③A

 
  別画面で音声が再生できます。
 
大西 『やちまたの土ふりしまま道の神花草つかね子らの供へり』『やちまたの土ふりしまま道の神花草つかね子らの供へり』。町中にある、やちまたというのは、八方に広がっている道のことを言うのでしょうけれども、その八方に広がっている道のほとりの、土が古くなったまま、道の神様が、さえどの神って言うんですか、道祖神が祀られている。その道祖神には、草花を束ねて、子どもたちが供えているようですというので、その土俗的な信仰の、子どもたちに信仰されている道祖神を歌っていらっしゃると思いました。気持ちの通った歌なんですが、供へりがいけないんですね、供へり。
 どこ行っても言うんですけども、「り」という助動詞は、四段活用にしかつながらないんです。そなへん、そなへたり、そなふ、そなふるとき、そなふれば、そなへよ、と下二段のそなうという言葉には使えない言葉なの。「り」っていうのは。「り」と「たり」と同じ言葉であるんですけれども、供へたりとなってしまう。もし、助動詞を使うんなら。だから、供へぬとかしておけばよろしい。『やちまたの土ふりしまま道の神花草つかね子らの供へぬ』。そなへつ、そなふる、そういうような歌い方をして。この次、詳しく説明いたしますが、「り」という助動詞は、注意して使わないといけないですね。「り」「たり」と、同じような助動詞がありますけれども、四段活用にしかつながらない「り」という助動詞があるということです。だから、見えりなんて言ってもいけないの。見え、見えたり、見えたるも、下二段の活用ですからね。見えたってことを、見えりとは言えないの。見えたりになってしまうというふうなこと、この次も少し詳しくお話しいたしましょう。じゃあ、きょうはこれで。時間が過ぎました。
 
A- 次回も、この場所で、2時から行いますから。
 
(雑談)
 
B- 57年12月12日。講座2日目。
 
A- お待たせしました。2日目、講座始まります。大丈夫です? じゃあ、先生お願いします。
 
大西 お天気がいいから、お洗濯とか。私でさえもお洗濯、今朝しました。本当によく降りましたね。
 
(無音)00:03:30~00:03:45
 
大西 この前は、道浦母都子さんという人の、平和運動って言うんですか、学生運動、平和運動の歌を読んだわけですけれども、きょうは、今年の現代歌人協会賞を得た、時田則雄さんという人の歌集から読みたいと思います。時田則雄さんっていう人は、北海道に住んでおられて、戦後に生まれた、まだ若手の人ですけれども。現代歌人協会賞というのは、なるべく新人の歌集から選ばれる賞なんですけれども。去年は、特にたくさんいい歌集が出たので、なかなか難しい選考だったようですけれども。時田則雄さんは北海道にいて、北海道の十勝の農民でございまして、北海道の畜産大学を出た後、農業に従事して、北海道の荒れ野に挑んだ、農業の生活をしているわけです。そうした荒々しい、男らしい、たくましい生活の中から、歌を作っているという、そういう特殊な生活環境の中の歌ということが、大きな力になっていたと思います。
 この前の、道浦母都子さんの場合は、学生運動というような、特殊な生活の中から生まれたルポルタージュのような作品だったわけですけれども。今度の時田さんの歌はまた、そういう北海道の農業者のルポルタージュみたいな歌でもあるわけですけれども、そこには北海道のそういう荒れ地に挑んで、暮らしている人でないとできない歌というようなものが、大きく評価されたと思います。ただ、農業に従事している人はたくさんいるわけでして、特に北海道にも開拓した農家に生きて、そこで暮らしている人も多いわけですけれども、そういう農業の苦しい生活を、上手に文学化して歌っているということが、やっぱり大事だと思います。いくら生活が生々しくても、それが文学として昇華されていなければ、どうにもならないわけで。そういう昇華された農業の生活というようなものが、評価されたのだと思います。非常に朴訥な青年でございました。読んでまいります。
 1番。『野に挑むまなこは豹に似てゐるといはれぬ檻の豹より知らず』『野に挑むまなこは豹に似てゐるといはれぬ檻の豹より知らず』。おまえの、その荒野に挑んで農業をしようとしているそのまなこは、まるでヒョウのようだと、よく言われる。ヒョウのように鋭い目をして、北海道の荒野に挑んでいると言われているけれども、そのヒョウと言われても、自分の知っているのは、動物園に飼われた檻の中のヒョウであって、野生のヒョウというのを知らないのだというふうに歌っていますけれども、作者の野に挑むその性格の激しさというようなものを人に言われて、そして振り返っているような歌だと思います。『野に挑むまなこは豹に似てゐるといはれぬ檻の豹より知らず』。檻のヒョウしか知らないけれども、なるほどそう言われれば、ヒョウのような鋭いまなこをして、北海道の原野に挑んでいるんだなあと、自分を思っている歌でしょう。
 2番。『頸を絶たれし鶏ははばたき死ぬまへの一瞬宙に舞ひあがりたり』『頸を絶たれし鶏ははばたき死ぬまへの一瞬宙に舞ひあがりたり』。そういう野性的な生活をしていますから、鶏の首を切って、そして食べるというような生活も、ごく普通なことでしょうけれども、頸を切られた鶏は、羽ばたいて、そして頸のない鶏が『死ぬまへの一瞬宙に舞ひあがりたり』。最後の生命力を振り絞って、鶏は宙に舞い上がろうとしたという歌ですね。『頸を絶たれし鶏ははばたき死ぬまへの一瞬宙に舞ひあがりたり』。非常に野性的な、鶏を切って食べなければならない生活を歌っていると思います。
 3番。『獣医師のおまへと語る北方論樹はいつぽんでなければならぬ』『獣医師のおまへと語る北方論樹はいつぽんでなければならぬ』。作者は農業者であり、お友だちの獣医でもあるのでしょうか、獣医のあなたと北方の開拓について論じ合うのでしょうか。そうした中で、樹というものは一本一本立って、自立して生きている。そのように人間も、樹は一本でなければならないように、ひとり立ちをして、自立して、農業に挑まなければならないというような覚悟のほどを表しているのでしょう。
 4番。『冬の日に十指翳(かざ)せばおのづからゆびは捕獲のかまへとなれり』『冬の日に十指翳せばおのづからゆびは捕獲のかまへとなれり』。冬の日差しに、自分の両手を広げて、10本の指をかざすと、それはおのずから広がったままの指ではなくて、何かを捕まえようとする、そういう『捕獲のかまへとなれり』。自分の手そのものも、動物を捕らえ、植物を穫らえる、そういう激しい性格を、つい自分の指がとってしまうと、そういう感じを歌っています。
 5番。『ひかりつつ暗渠ゆながれおつる水涎(よだれ)のごとくこほりつきたり』『ひかりつつ暗渠ゆながれおつる水涎のごとくこほりつきたり』。暗渠ゆというのは、古い言葉で「より」という、「から」という言葉ですね。光りながら、土を流れる溝ですね、暗渠。暗渠から流れ落ちる水は、寒い風土ですから、すぐよだれのように凍り付いてしまう。『ひかりつつ暗渠ゆながれおつる水涎のごとくこほりつきたり』。溝から滴り落ちる水も、すぐよだれのように凍り付いてしまう。そういう寒い風土なわけですね。北海道です。
 6番。『さかしまに降りきし鳥の一声もたちまちにして凍る真冬日』『さかしまに降りきし鳥の一声もたちまちにして凍る真冬日』。暗渠から流れ落ちる水もすぐ凍ってしまうし、さかしまに、逆さまということね、逆さまに降りてくるような鳥の声でさえも、たちまち凍るような真冬の日であると。そういう鳥の声さえも、たちまち凍ってしまうような、そんな極寒の地で働いているわけですね。
 7番。『極寒こそ家族の砦石くれのやうに寄り添ひ生きてゆくべし』『極寒こそ家族の砦石くれのやうに寄り添ひ生きてゆくべし』。そういう寒い風土の中で、家族はまるで石ころのように寄り添って生きていく。寄り添わなければ、一人一人離れていれば、寒くてたまらない。そういう寒さの中で、家族は砦を作って、その中で石ころのように寄り添って、お互いに温め合って暮らしていくのだというような、そういう寒さの中での家族というようなものが歌われていると思います。
 8番。『視線そらしてものいふなかれ頬骨を風にさらして立ちゐる汝』『視線そらしてものいふなかれ頬骨を風にさらして立ちゐる汝』。なんじ、いましと読むかもしれませんけれども、これは奥さまに呼びかけた言葉でしょうかね。ちゃんと視線をそらさないで、物をおっしゃい。そういう風土の中に生きていて、視線をそらしたりしては生きていけない。視線をそらさないで、物を言うほうがいい。『頬骨を風にさらして立ちゐる汝』。一緒に農業をしている奥さん。視線などをそらさないで、真っすぐ前を見て暮らしていこうではないかと、励ましているような歌ですね。
 9番。『野に在れば野男なりのいひぶんがあるや吹雪をくぐりつつゆく』『野に在れば野男なりのいひぶんがあるや吹雪をくぐりつつゆく』。何かの集会でもあるのでしょうか。野原に働いて、野に生きている野男。野男には野男なりの言い分があるだろうか。自分に問いかけながら、吹雪をくぐりながら、その集会に向かって行く場面かと思います。野男っていうような言葉で、自分を表現しているわけですけれども、野に生きている男としてのプライド。そういうようなものを、この歌は考えさせると思います。
 10番もそうですけれども、『野男の名刺すなはち凩(こがらし)と氷雨にさらせしてのひらの皮』『野男の名刺すなはち凩と氷雨にさらせしてのひらの皮』。野に生きて、野で働いている男だから、名刺などという肩書のあるものは持っているはずがない。野男である自分の名刺は、すなわち、この両方の皮の厚い手のひらが、私の名刺なのだ。『野男の名刺すなはち凩と氷雨にさらせしてのひらの皮』。木枯らしと氷雨で鍛えた、そういう厚い手のひらを持った自分の手が名刺なのだ。肩書のない、本当に野に生きている男の人の心からのプライドというものが、この歌には歌われていると思います。野男である自分の名刺は、すなわち、この両方の皮の厚い手のひらである。その手のひらは、寒い木枯らしと凍り付くような雨にさらして鍛えてきた両方の手のひらこそ、自分の名刺なのだと歌っているのですね。
 11番。『五百トン牛糞買ひぬ作付図D地六町歩ビートを植ゑむ』『五百トン牛糞買ひぬ作付図D地六町歩ビートを植ゑむ』。500トンものたくさんの牛糞を買い付けた。そして、広い野原を耕作しているわけですから、作付図という図面があるのでしょう。その図面のDという土地、六町歩にビートを植えよう。そういう生々しい生活なわけですけれども、牛糞を500トンも施して、Dという符号の付いた作付図、その六町歩の面積に、500トンの牛糞を施して、そしてビートを植えようとしている。そういう生活そのものを歌った歌ですね。
 12番。『指をもて選(すぐ)りたる種子十万粒芽ばえれば声をあげて妻呼ぶ』『指をもて選りたる種子十万粒芽ばえれば声をあげて妻呼ぶ』。指で、夜な夜なよりすぐって選んだ種子。それは10万粒にも及ぼうとする、たくさんの作付けなわけですけれども、それを植えて、芽生えると、本当に、そういう荒れた、寒い風土の農地に芽生えたそのことがうれしくて、声を上げて、奥さんを呼んで、芽が出たよと教えてやるという歌ですね、そういう農業を営む人だけの知る、芽生えの感動というものが、ここにはあると思います。
 13番。『サングラス ポンチョ 長髪狂(ふ)れしごと一日トラクターに跨りてゐし』『サングラス ポンチョ 長髪狂れしごと一日トラクターに跨りてゐし』。作者の農業の姿ですね。サングラスをかけて、ポンチョを着て。ポンチョというのは、大きな毛布のようなものに、真ん中に穴を開けてかぶる、そういう風俗でしょう。ポンチョを着て、そして髪は長くなり放題に長くして、長髪のままサングラスをかけ、ポンチョをかぶって、そうして、まるで気が狂ったように、1日いっぱいトラクターにまたがって仕事をしていましたという、生々しい仕事の歌ですね。作者の自画像が描かれているようです。
 14番。『汗のシャツ枝に吊してかへりきしわれにふたりの子がぶらさがる』『汗のシャツ枝に吊してかへりきしわれにふたりの子がぶらさがる』。非常に和ましい情景ですけれども、汗にまみれたシャツを木の枝につるして、肩に担いで帰ってきた。その私に、家に待っていた2人の子どもがぶらさがったって歌ですね。畑で働いて、疲れて帰ってきたお父さん。そのお父さんを待ち構えていて、両手にぶらさがる2人の子ども。その両手に2人の子どもをぶらさげて、お父さんらしい感情がよみがえってる場面だと思います。『汗のシャツ枝に吊してかへりきしわれにふたりの子がぶらさがる』。感動的な場面だろうと思います。
 15番。『かがまりて草をぬく父ゆふやみに黒き巌となりて動かず』『かがまりて草をぬく父ゆふやみに黒き巌となりて動かず』。作者のお父さんも、開拓農として、北海道の農地に深く入り込んで、働いてきたお父さんなのでしょう。そのお父さんが、かがまって、草を抜いている。夕方、もう暗くなるというのに、いつまでもかかんで草を抜いているお父さんを見ると、まるでいわおのようになって動かない。身動きもしないで、その草取りに励んでいる。その『巌となりて動かず』というところに、お父さんもまた開拓農に挑んで、必死に働いてきたお父さんであるということが分かるように歌われていますね。『かがまりて草をぬく父ゆふやみに黒き巌となりて動かず』。
 
C- こちらは(####@00:20:38)。本日、午後3時より6時まで(####@00:20:43)市を開催いたします。野菜と果物、大幅(####@00:20:48)。
 
大西 大丈夫ですか。安売りがあるそうです。
 それから、16番。『ひるがへる照り葉照り葉をくぐりきて動かぬ蛇の眼と出あひたり』『ひるがへる照り葉照り葉をくぐりきて動かぬ蛇の眼と出あひたり』。北海道の開拓農なわけですが、辺りはまだ未開の原野も残っているのでしょう。てらてら光る葉っぱ、その葉が風に翻って光っている。その光っている草の葉をくぐり抜けてきて、蛇が出てきた。その蛇の動かない目と出合う、ぎょっとするような場面もある。『ひるがへる照り葉照り葉をくぐりきて動かぬ蛇の眼と出あひたり』。非常に、野性的な暮らしをしているわけですから、その蛇の野性と人間の持つ野性とが、ひたと目を合わせたような場面なわけですね。
 17番。『湿原に生まれし汝(なれ)やうつむきてものをいふとき半眼暗し』『湿原に生まれし汝やうつむきてものをいふとき半眼暗し』。十勝の平野の湿原で暮らしている作者なのでしょう。そこで生まれた自分の子ども。その子どもも、湿原に生まれた者らしい性格を持って、生きているのではなかろうか。うつむいて、物を言うとき、見ると、何となく、その半ば開いた目が暗いような気がする。そういう北の湿原の風土に生まれた子どもに寄せて歌った歌ですね。『湿原に生まれし汝やうつむきてものをいふとき半眼暗し』。
 18番。『月光に濡れてとどろくコンバイン小麦十町歩穫り終はりたり』『月光に濡れてとどろくコンバイン小麦十町歩穫り終はりたり』。空に月が出る頃まで働いて、コンバインを動かしていた。
 
D- こちらは、中央保健所です。きょう、午後1時30分から3時まで、(####@00:23:36)公民館で、(####@00:23:39)狂犬病予防注射を行っています。
 
大西 予防注射があります。いろいろありますね。
 コンバインを、月影が出てくるまで、動かして、とどろかせて、小麦の刈り取りをしていた。『小麦十町歩穫り終はりたり』『月光に濡れてとどろくコンバイン小麦十町歩穫り終はりたり』。ここにも農業に携わっていて、収穫の喜びというもの、それを夜遅くまで、月光にぬれながら、コンバインを動かせて、そして小麦を獲り終わったという、収穫の歌。
 19番。『牛の眼に映るあをぞら牛とても空は邃(ふか)しとおもひゐるべし』『牛の眼に映るあをぞら牛とても空は邃しとおもひゐるべし』。牛を飼っているのですね。その牛の目に青空が映っている。その牛の目に映った青空を見ていると、『牛とても』、牛だって、『空は邃しと』、空は深いなあと思って、青空を見ているのではなかろうかと、そういう歌ですね。牛の目に映っている青空を見ると、牛だって、空は深いなあと思って、空を見ているのではなかろうか。思っていることだろうと歌って、牛の状態を描きながら、牛に寄せる人間の愛というようなものが歌われている歌でもあると思います。
 20番。『トレーラーに千個の南瓜と妻を積み霧に濡れつつ野をもどりきぬ』『トレーラーに千個の南瓜と妻を積み霧に濡れつつ野をもどりきぬ』。トレーラーに、収穫した1000個、たくさんの南瓜と一緒に奥さんも積んで、そして霧にぬれながら野を戻ってきました。絵になるような場面ですけれども、大型の農業をしていますから、1000個の南瓜、北海道の南瓜おいしゅうございますけれども、その1000個の南瓜を、1000個と限りませんけれども、たくさんのって意味でしょうね、数えきれないほどたくさんの南瓜をとって、それをトレーラーに積み込んで、そして一緒に働いていた奥さんもついでに、南瓜と一緒に乗せて、そして霧にぬれながら、野を戻ってきましたという、大型農業をしている、そして奥さんも南瓜と一緒に乗せるような、そういう非常に野性的な暮らしが歌われていると思います。
 21番。『十五トン肥料ほどこし三十トン豆を穫りたり雪がふりくる』『十五トン肥料ほどこし三十トン豆を穫りたり雪がふりくる』。北海道の土地というのは、そう肥沃ではありませんから、30トン豆をとるためには、15トンもの肥料が必要だ。そういうたくさんの肥料を施して、そして30トン豆をとる。とり終わった頃、もう早い冬がやって来て、雪が降り始めますと、そういう風土の中の農業を歌っています。
 22番。『命ひとつ無駄にするなという手紙つね突つ走りゐる馬かわれ』『命ひとつ無駄にするなという手紙つね突つ走りゐる馬かわれ』。1番の歌で、野に挑んで、まなこはヒョウに似ていると、人に言われるって書いておりましたけれども、本当に農業に命を懸けて突っ走るように働いている作者なんですね。あるとき、命を無駄にしてはいけないと、たった一つしかない命なのだから、無駄にしてはいけない、セーブしながら働くのがいいなどという手紙が来るのでしょう。そう言われてみると、いつでも、常にという意味ですね、『つね突つ走りゐる馬かわれ』。まるで、いつでも突っ走っている馬のように、そういえば働きづくめの自分なのだなあと、反省させられるような場面なのでしょう。
 23番。『一点をみつめたるまま突つ走るわれは最終ランナーなるか』『一点をみつめたるまま突つ走るわれは最終ランナーなるか』。22番の歌を受けて歌っていると思いますが、一点を見つめたように、突っ走って働き続けている自分は、この北海道の開拓農の最終ランナーなのかもしれない。北海道の農業も廃れようとしております。時代の動きの中で、取り残されようとしておりますけれども、その自分が北海道の開拓農の最終のランナーなのかもしれない。それでもいいと思って、作者は命を懸けて、北海道で働いているわけですね。『われは最終ランナーなるか』っていう、そこに、その一生、北海道にうずめても、北海道の農を守ろうとする、そういう覚悟っていうようなものを、自分に確認している場面でしょう。
 24番。『口開くる鮫(シャーク)のごとき北窓の硝子びんびん飛雪を砕く』『口開くる鮫のごとき北窓の硝子びんびん飛雪を砕く』。家の北側にある窓、その窓は、まるでサメが口を開いているような窓の形。その北のガラス窓を打って、びんびんと音を立てて、雪が飛んでくる。そういう厳しい風土であるということですね。そういう北の窓を、『口開くる鮫のごとき』っていうふうなところに、文学的な表現があると思います。
 25番。『空も川もこほる十勝の祖父の杭ちちの杭さらにさらに打つべし』『空も川もこほる十勝の祖父の杭ちちの杭さらにさらに打つべし』。さっき、最終ランナーかもしれないと歌っていましたけれども、おじいさんも、そしてお父さんも、その開拓農に打ち込んできているけれども、その祖父や父が打ち込んだ杭を、さらにさらに自分も打って、そして北海道の農を守っていこうと。そういうような覚悟を示した歌だと思います。