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「短歌講座」
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昭和57年10月5日
①B
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大西 2首ずつ出していらっしゃいますので、今2時35分ですか。4時までの約1時間半の間で拝見したいと思いますが。1番と2番が同じ方、3番と4番が同じ方というふうになっているそうですので、きょうみんなやってしまうと、この次来なくてもいいようなお気持ちになると思いますので、去年もいたしましたように、1、3、5っていうふうに奇数の歌を読んでまいりまして、それで来週どうしても来れないっていう方がいらっしゃいましたらばそのときにおっしゃってください。来週来れないので偶数の歌もやってもらいたいってことをおっしゃっていただけば、そういたしましょう。そんなに厳密に考えなくて、来週来れないって今から分かってる方は、そのようにおっしゃってください。作者分かるのつらいかな。
それでは、1番の歌。『その昔つくし溢れし里なるか佇みてロマンおぼほゆつくし野の駅』『その昔つくし溢れし里なるか佇みてロマンおぼほゆつくし野の駅』。この歌はつくし野という駅に降り立った作者が、その辺りはもう開発されているけれども、その昔はつくしが溢れるように生えていたので、つくし野というような駅名が生まれたのだろうかと思って、そのロマンを感じながら佇んでいたという歌なんで、意味はよく分かるんですけれども、『その昔つくし溢れし里なるか』、これで五七五ですね。で、七七のほうがちょっと長くなってるんですね。『佇みてロマンおぼほゆつくし野の駅』。つくし野の駅の最後は七音でちゃんとなっていて、佇みてロマンおぼほゆとそこの所が長いわけですね。
佇むという言葉は大変便利な言葉でございまして、歌を読んでいくと一番多い動詞っていうのは思うと佇むなんですね。よく佇んじゃうんですよね。なんで行かないんだろう、佇んじゃう。そういうふうな大変便利な言葉なんですけれども、佇みてっていうのは要らないんじゃないかな、この歌では。『その昔つくし溢れし里なるかロマンおぼほゆつくし野の駅』で佇んでいることは十分、分かるんじゃないでしょうかね、佇みてって言わなくても。歌詠みのくせで、俳句のほうでは佇んでいる暇がないんです、短いから。ところが歌のほうはよく佇んじゃうんですけれども、あんまり佇まないでね、行ってしまうほうがようございます。歩いてしまうほうがね、歩いて行ったとかいうほうがよろしゅうございます。この歌では、佇みてはちょっと余計だったんじゃないかと思います。どうせ、ここは昔つくしが溢れていたんだなと思ったっていうことですから、佇んでいるのには違いないので、あらためて佇みてって言わなくてもいいと思うんですね。『その昔つくし溢れし里なるかロマンおぼほゆつくし野の駅』。それで十分だと思います。どっかでまた佇んでくださいまし。
それから、おぼほゆという「ゆ」っていう助動詞は自然にそうなるということで、覚えられるというような、自然に覚えてしまうというような意味の「ゆ」でございますね。「ゆ」と「る」とありますけれども、この場合は「ゆ」。そして自然にそうなるというような言葉で、おぼほゆ、おもほゆ、思われるっていうときも使いますが、「ゆ」という言葉はもう古語になっておりますけれども、割合に歌で今も使われる便利な言葉でございます。これはこれでよろしいでしょう。
3番。『わが心まりの姿と願いつつきょうもかがりて思いなぐさむ』『わが心まりの姿と願いつつきょうもかがりて思いなぐさむ』。ちょうどまりの展示会が向こうのお部屋でございましたけれども、まりをかがるということを趣味にしていらっしゃる歌なんですね。そして作者は自分の心がまりの姿のように美しくまどかで、まろやかであればいいと思って、まりをかがっていらっしゃるということが歌われていると思います。私の心もまりの姿に似て美しくまろやかにあればいいと思って、そう願いながらきょうもまりをかがって思いをなぐさめていますという歌です。この歌は気持ちがよく出ていて、直すことがないと思います。『わが心まりの姿と願いつつきょうもかがりて思いなぐさむ』。気持ちがよく出ていると思います。
5番。『霧流れ鴇色浮かぶ蓮田に見えぬ小鳥の声のさやけし』『霧流れ鴇色浮かぶ蓮田に見えぬ小鳥の声のさやけし』。これは古代ハスか何かの蓮田なのでしょうかね。霧が流れていて、トキ色にハスの花が浮かんでいる蓮田。霧が流れているのでどこに小鳥がいるのか見えないけれども、その小鳥の声がさやかに聞こえてくるという歌ですね。『霧流れ鴇色浮かぶ蓮田に見えぬ小鳥の声のさやけし』。蓮田っていう所が東北本線にありますが、この場合はきっとハチス田と読まないと字が足りませんね。ハスはハチスとも言うんですね。ハチスの田んぼ、ハスの田んぼ。トキ色の花が美しく浮かんでいる。上空は霧に隠れてしまっているけれども、どこかで泣いている小鳥の声が爽やかに聞こえるという歌ですね。『霧流れ鴇色浮かぶ蓮田に見えぬ小鳥の声のさやけし』。地上のものはかすかに見えて、赤い花、トキ色の花が咲いているのが見えるけれども、上空のほうは霧が流れて隠れていて、小鳥の声だけが聞こえてくるという場面ですね。それは歌われていると思いました。これはこれでよろしいでしょう。
それから7番。『茶の花に秋雨そそぎ寂寥が涌井のごとも心をひたす』『茶の花に秋雨そそぎ寂寥が涌井のごとも心をひたす』。お茶の花っていうのは寂しい美しい花ですが、その花に秋の雨が降りそそいでいる。そして作者の心には寂しさが、寂寥がまるで涌井、湧き水ですね、湧き水のように心をひたして、しみじみと寂しいことだと歌っているのですが。茶の花に秋雨そそぎ寂寥がっていう濁った言葉が出てきますが、寂寥はのほうが音が澄むと思います。何々は、何々が、何々のと主格を表す助詞はいろいろございますけれども、「が」っていうのは語音が濁りますから、「は」で済むときは「は」のほうが、「は」で強過ぎるときは「の」っていうふうに使い分けて助詞をお使いになるとようございます。『茶の花に秋雨そそぎ寂寥は涌井のごとも心をひたす』。調べの豊かな歌で、お茶の花の咲く頃の晩秋の頃でしょうか、今頃でしょうか。その頃に雨の降るわびしさというものを歌えていらっしゃると思います。助詞のこと。
(無音)
大西 格助詞っていうんですけれども、主語に付いてその言葉を規定する助詞、それは「は」とか「が」とか「の」とかがあるわけですけれども、それを上手に使い分けて、例えば同じ一首の中に「は」という助詞が2つきたりしないように気を付けて、片方を「が」に直すとか「の」に直すとかしていけば歌に変化が出るわけで、同じ助詞をあまり同じ一首の中では使わないっていうのが、心得のようなものだと思います。ことに「は」という言葉は割に強い言葉なんですね。あの人はこうだけれども私はこうだっていうときの、区別をする区別の「は」っていうんですけれども、「は」っていう言葉は割合に強い言葉でございます。「は」が2つきたときは片方を「の」に直したり「が」に直したりして、歌を整えていくということが大切でございますね。
この場合は寂寥がっていうより寂寥はのほうが調べがいいということだと思います。『茶の花に秋雨そそぎ寂寥は涌井のごとも心をひたす』。湧き水のようにどんどん寂しさが増えてきて、そしてとどまるところがなくて、つくづくと寂しいということを歌っていらっしゃるんですね。お茶の花に秋雨がそそいでいるということは、そんなに風景として見たら、涌井のように、水のように寂しさがまさるというものでもないんですけれども、作者自身の中の寂しい源があるんでしょうね。だからその源から水が湧き出てくるんだと思いますね。作者の持っている寂しさが、茶の花に降る雨で触発されて余計寂しいという感じなんだと思いますね。この歌は調べが確かだと思います。
9番。『雨戸引けば大き川流るる音のして国道行く車重く響けり』『雨戸引けば大き川流るる音のして国道行く車重く響けり』。こないだは大雨が降りましたけれども、そういう状況の中の歌かもしれません。雨戸を引くと大きな川が流れるような音がして、そして国道を行く車が重く響いたという歌ですね。この歌は非常に字余りの多い歌です。『雨戸引けば』、そこも一音余っておりますし、『大き川流るる』、これも余っていますし、『国道行く車』も字余りですね。字余りとか字足らずとかいうことがよく問題にされるんですけれども、旧派の歌、旧派の歌っていいますのは江戸時代にずっと引き継がれて歌われていた香川景樹というような人の古今集調の歌なんですけれども、その旧派の歌というのは五七五七七というその音の区切り方まできちっと定めて、そして字余りというようなことを非常に忌み嫌った歌い方でございましたけれども、明治の30年代からは新派和歌というものができてきて、正岡子規とか、それから与謝野晶子、与謝野鉄幹のような新しい派を開きまして、それを新派和歌というんですけれども、新派の和歌のほうは私たちが今作っている歌でございますが、あまり字余り、字足らずということを悪く言いません。むしろ字余りになってもいいから、作者の言いたいことをきちっと言うというほうに重きを置いておりますから、あまり字余りにこだわらずにお作りくださいませ。
この歌も字余りですけれどもそんなに苦にならない。字余りでおかしいのは詠んだときに、声を出して詠んだときに分かりますので、自分の歌ができたら、ちょっと誰もいないときにみはからって、声を出して詠んでみる。そして引っかかるようであればどっか悪いわけなんですね。大きな声を出して詠んでみる。家族が誰かいると怪しまれますから、家族がいないようなときをみはからって、大きな声を出して詠んでみることが大切と思います。詠んでうまく詠めるようであれば、字余りも字足らずもあまりこだわらないでお作りください。
私は自分の歌ができると、10首か20首でまとまってできますと、テープに入れて聞いてみます、自分で2回ぐらいずつ詠んで。そしてテープに入れて聞いてみて、詠みづらい所は調べが悪いということに気が付きますので直します。テープのある方、そんなことしてみるとよろしいものですよ。自分の声が割合によかったりなんかしてよろしゅうございますから、テープがある方はテープでご自分の声を、歌を作ったら詠んで録音してごらんなさいませ。そうすると調べが悪いかいいかっていうの、よく分かってまいります。せめて声を出して詠んでみると分かってまいります。9番の歌は字余りが多いんですけれども、そんなに詠みづらくありません。『雨戸引けば大き川流るる音のして国道行く車重く響けり』。割に詠みやすいんですね。だから字余りでも苦にならないということです。これも大雨のときの感じを出していると思います。国道行く車が水をはじいて走っていく、その音がよく響いたという歌でございますね。
11番。『淋しくも親子は一代(ひとよ)と諦めて結婚式の写真見ている』『淋しくも親子は一代と諦めて結婚式の写真見ている』。これも面白い歌で、子どもの結婚式の写真を見ていたら、親子っていうのは一代限りのもので、もう結婚させてしまえば他人も同じなんだなと、そういう諦めがわいてきたという歌ですね。親子は一代限りなのかな。よく分からないけれど、夫婦は二世とか言いますね。夫婦は二代で子どもは一代とか、それからきょうだいは他人の始まりとか、いろいろむごいことを世の中言いますけれども。淋しいけれども親子は一代限りのものなんだなと諦めるような思いで子どもの結婚式の写真を見ておりましたという歌で、これも気持ちがよく出ていると思いました。子どもを手放した親御さんの気持ち、そんなものが出ていると思います。
この淋しいという字ですけれども、さんずいに林を書くのは、林のほとりを水が流れているのは淋しい感じだっていう字なんですけれども、今は普通は寂寥の寂という字を書くことが多うございます。なぜこの字を嫌ったかというと昔、今はございませんが、淋病という病気がございました。性病ですね。その淋病の淋という字がこれだったものですから、この字をあまり使わなくなっておりました。どちらかというと寂のほう。うかんむりにね。さびしともさみしとも読むわけですが、そんな字のほうを書くことが今は多うございます。そしてこのさんずいに林のほうは、当用漢字にないかもしれません。で、寂のほうはあるんですね。だから寂のほう使うことが多いと思います。でもこのさんずいに林もいい字ですから、使っても構わないですけれども、そんなことを心得ていらっしゃるとよろしいと思いました。これもいい歌で。
13番。『ロンドンのみやげ話の義姉たちよわれは紅茶のレモン沈めぬ』『ロンドンのみやげ話の義姉たちよわれは紅茶のレモン沈めぬ』。外国旅行をしてきた義理のお姉さんたちがしきりにロンドンのみやげ話をしている。とり残されたような作者は紅茶にレモンを沈めて、その話を聞くともなく聞いていたというような場面が歌われていると思います。一緒に外国旅行に行かなかった作者なのでしょう。だから1人で紅茶をすすろうとしてレモンを沈めている。上の句には生き生きとお義姉さんたちの様子を描き、下の句では作者のとり残されたような思いを、動作によって歌っていると思いますね。『われは紅茶のレモン沈めぬ』。これはなかなか具体的でようございますね、その動作が出ていて。お義姉さんたちと別世界だという感じを出していらっしゃるんじゃないんでしょうか。『われは紅茶のレモン沈めぬ』。これは具体的でよろしいと思います。
次のページ行きまして。15番。『そのかみの禊し沼はいぐさ原東(あづま)の歌碑に秋の風立つ』『そのかみの禊し沼はいぐさ原東の歌碑に秋の風立つ』。東の歌碑というのは、きっと東歌を刻んだ歌碑ということなのでしょう。万葉集の東歌、それを刻んだ歌碑が建っている。その辺りは、そのかみというのは昔ですね、その昔は禊ぎをした沼があったということだけれども、今はその沼はなくて一面にいぐさが生えた原っぱになっているというような意味でしょう。そして東歌を刻んだ歌碑には秋の風がわたっていて、しみじみと寂しいというような歌だと思います。禊ぎという言葉は禊がず、禊ぎたり、禊ぐと活用する言葉ですので、禊ぎと「ぎ」を、「き」に濁点の「ぎ」を送り仮名として入れたほうがいいと思います。送り仮名の入れ方は、原則として、活用する語尾から入れるということです。禊がず、禊ぎたり、禊ぐと活用するものですから、禊ぎしと送り仮名をして、「ぎ」を入れていただけばいいと思います。その昔、禊ぎをして神を祭ったというその沼はもうなくて、いぐさの原っぱが一面に広がっている。歌碑に秋風が吹いて、しみじみと秋の気配がして昔がしのばれるというような歌でしょう。
それから17番。『老いそめて似合わぬ色の増えいきぬ淡き花柄選びてみしも』『老いそめて似合わぬ色の増えいきぬ淡き花柄選びてみしも』。これも同情できる、私などの同じような気持ちの歌ですが、だんだん年を取ってきて似合わない色が増えてきた。それでも、うすい花柄のお洋服を選んでみたけれども、だんだん似合う色が少なくなるなという、年を取る嘆きの歌でございますね。『老いそめて似合わぬ色の増えいきぬ淡き花柄選びてみしも』。年を取ってもおしゃれをしたいのが女の人の習性でございますから、なるべく美しい物を着たいと思う。それで花柄の淡い模様を選んでみたりしても、何となく似合わないような気がして寂しいというような思いでございましょう。
増えいきぬっていうのはね、増えてきたっていうふうなほうが自然じゃないかな。『老いそめて似合わぬ色の増えてきぬ』のようなほうが自然かなと思いました。それから、ひっくり返して『淡き花柄選びてみしも老いそめて似合わぬ色の多くなりたり』とか、そんなような歌い方もできると思う。『淡き花柄選びてみしも老いそめて』。ひっくり返しちゃうんですね。『似合わぬ色の多くなりたり』、増えてきにけり、とかね。そんなふうな、ひっくり返した歌い方もできると思う。それはお好きなようですけれども、どちらでもよろしいんですがそういう歌い方もある。『淡き花柄選びてみしも老いそめて似合わぬ色の多くなりたり』、というほうが調べがいいかもしれないですね。そんなところを工夫してごらんになってください。『似合わぬ色の多くなりたり』というふうな詠嘆が下へ来るほうが落ち着くかもしれない。これも本当に私たちの世代の共通の寂しさでございますね。
19番。『山菜を束ねし店の軒先に立てばしのばるふるさとの山』『山菜を束ねし店の軒先に立てばしのばるふるさとの山』。山菜を、山の食用になる野草ですね、山菜を束ねて売っている店の軒先に立ったら、卒然としてふるさとの山がしのばれたという歌ですね。このしのばるの「る」は、先の1番の歌のおぼほゆの「ゆ」と同じ意味の、自然にそうなるという助動詞でございますね。自発の助動詞っていうんですけれども、自然にそうなるという歌でございます。山菜を束ねて売っている店先に立ったら、ふるさとの山が自然にしのばれてきたという歌で、ふるさとの懐かしさを山菜から呼び起こして歌っていると思います。
(無音)
大西 自発の助動詞と昔から言っておりますが、自然にそうなるという助動詞。それが「る」とか「ゆ」とかですね。しのばる、自然にしのばれてきたというような意味でございます。これもなかなか応用のできる言葉ですから覚えておかれるといいと思います。山菜を束ねた店に立っていると自然にふるさとの山にこの山菜が生えていたことなどから、ふるさとの山が思い出されてしまったという歌なんですね。これもふるさと恋しい歌で、よろしゅうございますね。
それから、21番。『朝ごとに友と連れだち歩む道アメリカ芙蓉華やかに咲く』『朝ごとに友と連れだち歩む道アメリカ芙蓉華やかに咲く』。これもこのまま通る歌だと思います。毎朝毎朝お友達と連れだって歩く道がある。その道のほとりにアメリカ芙蓉、芙蓉の花っていうのは花の女王様と言われるような美しい花ですけれども、アメリカ芙蓉という花が華やかに咲いていて、その朝ごとの散歩の目を楽しませてくれるという歌でしょう。『朝ごとに友と連れだち歩む道アメリカ芙蓉華やかに咲く』。これはこのままで、朝ごとの散歩の楽しさをいっそう楽しくさせてくれる花の姿を歌っています。
23番。『砂踏みし足つま立ちて廊を渡りありし民宿の湯のやわらかき』『砂踏みし足つま立ちて廊を渡りありし民宿の湯のやわらかき』。これは上の句がとても面白いと思いました。海の家か何か、海に遊んだときのことですね。海辺から砂を踏んで戻って来て砂だらけの足なんですね。それで民宿に戻って、砂を踏んだ足をつま立って廊下を渡った。砂をあまり廊下にこぼさないように、つま先で歩いて廊下を渡って、民宿のお風呂に入ったらそのお湯がやわらかかったと歌っています。『民宿の湯のやわらかき』、この湯のやわらかきも感じが出ていると思います。そして砂を踏んだ足でつま先立って歩いているその様子も何かユーモラスですけれども、格好が出ていると思います。『砂踏みし足つま立ちて廊を渡りありし民宿の湯のやわらかき』。海に遊んだ日のひとときの様子が、リアルに描かれていると思いました。『砂踏みし足つま立ちて』、なかなかこういうこと書けないんですよね、歌にはね。それをうまく書いていらっしゃると思いました。そしてお湯がやわらかかったというのも、熱かったとかぬるかったとかいうんじゃなくて、温かかったとかいうんじゃなくて、お湯がやわらかい感じで、そしてその民宿の様子なども分からせるように歌っているんじゃないでしょうかね。やわらかに接待してくれた。そういう喜びも入っているのかもしれませんが、『湯のやわらかき』、ちょうど湯かげんも良くてやわらかい感じのお風呂だったという歌です。
25番。『詮なきと思えど商い少なき日続けば亡夫(つま)にすがるごと告ぐ』『詮なきと思えど商い少なき日続けば亡夫にすがるごと告ぐ』。商いをしている作者なんですね。そしてご主人がもういない。詮なきとっていうのは仕方がない、すべがないということですね。売り上げが悪いんですね。商いの少ない日が続いている。仕方のないことだと思うけれども、そういう日が続くとつい亡くなった夫にすがりたい思いがして、夫に、その霊前に告げておりました。売り上げが悪くて困っておりますっていうようなことを、亡くなったご主人に告げようとしている。そんな、商いをしている人でないと分からない感慨だと思いますけれども、そういうのが正直に出ていると思います。『詮なきと思えど商い少なき日続けば亡夫にすがるごと告ぐ』。この亡き夫(つま)と書いてつまと読ませるのは無理だという人もおりますけれども、ぼうふにと読んだって別に構わないんですけれども、亡き夫と書いてつまと読むこともよくございますので、そこら辺は自由になさってようございます。
A- すみません。(####@00:30:54)次に来れないと思いますので申し訳ございませんけど24番お願いできますか。