④B

 
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大西 ・・・1人で、自分で思っていたら、夜、息子さんがお土産においしいものを買ってきてくれた。それに舌鼓を打って、やっと自分の誕生日の思いが晴れたということでしょう。女の人っていうのは自分の誕生日、ご主人や子どもの誕生日は祝ってあげるけれども、大体祝われないのよね、言わないと。言うとまたわざとらしいし、言うのも癪だから気が付いてくれないかしらと思うのが普通なんですけれども。でも、息子さんはそのためにお土産買ってきたんじゃなかったかもしれないけれども、ちょうどおいしいもの買ってきてくださって、それで気が晴れたと歌ってらっしゃる。自分の誕生日を気が付かれないで終わろうとしているとかいう歌もたいへん多ございます、女の人には。だから、そんなに物珍しい歌でもありませんけれども。私と同じようなことを考えながら、女の人は生きてるんだなとよく思うんですね。普通は毎年1回回ってくるものですから、やっぱり一遍ぐらいは歌いたくなるんでしょうね。そういう歌がございますよ。
 それから36番。『耐えかねし夫の愚痴を子に言いつむなしさのみが深くなりゆく』『耐えかねし夫の愚痴を子に言いつむなしさのみが深くなりゆく』。あんまりたまってもいけない、そう思って夫の愚痴を息子さんにこぼした。耐えかねてこぼしたわけですけれども、こぼしたら気持ちがいいかと思ったら、そうじゃなかった。子どもに言ったけれども、かえって言ったことがむなしくなって、『むなしさのみが深くなりゆく』。これはありがちなことで、愚痴っていうのは言えば言うほどつらくなるんですよね。それを歌に歌ってらっしゃるんですね。
 この『言いつ』という「つ」の使い方、『言いつつ』ということかもしれない。『耐えかねし夫の愚痴を子に言いつつ』、その「つつ」という、何々しながらという現在進行形、この「つつ」っていうのは言いつ、でも意味は通るのね。言いつ、という。言いながら、という意味にもなります。それから、言いつ、という完了の助動詞があるの。言ったという意味があるの。広辞苑をよく調べましたらば、「つ」と一つだけで「つつ」という意味にも使うことがあるという、古文の例が引いてありました。それで言いつ、でも言いつつ、という意味に取ってもいいということだろうと思います。詳しくきちっと言うのには、『子に言いつつ』と歌うのがようございますけれどもね。
 
-- ちなみに息子さんの子は、子どもの子をつけなくて(####@00:02:59)。やっぱりその時はこれで子というように・・・。
 
大西 息子さんのことね。いろんなふうに書きますので、この字を一つでむすこと読んだりその下に子どもをつけてむすこと読んだり、息という字だけを書いて子と読んだり、いろいろいたしますけれども、息子は息子、娘は娘とちゃんと言って構わないんだというふうなことを私のお師匠さんは言うんですね。息子は息子、娘は娘、孫は孫だって。それは好き嫌いなんですね、孫とか息子とか娘とか言わないで、子って言ってごまかしちゃうところがある。そのほうが美しいような気がして(####@00:03:49)けれども。人によりますね、それは。息子と歌の中で歌ったほうがはっきりしていいと言う意見もあれば、息子まで言わなくて子でいいんじゃないかという意見もあれば、息子と書いて子と読ませればいいっていう意見もあれば、それから亡くなったお母さんのことなどを亡母って書いて、ははと読ませたりしますでしょ。年取ったお母さんのことを老母と書いて、ははと読ませたりしますけれども。それは今のところいろんなふうに言って許されているんじゃないでしょうか。新しい歌い方は、老母は老母と読めばいいじゃないか、老婆は老婆でいいんじゃないかっていうふうな言い方もございますし、それはお好きになさいませ。
 37番。『母逝きて五年(いつとせ)経ちし安らぎを夕べ厨に蕗を煮つぐる』『母逝きて五年経ちし安らぎを夕べ厨に蕗を煮つぐる』。煮るという字は、くさかんむりいらないですね。者っていう字に、くさかんむりなくてよろしいでしょう。母逝きて、いつとせと読ませなくちゃないかどうか分かりません。五年はごねんでよければ、五年経ちたる安らぎにとやれば済むことですね。五年たちしでは1字が足りないとなれば、五年経ちたる安らぎにじゃないかな、そこは。『母逝きて五年経ちたる安らぎに夕べ厨に蕗を煮つぐる』。安らぎをですと、安らぎをかみしめながらとかいうお見舞いの言葉が必要になりますけれども。安らぎにのほうが分かりいいかもしれません。『母逝きて五年経ちたる安らぎに夕べ厨に蕗を煮つぐる』。これは丸ができますね。
 38番。『風薫る山路に沿いし五百羅漢話の糸を長く綴れり』。おとぎ話の話かしらね。『風薫る山路に沿いし五百羅漢話の糸を長く綴れり』。ちょっと『話の糸を長くつづれり』、分かりづらい。間接的な表現ですけれどもね。風の薫る山道に五百羅漢様が並んでいらっしゃった。五百羅漢さんたちは、いろいろにお話をして世の中を眺めて長く生きてらっしゃるようだ、そこにいらっしゃるようだというところでしょうか。それとも、作者たちのお話の糸を長く続かせてたという意味なのか、二色に取れて、『話の糸を長く綴れり』、少し分かりづらいですね。どちらかな、作者たちの話題をつないだ。
 
-- ていうのは、『山路に沿いて羅漢たち話の糸も尽きることなく』とも書いたんですけれども、両方に掛かってるんです。五百羅漢のほうにも掛かっててますし、連れ合いの方たちのお話し合いにも掛かっているわけで。
 
大西 掛けるっていうことあんまり今しませんのよね。1つのことになるべくね、完璧につなげて。五百羅漢様たちのことだったらそのように歌ったほうがよろしいですよ。両方に掛け言葉っていうのはね、昔ははやりましたけれど、今はあんまりしないんですね。どちらにも言ってるわけね。
 
(音質不良にて起こし不可)
 
大西 39番。『かすかなるときめき増して触れてみる深紅の薔薇の柔き花びら』『かすかなるときめき増して触れてみる深紅の薔薇の柔き花びら』。これは丸ができると思います。咲いているバラの柔らかな花びらにそっと触れてみようとするんですけれども、その時自分の胸の中にかすかなときめきが感じられたというもので、若い時はドッキンドッキンと胸が鳴りますけれども、だんだん年取ってくると、ときめきもかすかになってまいりますね。深紅のバラ、触れようとして、ふっとかすかなときめきが胸にわいたのが分かったというような歌で、かすかなところを捉えてよく歌ってらっしゃると思います。
 それから40番の歌ね、黒板に書きました歌。『モンゴルで陶技磨きし陶工の器に生けししもつけ映ゆる』。初めて歌った歌だということですけれども、きちんと五七五七七に近づけて歌おうとしていらして、なかなかしっかりしていると思いました。モンゴル地方で、陶物の、陶器を焼く技を磨いた陶工さん、その人が作った花器、その器に生けると、シモツケソウが、シモツケの花がなかなか映えて美しいですと歌ってらっしゃる。それでここでは、モンゴルで、というのが普通の言い方ね。モンゴルにて、というのが文語的な歌い方。モンゴルにて、モンゴルに、でもいいですけれども。それから陶工っていうから陶技には決まっていますね。それであれば、技を磨きしでいいんじゃないでしょうかね。『モンゴルに技を磨きし陶工の器に生けししもつけ映ゆる』。そうでもしましたらこの歌一句で言ってよろしいんじゃないでしょうかね。モンゴルの技術を伝える花器なんですね。どんな花器か分かりませんけれども。その器にシモツケソウを生けてみた。そしたらよく映ってなかなかよかったというんでしょう。
 それから2番目のほうの歌は、『子どもらは昔語りに目輝きてきょう古里は義父(ちち)の法要』『子どもらは昔語りに目輝きてきょう古里は義父の法要』。子どもたちを連れて、故郷に帰って義理のお父さんのご法事をするわけなんですけれども、子どもたちにはそのご法事のことなどは直接関わりがないわけで、昔話を聞くことが楽しみで、そして目を輝かしては話を聞くという感じですね。『子どもらは昔語りに目を輝かす』、とでも直しまして、まとめたらいかがでしょうか。『子どもらは昔語りに目を輝かす』。ちょっと字余りになりますよ。『子どもらは昔語りに目を輝かすきょう古里は義父(ちち)の法要』とでもしましたら、きちっと収まるんじゃないでしょうか。
 
-- 子どもらは、きょう古里は、その2つの「は」が気になります。
 
大西 そうですね。『子どもらは昔語りに目を輝かすきょう古里は義父の法要』。どうですか、気になりますか。そうじゃなければ、『昔語りに目を輝かす子どもらよ』、とでもして、「は」を抜かすこともできますよ。『昔語りに目を輝かす子どもらよきょう古里は義父の法要』とでもして、「は」を1つ取ることはできますよ。
 
--いいと思います。
 
大西 『昔語りに目を輝かす子どもらよきょう古里は義父の法要』。このほうがいいかな。「は」という助詞は割に強い言葉ですから。何々は何々だけれども何々は何々でない、というね。「は」っていう助詞は強い言葉だから、1つ抜かしたほうがよければ、そうやって抜かせばよろしいと思います。そういうところで一通り終わりましたけれども、質問があればおっしゃっていただけますか。
 
-- 先生、1番初めに7字持ってっても差し支えないんでございますか、読み出しに。
 
大西 七七五という歌も多いですよ。
 
-- そうでございますか。
 
大西 それから字余りを処理するんだったら先のほうで詠むと。最後の七七はなるべく定型にしますと、歌が落ち着くんですね。あまり下のほうでやるとまだ続くっていう話になるけれども、五七五七の上の句のほうで字余りを処理しますと、(****シチゴヨリヨッテトイテ@00:13:37)七七と言って読めばよくて。
 五七五七七という定型を、きっちりと守らなければ歌ではないというような、昔風の純潔な短歌観を持っていらっしゃる方もいらっしゃいます。佐藤佐太郎って方がそうですけれども。あの方の歌はほとんど字余りがない。そして語法も正しく歌っていらっしゃいます。ただお弟子さんたちがそれをまねをしますと、型通りの歌になってしまうんですね。佐藤佐太郎さんが歌うと、私も好きでよく読みますけれども、お弟子さんがそれをまねをすると、形だけをまねることになってしまって、それはやっぱり寂しいことになるんですね。だから、字余りをそんなに恐れないで、思ったことをきっちりと語法正しく歌ったほうが、今の気持ちを表すのにはよろしいんじゃないでしょうかね。そのことをお気をつけくださいまして、お作り続けくださいますように。
 
-- 先生はお見せになりにくかったんでしょうけど、せっかく現代の女流歌人のときに先生の歌を少し(####@00:14:56)してでも聞かせていただけたらよかったのになと思うんです。
 
大西 今度。ちょうどきょう挙げた方たちは同じぐらいの世代の人でしてね。共通に言えることは、そんなに幸せな青春時代を送ってないという、戦争中にちょうど20歳ぐらいだったんですよね。その後、混乱した世の中が続いたときに若い日を送って、そうであったために、幸福な結婚ができなかったという、共通の痛みを持ちながら、歌を一生懸命やってきた人たちの歌っていうのが、今ちょうど真ん中頃に、中堅と言われる人たちの中にいるわけですね。ですから上に、何かさっき寂しい歌ばかり多いなとお思いになったと思いますけれども、今はもう孫がいる年齢になっていますけれども、子どもも孫もいないような中で、歌をどうやって深めていくかっていうことで必死になって歌を作り続けている人たちなんですね。そんな人たちの歌でしたから、ちょっと寂しかったかもしれない。お許しくださいませ。どうも、きょうはありがとうございました。
 
一同 ありがとうございました。
 
-- 先生、どうもありがとうございました。こちらの原稿作った際に、字が間違ったところあったかもしれないんですが、辞書引きながらやったつもりなんですけれども、そういうところありましたら、どうぞご了承ください。きょうは、2日間にわたりまして先生にお越しいただきましたが、今年度はこれで終わります。来年度からも新しい図書館ができましてからも、1年に1度はやりたいと思いますのでこれからもどうぞぜひご参加ください。きょうはどうもありがとうございました。
 
大西 どうも、失礼いたします。
 
(了)