室だから部屋があるのかな。次々に停留所の名前が書いてある一覧表を見ていて、文字を追っていった。何番目かに作者の行く場所があるらしいですね。『定期バスの待合室に並びいて停留所の名の文字追いてゆく』。これも雰囲気が出ている歌だと思います。並びいてっていうのが、座るため順番を待っているのかもしれませんね。きっかりと歌えていると思います。
それから、20番。『次々に湧きくる雲は山をかばい高原はやがて一気に暮れぬ』『次々に湧きくる雲は山をかばい高原はやがて一気に暮れぬ』。これはよく歌えていて、丸をしたい歌ですね。高原の夕方、次々に雲が湧いてきてその雲は、山々をかばうように覆いかぶさってきた。そう思っているうちに『高原はやがて一気に暮れぬ』。なかなかそれまで時間がかかったようだったけれども、暮れ始めると一気に暮れて、高原はやがて夜を迎えようとしている。この『やがて一気に暮れぬ』、辺りが、高原の、向こうの山に日が落ちると、すっかりそのまま暮れてしまうわけですよね。その高原の気象条件みたいなものを柔らかく歌っていらっしゃる感じですね。で、『次々に湧き来る雲は山をかばい』っていうふうな歌い方も、ちょっと気が利いて、工夫がされていると思います。普通は、『雲を山を覆い』ということになると思うんですけれども、それが何か作者にとって見ると、山々をかばうような感じに雲が広がって山を隠したという、作者の気持ちが優しいんじゃないでしょうかね。雲が山をかばうように広がっていって、覆いかぶさっていって、そして、やがて一気に暮れてしまったという感じで、高原の夕方をよく捉えている歌だと思います。
それから、21番。『久方に逢いし姉妹の気安さに諍いてもみる雪の夜半』『久方に逢いし姉妹の気安さに諍いてもみる雪の夜半』。ちょっと最後の五七五七七のところが、雪のやはん、雪のよわ、どっちに読んでも字が足りませんが、そこに、きちっと七音にしたほうがいいと思いますね。それから久方にっていう、久方っていうのはよくこういうふうに間違って使うんですけれども、久方は枕言葉なんですね。茜とか光とか朝とか日とか、そういう明るいものに掛かる久方っていう枕詞ですので、久々という意味にはならないんですね。きれいな言葉ですのでよく使いたくなるんですけれども、久々にで普通に歌うのがようございます。よく間違って使うんですが、久方は枕詞です。『久方の光のどけき春の日に』っていうふうなね、枕言葉なんですよね。光とか春とか日とかそういうのに掛かる。『久々に逢いし姉妹の気安さに』。それから諍うという字は確かに口争いなんだけれども、ごんべんなんですね、ごんべん。言葉で口で争うんですけれども、ごんべんに争うという字を書きます。『諍いてもみる雪の夜半』。争うっていうのは何で争ってもいいんですね、手で争っても口で争ってもだけれども。言葉で争うときに、諍う。確かに口で争うことは争うんですけれども、そういう字はあんまりないようですね。
それから、さっき言い忘れてしまったんですが、10番の歌で、『ブルドーザーが土掘りまくる』。そういう漢字がだんだん簡単になってきましたけれども、掘るっていうときはてへんなんですね。つちへんじゃなくて、てへん。掘られてできた堀はつちへん。間違う方が多ございますけれども、『掘りまくる』は掘っている動詞ですから、動いているところだからてへんなわけです。てへんの掘る。それもよく間違えますけれども、お堀端なんてときはつちへんになる。それから手で掘るときは、てへんになるんですね。
-- 先生、逢うという字はこのほうでよろしいんですか。それとも会という字を書いたほうがいいんですか。久々に逢うという字。
大西 そうですね、これも一緒に逢うんだからどれでもいいんですけれども、「あう」もいろいろありますね。好きな人にあうときは、逢う。いろいろな「あう」がありますわね。どれを使っても悪いことではないんですけれども。こんな字もあるでしょ。逢う、会う、いろいろな字を書きますけれども、今は大体この2つ、当用漢字で使うのはね。この字なんか当用漢字にないんですね。あいびきなんて使いたいけれども、今はないんですね。普通は同窓会の会っていう字を使って、会うと書きますね。でもこの21番の人は、一緒になったから逢うっていう字を使ったんじゃないかな。久々に逢った、落ち合ったっていうようなところでしょうかね。それから『気安さに』の「す」はいらないわね、送りがなでね。『気安さに』。
このまんまで七音に、五七五七七に合わせたいときは、『雪の夜半かな』っていうことになるんでしょうかね。だけどまあ、「かな」、あまり使いたくないけれども、このままですと、『諍いてもみる雪の夜半かな』。「かな」とか「かも」とか入れて、字を足らせておきましょうか。字が足りないところね。
それから、22番。『幸浅き友の便りを読み返す子らの寝姿満ち足りし宵』。宵も違うんですね。宵はどんな字でしたっけ? うかんむりだわね。宵待草の宵ですね。『幸浅き友の便りを読み返す子らの寝姿満ち足りし宵』。作者はどうなんでしょうか。それお分かりになる? お友達は幸いが浅い。作者は?
-- 満ち足りた。
大西 満ち足りた。なんで満ち足りているかっていうと、子どもたち、子どもが複数人いて、豊かじゃなくて、何人か子どもさんがいて、その寝姿がいかにも安らかで、そういう子どもたちの枕元にいるわけですね。それに比べるとお友達は幸いが浅いなあと思って歌っていらっしゃる。それで、幸浅きと普通言うかどうか。
-- 薄い。
大西 薄きというのね、普通はね。でもこの場合は、浅きとわざとおっしゃったのかもしれませんけれども。薄幸の美人なんていうでしょ。薄いという字を普通使うかもしれません。幸薄き、普通はそういいますけれども、幸浅きでも意味は同じようなことですから、ようございますけれども。『幸浅き友の便りを読み返す子らの寝姿満ち足りし宵』。それに比べると自分は幸せだなと、今まで思ってもいなかったような自分の幸福をかみしめている歌でございますね。
それから23番。『田植えどき農夫の後から雀らが忙しそうに餌を啄ばむ』『田植えどき農夫の後から雀らが忙しそうに餌を啄ばむ』。田植えをしている様子を見て歌った歌で、お百姓さんの後から追っかけるようにしてスズメたちが忙しそうに餌を啄ばんでいます。見たままをそのまま素直に歌った歌で、これもようございますね。
ただ、この歌ですと、多分始めて間もない歌の方かもしれませんけれども、田植えのときに農夫の後からスズメたちが忙しそうに餌を啄ばみながら、ひょこひょこしていましたと歌って、どれぐらいの何ていうかな、満足感ていうんですか、自分の心を述べたかなという満足感っていうことから、まだ遠いかもしれません。ありのままを述べただけでね、作者がそれに対してどう思ったとかいうようなことが全然この一首からのぞけませんでしょ。のぞきになれない。そういう意味ではまだこの作者は、こう歌っただけでは物足りないかもしれない。もう少し何か歌いたかったのかもしれませんね。例えばお百姓さんは大変だと思った。スズメもみんな忙しそうだと思ったり。作者がじっくりと心の中で思ったことが、まだ述べ切れていないかもしれませんけども、ここら辺からだんだん深く入っていくのだと思います。
-- スズメも、忙しそうにっていう表現でいいんですかね。
大西 うん、忙しげにと文語ならば言いますけれども。別に構いませんよ、忙しそうにでもね。口語と文語とをうまく合わせて歌っていらっしゃればね。
-- 人間が忙しいときはこれでいいんですかね。人間が忙しいとき。
大西 ええ、そうなんですけれども、スズメたちも忙しそうです。だから、忙しいとは言わなくて、忙しそうとぼかしているところですね。まあでも、かわいい歌ですよね。忙しげにっていうのが文語の歌い方よね。でも忙しげにだと足りませんもの、字が。忙しげに、と六音にしかならないでしょ。忙しそうに、としたところで七音になるんですね。そういうときはうまく口語を入れましてね、字が足りないようなときは。忙しげに、としたのでは字が足りないときは忙しそうに、とかして字をそろえるという、そういうとき口語も重宝なものですから、お使いください。
それから。『ネパールの厳冬にひとり病むという便り来たれば胸ふさがるる』『ネパールの厳冬にひとり病むという便り来たれば胸ふさがるる』。ネパールの寒い冬、厳しい冬に1人病気をしているという人からの便りがきた。それで胸がいっぱいになったというものですね。これは丸をしていい歌と思いますけれども、便り来たればっていうところに物足りない方もいるかもしれませんよ。便りが来たので胸がふさがれた。普通ですと、便り読みつつかもしれません。『便り読みつつ胸ふさがるる』。でなければ『便りを読めば』、とかね。読むというようなことがないと分かんないんじゃないかということが言えるかもしれない。『便り読みつつ』、便りを読めば、読みて、そのようなことのほうがはっきりするとお思いになる方もいるかもしれない。そういう方ははっきりと『ネパールの厳冬にひとり病むという便りを読みて』、便りを読めば、便り読みつつ、とかなんかいろいろ言えると思いますけれども。そんなふうになさればいいと思います。
それから25番。『戦いの日ははるかなれ摩文仁の丘に果てにし弟は学徒なりしを』『戦いの日ははるかなれ摩文仁の丘に果てにし弟は学徒なりしを』。沖縄にいらしたか、または思いやったかしている感じでいるわけですね。戦争の日も、もうはるかになってしまったが。日ははるかなれというのは詠嘆の言葉が入っていると思います。はるかなりと言うよりも、はるかなれと伸ばしたほうが、戦いの日ははるかなりと言うよりは、はるかなれと話したほうが、詠嘆が深くなるかもしれません。はるかなことだな、もうこの丘に、亡くなった弟はまだ学徒であった。ついこないだのことに思われるのに、戦争の日も、もう本当にはるかになってしまったのだなあと、沖縄の戦蹟をしのんで歌っていらっしゃるのでしょう。その頃弟は学徒であった。今もその学徒のままの弟が夢に現れたりするのでしょうけれども、もう40年にもなろうとしているというのが、戦争を詠嘆にして歌っているんですね。これはようございますね。でもやっぱり、弟さんを学徒兵のままで沖縄で死なせたというような事実を背負った人でございませんと、いくら作ろうと思ってもできないわけでしてね。こういう事実の重みっていうのが大きいと思います。
それから26番。『花吹雪舞い散る峠越え行きぬ花の彼方に消ゆるごとくに』『花吹雪舞い散る峠越え行きぬ花の彼方に消ゆるごとくに』。これも美しい歌で丸ができると思います。桜の花が散って吹雪のように美しい日、その花の舞い散る峠を越えてまいりました。まるで花のその向こうに消え去ってしまうように越えていったのですという歌で、花吹雪が陶酔感を誘うっていうんでしょうか、晴れ晴れとした気分も誘ってきて、その花吹雪の中を歩いていくと、花の中に消えていくような気がしたということでしょう。美しい歌い方をしています。『花の彼方に消えるごとくに』、消え入るごとく、なんて止め方もあるかなあと思って考えました。消えて入る、消え入るごとく、などとすればもう少し美しくなるかなあと思ったりしました。『花吹雪舞い散る峠越え行きぬ花の彼方に消え入るごとく』とでもしましたら、もう少し美化されるかもしれませんけれども。花の誘うロマンといいますか、そんなものを感じました。
それから27番。『すがり来る児らが重みの増しくれば膝の空く日の近きを思う』『すがり来る児らが重みの増しくれば膝の空く日の近きを思う』。すがり来る児ってところに児童の児を書いているので、もしかしてお孫さんのことかもしれないと思いました。子どもの子を書くと自分の子がすぐ想像できますけれども、この児ですとお孫さんかもしれません。自分の膝にすがってくる子どもたちがだんだん重くなってきちゃった。それを考えると私の膝が空く日が近いんじゃないか。だんだん子どもたちが育っていって、自分の膝など頼りにしない日がもう近くなるのではなかろうかと思って、膝が空く日が楽しみなような寂しいような、そんな気持ちを歌っていらっしゃるのでしょう。これも丸をいたします。膝が空くなんてこと、最初から私なんか空いてるもんですから分からないですけれども、おばあちゃまになるとそんな実感があるんじゃないでしょうかね。
それから28番。『掬い上げてゆで加減見る竹串に空豆の緑青く刺されぬ』『掬い上げてゆで加減見る竹串に空豆の緑青く刺されぬ』。こないだは熱湯に入れた空豆でしたね。今度はゆでているんですが、ぶつかり合っていた豆がやがてゆだってきたんですね。掬い上げてゆで加減を見るために竹串を刺したらば、空豆の緑が青く刺さってうまくゆだったようだということですね。厨板ですね。『掬い上げてゆで加減見る竹串に空豆の緑青く刺されぬ』。刺されぬ、空豆の側から歌っているんですね、刺さったと。それをこちら側から歌うと、青く刺さりぬだろうと思うんですね。どちら側から歌うかってことは、自由ですけれども。青く刺さりぬという歌い方があるということですね。
それから29番。『仕事終わり深夜の道を帰途につく東の空はほの白みたり』『仕事終わり深夜の道を帰途につく東の空はほの白みたり』。この、深夜作業をしている人の歌で、これは丸ができると思います。生活がひびいている歌だと思います。仕事が終わって深夜に及んだ。その仕事を終わって道に出ると、もう東の空はほのかに白くなっていて、夜の明けが近いことを示している。そういう深夜作業、警備員のようなお仕事の方もいますでしょうし、女の人でも夜遅くまでする仕事ございますね。そういう仕事が終わって、もう夜の明け近い2時3時、帰ろうとする人の歌ですね。生活がよく出ている。『東の空はほの白みたり』、本当にそんな気がするものですけれども、それを歌っていらっしゃいます。これは丸をしまして。
30番。『今日ひと日つつがなかれと念じつつ働く夫(つま)が夏衣縫う』『今日ひと日つつがなかれと念じつつ働く夫が夏衣縫う』。これは爽やかな歌で丸をします。留守番を守りながら家事をしている奥さんですね、働いている夫ももういい年になってしまった。夏になったらせめて爽やかな夏衣を着せたいと思って、浴衣か何かを縫っているのでしょう。夏のひとえか何かを縫っているわけですけれども、縫いながらきょう一日無事につつがなかれ、無事に暮らして帰ってきてほしいなと祈るような気持ちになりながら、夫のことをしきりと思われながら、お裁縫をしているということで、爽やかに気持ちが通った歌だと思います。働く夫(つま)がっていうのは夫(つま)のっていう所有の言葉ですよ。夫(つま)の、と同じ意味ですよね。夫(つま)のでもいいところです。『今日ひと日つつがなかれと念じつつ働く夫(つま)の夏衣縫う』。「の」でも一向構わないと思います。ただ、「の」と同じ意味の「が」という言葉、大変便利なものでして、例えば「の」があんまり他のほうに出てきたときに、また夫(つま)のとするよりは夫(つま)がとして、あまり「の」の重なりを減らすとかいうようなときに役に立ちますので、覚えておいて使うとよろしいですね。
31番。『長き髪風になびかせ自転車の犬引く少女走り行く道』『長き髪風になびかせ自転車の犬引く少女走り行く道』。これも爽やかな場面を歌っていまして、髪の長い少女が自転車に乗っている。そして、髪がしきりに風になびいて、爽やかなんですけれども、少女は犬を引っ張っている。犬を引いて自転車に乗った少女が走っているという歌ですね。『長き髪風になびかせ自転車の犬引く少女走り行く道』。ちょっとそこのところの『自転車の犬引く少女』、そこのとこちょっと分かりづらいかもしれませんね。自転車の少女で、その少女が犬を引いているんですよね。そこのところの続け具合が少し不自然かもしれませんけれども。『長き髪風になびかせ自転車の』、少女が犬を引いて走っていくということなんですね。なかなか爽やかな光景を歌っていらっしゃる。
ごく普通に歌えば、『長き髪風になびかせ自転車の少女は走る子犬を引きて』ということですね。普通の言葉の順番でいくとね、『自転車の少女は走る子犬を引きて』ということになります。別に道っていうことを入れる必要もないようにも思うんですけれども。『自転車の少女は走る子犬を引きて』、という止め方が素直な止め方かもしれません。爽やかな少女のさっそうとした様子が分かってて面白い歌です。
それから32番。『病持つことなど忘れ老いふたり桜吹雪の中を歩めり』『病持つことなど忘れ老いふたり桜吹雪の中を歩めり』。老いふたりっていうことはご夫婦でしょう。病気がお互いあるということなどすっかり忘れた気持ちになって、桜吹雪の美しい中を2人で歩いて行きましたという歌で、さりげなく歌われていて、ひとときの安息ですね。2人だけで過ごして、桜吹雪の中を歩いていったということで。これもちゃんと歌えていると思います。
それから33番。『夜半に猫の諍いありて毛の散るを掃きて箒目の土みずみずし』『夜半に猫の諍いありて毛の散るを掃きて箒目の土みずみずし』。少し述べ方が詳しいところがあるんですけれども。夜更けに猫が喧嘩をして、猫が諍うかどうか分かりませんけれども、猫が喧嘩をして、そして毛を散らしたんですね。朝になって、その毛の散ったところを作者は掃いてあげるわけですけれども、掃いてみると、土に箒目が美しく残ってその土がいかにもみずみずしくて美しくなりましたという歌ですね。『夜半に猫の諍いありて毛の散るを掃きて箒目の土みずみずし』。詳しくその様子を描いています。なぜ土が汚れたかというと、夜更けに猫が争ったから。そして毛が散ったのだ。そこを箒で掃いたら、箒目が立って土がみずみずしくよみがえったという。少し詳しすぎるかもしれませんけども、よく見て歌っていらっしゃいます。
-- 「の」はなくてもいいように思うんですけども。
大西 どこの「の」ですか。
--『掃きて箒目の土みずみずし』、はなくては駄目かしら。箒目の、はやっぱりいいのかな。難しい。
大西 難しいですね。でもこの歌は全般に詳しいですね。詳しく書くのは悪いことじゃありませんけどね。
34番。『せせらぎの岩根を走る音さえて目覚めがちなる山の湯の宿』『せせらぎの岩根を走る音さえて目覚めがちなる山の湯の宿』。これはちゃんと歌われていて、気分が出ていますね。丸をします。せせらぎが岩根を走る、岩の根っこを走っている音がさえざえと聞こえてきて、山の湯の宿に寝ているんだけれども、時々目が覚める。目が覚めると、岩根を走るせせらぎの音が聞こえてきて、それが決して嫌な音ではないんですね。『せせらぎの岩根を走る音さえて』、というようなところで、眠れなくて困るわけではなく、だけど目覚めがちにその山の湯の宿に一夜を寝泊まりしたという、旅の歌としたらしっかりと歌い据えられていると思います。
それから、35番。『誕生日一人心に思う夜に息子の土産に舌鼓打つ』『誕生日一人心に思う夜に息子の土産に舌鼓打つ』。舌鼓、づつみじゃなくて、つづみ。おのおの鼓ですからね。舌鼓。