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「短歌講座」
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昭和57年10月12日
④A
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大西 時を表す助動詞っていうのが、「つ」「ぬ」「たり」「り」と普通あるんですけれども、普通の助動詞は。
(無音)
大西 「つ」「ぬ」「たり」っていうような助動詞は、どんな動詞でも連用形に付くんです。例えば、字を今、書いてらっしゃいますけれども、書かず、書きたり、書くと活用しますでしょ。未然形、連用形、書き、ですね。書かず、書きたりの。そうすると、書きつ、書きぬ、書きたりと言えるわけ。ところが、「り」という助動詞だけは、命令形に付くんですね。書けりとなる。で、書けりとなって、四段活用だから書けりに続くけれども、四段活用以外の動詞には続かないという性質を持っているんですね。
ですから、書けりとか、花が咲けりとか言えるけれども、見るというような言葉、それから備えるというような言葉は、備える、備えたり、備う、備うるとき、備えれば、備えよと活用する言葉だから、四段活用でないわけ。下二段活用。だから、下二段活用の連用形には続かないんですね。備えたりとか、備えつとか、備えぬとかいうふうにはなるけれども、備えりとはならない。間違った方法になるわけですね。だから四段活用のときは、簡単に「り」を使って構わない。書けりとか、お乳を飲まない、飲めりっていうふうに使いますね。まず未然形を言ってみて、あ行に活用する、咲かず、書かず、飲まず、そういうふうな言葉には命令形から続くけれども、その他の活用形の言葉には「り」は続かない。よく、見えりっていうふうに、見えたということを見えりと書くことがあるんですけれども、見えるという言葉は、見えず、見えたり、見ゆと活用する言葉で四段活用でないでしょ。だから、見えりとは言えない。見えたりとか、見えつとか、見えぬとかになってしまう。そういう使い分けが、ちょっと必要なんです。
だから、「り」という言葉、大変便利な、時の助動詞なんですけれども、四段活用にしか続かないっていうことを、ちょっと頭に入れておいて。それで「り」を使ってしまったときは、ちょっと考えて、その言葉が、未然形が、あ行で始まって、書かずとか、咲かずとか、子どもが泣かずとか、「か」と未然形が活用するんであれば、泣けりと言えるでしょ。それから、お花が咲かず、咲けりと言える。だけども、見えずっていう、あ行でなく、見えずと、え行でしょ。そういうときは、見えりとは言えない。
備えるという字は、備える、備えたり、備うと、備えずと、あ行ではないから、備えりって言えないっていうふうに、ちょっとしたところなんですけれども、相当な専門家でも、よく間違えて、備えりとか見えりとかしてしまうのを、よく見るんですけれども、やっぱり文法も間違うと、知ってる人には分かられちゃいますからね。なるべく間違わないように使うということが必要ですね。だからここは、備えぬとか、備えつとか、備えたりとかすれば、それでよろしいのです。ちょっと難しいけれども、頭に入れてしまうと応用は簡単でございます。
それから、16番。『秩父路はコスモスの花揺れ揺れて優しき思いに巡る石仏』『秩父路はコスモスの花揺れ揺れて優しき思いに巡る石仏』。秩父路を訪ねていらしたときの歌で、秩父路はコスモスの花がいっぱいに咲いて、風にしきりに揺れていたということを揺れ揺れてと書いてらっしゃるのでしょう。で、心も優しい思いになって、石仏を巡っていきました。4番のお寺などは、マリア観音がいたり、それから、たくさん小さい石仏があったりして美しいお寺ですけれども、秩父路をコスモスの花の揺れるのを見ながら巡っていって、石仏を訪ねたという歌ですね。16番は、このままでよろしいでしょう。
18番。『老母(はは)逝きて住む人もなく幾年か今朝も朝顔二つ三つ咲く』『老母逝きて住む人もなく幾年か今朝も朝顔二つ三つ咲く』。年取ったお母さまが亡くなって、その住んでおられた家には、もう住む人もいなくなって何年かたってしまった。でも、昔植えた朝顔の花が、今もそのまま咲いていて、今朝も二つ三つ咲いていますという歌ですね。これもこのままでよろしいでしょう。
老母と書いて、ははと読ませたり、それから亡くなったお母さん、亡き母と書いてははと読ませたりいたしますけれども。そのまま読むと、ろうぼと読んでしまうわけですね。老母逝きたらでいっこう構わないんですけれども、もし母とどうしても読ませたいときは送り仮名、振り仮名をして、「はは」と書いておけばよろしいですよね。そのままですと若い人なんか、歌を作りなれない人は、ろうぼと読んでしまうし、それから亡き母と書いてあれば、ぼうぼと読んでしまう。音読みしてしまいますから、母とどうしても読ませたいときは、「はは」と振り仮名をしておく必要がありますね。この場合には、ろうぼだっていっこう構わないんですけれども、調子が出ないと思えば、「はは」と振り仮名をしておけばよろしいわけです。
それから、20番。『伊豆観音三十三カ所霊場を夫と巡る七月の旅』『伊豆観音三十三カ所霊場を夫と巡る七月の旅』。伊豆にも、33カ所の観音さまの霊場があるんですね。その伊豆観音の33カ所の霊場を夫と7月の旅に巡って歩きましたという歌ですね。『伊豆観音三十三カ所霊場を夫と巡る七月の旅』。調子よくまとめて歌っていらっしゃると思います。
で、この歌は、33カ所巡っていらしたんですから、それぞれのお寺できっと、いろいろなものを見たり感動したりなさったことだと思うんですけれども、この歌は、まず初めに一首ある歌ですね。こういう歌を序歌って言うんですけれども、序の歌。序文の序という字を書いて、序歌なんて言っておりますけれども、まず初めにある歌で、それから、縷々と33カ所の霊場巡りの歌が始まる、そんな概論を言ったような歌ですね。序歌として、これから次から次と作っていらっしゃればよろしいですね。
それから、22番。『ジョッキーの底のまりもは緑育ち過ぎし日の影懐かしく追う』『ジョッキーの底のまりもは緑育ち過ぎし日の影懐かしく追う』。ビールを飲むときの大きなコップ、ジョッキーでしょうかね。そのジョッキーにまりもを育てているんですね。その小さかったまりもが、緑がだんだん育ってきた。そして、そのまりもを訪ねて北海道に行ったときの過ぎし日の影、その過ぎ去った日の影を懐かしく追うような思いをしておりますと歌っています。ジョッキーにまりもを育てている、そのまりもが、だんだん緑色が育ってきて大きくなっていく。それを見るにつけても、北海道の旅を、多分なさったのでしょう。その過ぎし日の旅の思い出を懐かしく思いますという歌で、これもこのままでよろしいでしょう。
それから、24番。『留めおけぬ思いにかけしも静かなる』。
-- これもうしてもらいました。
大西 これも済みました? 済みましたっけ。じゃあ、26番。『おどろなる名とも覚えずどくだみはかれんに白く道にあふれぬ』『おどろなる名とも覚えずどくだみはかれんに白く道にあふれぬ』。おどろなるっていうのは、恐ろしいというような意味でしょうね。恐ろしげな名を持っているドクダミなんだけども、その恐ろしげな名とも思われないドクダミの花は、非常にかれんであると歌っていますね。おどろおどろしい、恐ろしい名前とも思われないドクダミが、かれんに白く道にあふれる。ドクダミっていうのは十字の白い花を咲かせる花ですから、非常に美しい、一つ見ると花ですけれども、その名前にふさわしくない優しい花がいっぱいに咲いて、道にあふれるように美しいと歌っています。『おどろなる名とも覚えずどくだみはかれんに白く道にあふれぬ』。よく、ドクダミの花を見て歌っていらっしゃると思います。
ドクダミは毒を消すお薬で、民間でよく使われるお薬なんですね。辞書を引きましたらば、ドクダミという花の、薬草の名前の由来が出ておりましたね。
(無音)
大西 漢字で書くとこんな字なんですって。矯正する、正すということなんですね。毒を治す。それが毒矯め、それがドクダミになったって辞書に書いてございましたけれども。毒を落とすとか、煎じて飲むと毒が下りるとか、それから、腫れ物に貼ると毒が取れるとか言いますけれども。毒を治す薬がドクダミだと辞書に書いてございました。
それから、28番。『秋の日を背中に受けて白菜を間引きする手にとんぼ止まりぬ』『秋の日を背中に受けて白菜を間引きする手にとんぼ止まりぬ』。これも静かな歌で、秋の日差しを背中に受けながら白菜の間引きをしていますと、その間引きをしている手にトンボが止まりましたという歌で、何となく周りの静かな畑の気配が感じられますね。秋の日、いっぱいに背中に当たっている。白菜の間引きをして、手仕事をしているわけですが、その手先にトンボが止まって、いつまでも動こうとしなかった。作者も、そうっとしておいたんじゃないでしょうか。そんな静かな気配が歌われていると思います。これもこのままでいいですね。
それから、30番。『姉はふいに移動を告げくるバークレーカリフォルニアアーべ地図を追う』。『姉はふいに移動を告げくるバークレーカリフォルニアアーべ地図を追う』。お姉さんが、外国に移動をして行くのでしょうか。それとも、その外国にいるお姉さんが、またどこかに移っていくことを告げてきたのでしょうか。そのカリフォルニア、アーべという所を地図で追っかけてみましたという歌で、アメリカの地図を広げてお姉さんが移っていくという町を探しているところなんでしょう。『姉はふいに移動を告げくるバークレーカリフォルニアアーべ地図を追う』。地名が大きく出ておりますけれども、お姉さんが移動していくことを知って、また移動するのかなという感じで、アメリカの地図をたどっているという歌ですね。
これでよろしいでしょう。作者は、そういう地名を詠みたかったし、そして、地名のありかを地図に探すということに重点を置いて歌っていらっしゃるんでしょうね。でも、地名があんまり長いので地名だけになってしまったような歌ですけれども、作者は、きっと地名に興味を今、持っていらして、歌っていらっしゃるのでしょう。
それから、32番。『無防備にかつらかぶらぬわが前を孫娘は目をそらしそっと通りぬ』『無防備にかつらかぶらぬわが前を孫娘は目をそらしそっと通りぬ』。正直な歌ですね。こういう正直なの、いいと思いますけれども。おうちにいらして、いつも防衛しているわけなんだけれども、ちょっと防衛を怠ってかつらをかぶらないでいたところを、お孫さんが通って、見ないふりをして通っていったんですね。『無防備にかつらかぶらぬわが前を』なんていうのはうまいんじゃないかな。その場面は、ちょっとユーモラスですけれども。そのお孫さんが、何ていうか優しいお孫さんなのね。だから振り返って笑ったりしないで、そっと目をそらして通っていったっていうんですね。
白髪のおばあちゃまの歌なんでしょうかね。いつもかつらをかぶってきちっとしてらっしゃるんだけども、無防備にかつらをかぶらないでいた、家でいる状態なんでしょう。家にいらっしゃる状態で、『孫娘は目をそらしそっと通りぬ』。いい子でした、お孫さんもね。こんな歌も、老いの歌、老境に向かいますと、出てきてよろしいと思います。
34番。『二度わらしの映像見終わり先行きの娘(こ)の年までも数えていたり』『二度わらしの映像見終わり先行きの娘の年までも数えていたり』。敬老の日の前後に、たくさんテレビで映りましたね。これでもか、これでもかって映りましたね。私が生まれた岩手県では、二度わらしということを昔から言いました。私が子どもの頃も聞きましたね。あそこのおばあちゃんは、二度わらしになってしまったんだそうだっていうようなことを、子どもで聞いておりました。東北の言葉でわらしっていうのは、子どものことなんですね。二度わらしになったってことは、昔はそんなに大変だと思わなかったですね。家族が割に多くて暮らしてましたでしょ。だから「あそこのおばあちゃん、二度わらしになったんだって」って言っても、家族がみんなで守ってあげる感じでね、そんなに悲劇的な要素でなかったんですけども、この間見た二度わらしは悲劇的でしたね。本当に年取るのは困っちゃうなという感じになりましたけれども。
この歌では、あの映画を見て、あのテレビを見て、見終わると先行きのことをいろいろ考えて、娘の年のことまでも数えていたっていうんですね。『先行きの娘の歳までも数えていたり』。どこ行きましても、あの映画はずいぶんショックだったらしくて、この二度わらしの映画を見たという歌はずいぶん、私お目にかかりました。それだけショックの激しかった映像だったんだと思うんですね。この歌も、そのときのことを歌っていらっしゃる。自分の先行き、まして娘の年までも数えていたりしましたという歌で、その映像のショックの大きさを歌っていらっしゃると思います。これはこれでいいですね。
36番。『関東の大震災のとき銀座にてビルの五階は揺れに揺れたり』『関東の大震災のとき銀座にてビルの五階は揺れに揺れたり』。これは、関東の大震災のとき、ちょうど銀座でビルの5階にいたとき、作者は、そのときビルの5階にいたという歌ですかね。そうすると、だいぶお年の方かな。私が、関東大震災の翌年生まれたんですから。そのときに、銀座でビルの5階にいたという記憶を持った方っていうと、もう60を超えていらっしゃる方かもしれませんね。関東の大震災のときに、銀座でビルの5階にいましたけれども、本当に、揺れに揺れるという感じで怖かったですよと歌っているんですね。
34番の歌にしても36番の歌にしても、作者が経験したことを、そのまま報告しているでしょ。二度わらしの映画を見て年を数えてしまった、それから関東の大震災のとき、銀座でビルにいましたけれども、それは揺れに揺れたものでしたという報告をした歌になっているんですね。多くの歌が、こういう報告の歌で終わってしまうことが多いわけですけれども。その報告するということが、作者が知ったことを、感じたことを、相手に伝達するという第一の基本的な条件ではあると思います。報告するということ。
でも、専門的な歌詠みに言わせると「これは報告の歌です」っていうふうに悪口に言われることもございますね。ただ、何かをどうしましたって報告して、そして読んだ人が「ああそうですか」で、それでおしまいで。「ああそうでしたか、それはお困りでしたね」とか「それは怖かったですね」とか、「そうですか歌」と、私のお師匠さんは言うんですけれども。そこから抜け出さなければならないんですよと教わってきましたけれども。まず報告すると、報告して何か読者に感動が与えられれば、報告の歌を抜け出ることになるわけなんですけれども。私たちが書く歌は、大体報告の歌で「ああそうですか、それはお困りでしたね」とか、そういう報告歌、そうですか歌って言うんですけれども、「そうですか」ということで終わることが多いわけでございます。
それから、38番。『ひとひらの花びらさえも乱さずに咲きあげしや菖蒲の美し』『ひとひらの花びらさえも乱さずに咲きあげしや菖蒲の美し』。菖蒲の花が咲きあげたというのかな、咲きそろったというか、咲ききったというのかな。『ひとひらの花びらさえも乱さずに』、すっきりと見事に咲きあげた菖蒲の花が美しいというのですかね。菖蒲の花が見事に開いた、そのときはとても美しいものですから、その美しさを歌っていらっしゃると思います。『ひとひらの花びらさえも乱さずに咲きあげしや』。
(無音)
大西 ちょっと分かりづらいでしょうかね。咲ききった瞬間ということであれば、『乱さずに今咲ききりし菖蒲美し』とか、その咲ききった状態を強調すればよろしいでしょうかね。『ひとひらの花びらさえも乱さずに今咲ききりし菖蒲美し』。菖蒲の美し、「の」はいらないかもしれません。『ひとひらの花びらさえも乱さずに今咲ききりし菖蒲美し』。今咲ききれるでもいいですね、『今咲ききれる菖蒲美し』。咲ききって、凛と、花びらがまだ、たるまないで、咲ききった状態の菖蒲に美しさを定着させればいいと思います。
それから、40番。『花見れば花のよわいの長かれと祈る心ぞ人もわれをも』『花見れば花のよわいの長かれと祈る心ぞ人もわれをも』。お花を見ると、その花の命は短くてということありますけれども。花の命が長いようにと祈る心は、私も持っているし、人も持っていることでしょうという意味ですね、人もわれをも。
人もわれをもっていう最後のところで、ちょっと崩れましたね。そこのところは、長かれと祈る心は誰も持ちいんとか、人も持ちいんとかして、すっきりとさせればよろしいでしょうね。『長かれと祈る心は人も持ちいん』。人も持っているだろうとすれば、自分もということも出てきますでしょう。それから、誰も持ちいんとしても、誰でも持っていることでしょうとなりますから、人もわれをもっていうふうなことをしないで、『長かれと祈る心は人も持ちいん』とすれば、自分も持っているし、人も持っているだろうというふうにすればよろしいと思いますね。そして最後の所、結句の7音は、特に調べをよくして歌を収めることも必要ですね。『花見れば花のよわいの長かれと祈る心は人も持ちいん』、誰も持ちいん、そういうふうなことでいいと思います。
それから、42番。『手を取りて語るは過ぎし旅のことあと幾日の命と思えば』『手を取りて語るは過ぎし旅のことあと幾日の命と思えば』。手を取って、もうあと幾日の命でもないご病人の方と一緒にした旅の過ぎた思い出を語り合って、手を取り合っていましたという痛ましい場面のようですね。『手を取りて語るは過ぎし旅のことあと幾日の命と思えば』。余命幾ばくもない人と手を取り合って、昔一緒にした旅のことなどを語り合ったという歌ですね。これは、このままでよろしいでしょう。
44番。『独り居の部屋の近くに夜ごと来て鳴きいしこおろぎ今宵か細き』『独り居の部屋の近くに夜ごと来て鳴きいしこおろぎ今宵か細き』。1人で住んでいる作者、その1人いる部屋の近くに毎晩のように来て、盛んに鳴いていたコオロギ。今宵は気が付くとか細くしか鳴いていないということで、秋が深まったことを告げているのでしょう。『独り居の部屋の近くに夜ごと来て鳴きいしこおろぎ今宵か細き』。今宵か細きということで、作者の秋を惜しむ思いっていうかな、深みゆく秋を歌っている歌だと思います。これもこのままいいですね。
それから、46番。『初咲きのハイビスカスに見とれたり台風一過のガラス戸越しに』『初咲きのハイビスカスに見とれたり台風一過のガラス戸越しに』。ハイビスカス、南国の花、その花が植えて初めて花が咲いた。台風が過ぎて、美しい晴れになった。そのガラス戸越しの外に、初めて咲いたハイビスカスの花に見とれていましたという歌で、これもしっかりと歌われていると思います。
それから、48番。鉢植えのでしょうね、針植えじゃなくてね。『鉢植えの紫根か咲きて萎れおりはや水やりてやおら葉もたげん』『鉢植えの紫根か咲きて萎れおりはや水やりてやおら葉もたげん』。正直に歌ってらっしゃるんですが、鉢植えの紫根の花が咲いて、水やりをしなかったので萎れてしまった。早く水をやったら、きっとゆっくりと葉をもたげることでしょうかと歌っているんですね。『はや水やりてやおら葉もたげん』、少しもたもたしていますから、『鉢植えの紫根か咲きて萎れおり水をやりなば葉をもたげんか』とでもしますかね。『水をやりなば葉をもたげんか』。『鉢植えの紫根か咲きて萎れおり水をやりなば』、やったならば、『水をやりなば葉をもたげんか』と、少し疑問を残しておきましょうか。水をやりさえすれば、葉をもたげることでしょうかと歌っておきましょうかね。『鉢植えの紫根か咲きて萎れおり水をやりなば葉をもたげんか』。そうして分かりやすくしておきましょうか。
50番。『夫(つま)もなく子もなく老いの独り居を文書くすべを知りて生きゆく』『夫もなく子もなく老いの独り居を文書くすべを知りて生きゆく』。夫もないし、子どももいない、年取って1人で暮らしているけれども、ものを書くすべを知っているので生きがいがございますという歌ですね。そこで、この歌で気が付くのは、夫(つま)もなく子もなく、文書く、生きゆくと、「く」が割合に多いでしょ。だから、気にする人はするでしょうから、『夫もなく子もなき』と一つぐらい減らしましょうか、「く」をね。『夫もなく子もなき老いの独り居を文書くすべを知りて生きゆく』。一つぐらい減らしておけば、あまり「く」の多いのが目立たないかもしれません。身寄りがないけれども、1人で暮らしているけれども、文を書く、ものを書くすべ、方法を知っているので生きていくことができますと歌っていらっしゃるんですね。
それから、52番。『行き行けど曲がり角なき道にして歩き続くる夢より醒めつ』『行き行けど曲がり角なき道にして歩き続くる夢より醒めつ』。これは、気持ちのよく分かる歌で、夢を見ているんですけれども、行っても行っても曲がり角がない、どこまでも続いている道、その道をどこまでも歩き続けて行って、苦しい夢でしたけれども、その夢から醒めましたという歌ですね。これは、夢が割合にすんなりと歌われていると思いますね。いい歌だと思います。
54番。『秋深みわれが片眼いといつつ書に励みたしかるた競いたし』『秋深みわれが片眼いといつつ書に励みたしかるた競いたし』。53番の歌で、かるたを遊んだという歌がございましたけれども、秋深みっていう「み」は古い言葉ですけれども、秋が深くなったのでという意味がございます。秋が深くなったので、私も片方の目が悪いんだけれども、片方の目を、いとうっていうのは、大事にするという意味ですね、片方の目を大事にしながら、書にも励みたいし、かるたも競いたいと思いますという歌で、深みの「み」と、いといつつというような古い言葉を使っていらっしゃいますけれども、割に分かりやすく歌われていると思います。秋が深くなって、片方の悪い目を大事にしながら書に励んだりかるたを競ったりして、秋の日々を過ごしたいと思っていますという歌ですね。これもよろしいでしょう。
56番。『白妙の衣干したり雪景色白き屋根にてたわむれいたり』『白妙の衣干したり雪景色白き屋根にてたわむれいたり』。『白妙の衣干すてふ天の香久山』という昔の歌がありますね。山部赤人の歌でしたか。『白妙の衣干したり』、ちょうど雪が降って白じろとした衣を干したように屋根が真っ白になりました。その白い屋根の上でたわむれていましたという歌ですが、さて、何がたわむれていたかな。『白妙の衣干したり雪景色白き屋根にてたわむれいたり』。なんにも言わないと、作者っていうことになるのね。たわむれていた、遊んでいたというの。
歌っていうのは、一人称の文学と言われていて、なんにも言わなければ私がということになるんですね。一人称の文学なんです。だから、この歌でもなんにも書いてないと、白妙の衣干すように降った雪の白い屋根で、私は遊んでいましたっていうことになるんですが、果たしてそれでいいのかどうかね。雪景色って、今歌うことあんまりないから、もしかすると、屋根の上に白い夜具なんかを干したというのかな。そしたら雪景色みたいになって、その上でしばらくいたということかな。ちょっと分かりづらいところあるんですけれども、このままだと、雪が降った白い屋根の上で、作者がしばらく遊んだという意味になるんですね。そういうふうに気を付けませんと、例えば遊んでいるのが猫か鳥かもしれないでしょう。そうであれば、それをきちっと書かないと、一人称の文学というのは、自分自身のことになってしまう。私はそうしたということになってしまうので、気を付けないといけないということですね。
それから、58番。『われもまたかくてありなんさるすべり秋風に耐え華やかに咲く』『われもまたかくてありなんさるすべり秋風に耐え華やかに咲く』。さるすべりの花が、秋風に耐えながら、あれは夏の頃から咲き始めて、割に花時の長い花でございますね。さるすべり、百日紅。その花が、秋風に耐えて華やかに咲いているのを見ると、私もまた、あのようにありたいと思う。いつまでも秋風に耐えて美しく咲いていたいと思う。そんなふうに、自分も華やかに美しく老いていきたいというような気持ちでしょうかね。そんな気持ちが『われもまたかくてありなん』ということでしょう。このようにありたいということですからね。花のように風に耐えて、華やかに咲き続けたいという女の願いが歌われているのかもしれないと思います。
それから、60番。『移し植し桜の枝も広がりて我が子二人もともに育ちぬ』。『移し植えし』、植えの「え」は要りますね。活用するところから書かなきゃいけませんから、このまま書いてしまうと、移し植しと読まれてしまいますね。移し植え、「え」を入れておく。移し植えた桜の枝も広がってきて、その子どもたちも、わが子2人も一緒に、その移し植えた桜の木と同じように子どもたちも育ってきましたと歌う歌。『移し植えし桜の枝も広がりて我が子二人もともに育ちぬ』。これは、桜とともに育ってきた子どもたちを優しく眺めている歌で、よろしいと思います。
それから、62番。『バスに群れ物売る人は貧しくて声のみ高くまなこ悲しき』『バスに群れ物売る人は貧しくて声のみ高くまなこ悲しき』。観光地へ行きますと、バスに物売りの人たちが集まってきて、わいわいするわけですけれども、その状態を描いているのでしょう。バスに寄って来て物売る人たちは、皆貧しそうで、声だけ高いんだけれども、目を見ると何となく悲しそうだったというんですね。『バスに群れ物売る人は貧しくて声のみ高くまなこ悲しき』。よく見て歌っていると思います。
ただ、気にする人は形容詞がやたらと多いなと思うかもしれない。貧し、高し、悲しというふうにね。形容詞が割に多いでしょ。そのことを気にする人もいるかもしれません。で、貧しくてって言えるかどうかも疑問ですね。案外、金持ちかもしれない。もし、貧しそうだったっていうことだったらば、貧しいと断定しては悪いですから、貧しげにとかすればね、貧しそうにと、貧しげに。『バスに群れ物売る人は貧しげに声のみ高くまなこ悲しき』とでもすると一つ形容詞、「く」が減るかな。『バスに群れ物売る人は貧しげに声のみ高くまなこ悲しき』。様子がよく出ていると思いますね。
64番。『私と同じ花の終わりに近づきぬ八十路の義母は爽やかな秋』『私と同じ花の終わりに近づきぬ八十路の義母は爽やかな秋』。私と同じっていうのは、そのお母さんの言葉なのかもしれませんね。花も、終わりに近づいた何かの花を見ていて「私もおんなじ」と、そんなふうにおっしゃって、80を超えた義理のお母さんは、爽やかに秋を過ごしていますというようなのですね。『私と同じ花の終わりに近づきぬ八十路の義母は爽やかな秋』。爽やかに、八十路のお母さんが過ごしておられる、花が終わりそうになると「私と同じ」なんておっしゃって、終わりに近づこうとしているという歌ですね。64番。
それから、66番。『幾日かの調査を終えて風すがし息ひそめいし孫にVサイン出す』『幾日かの調査を終えて風すがし息ひそめいし孫にVサイン出す』。この歌は、面白いと思って読みました。何かの調査を頼まれて、何かの仕事をしてらしたんですね。で、何日もかかってその調査が終わって、すがすがしい風を浴びている。そしてお孫さんは、その調査に忙しい作者をはばかって、息をひそめるようにひっそりと、おばあちゃんかおじいちゃまかの様子をうかがっていたんですね。そのお孫さんにVサインを出して、終わったよと合図をしてあげて、これからお孫さんと、また仕事のなかったときのように遊べるという、そういう息ひそめて待っていたお孫さんにVサインを出したという歌で、これはなかなか様子が出ていて面白いと思いました。
68番。『亡きのちもいんげんの花咲き見られ涙とどめき秋風そよぐ』『亡きのちもいんげんの花咲き見られ涙とどめき秋風そよぐ』。お人が亡くなったあとも、その植えていたインゲンの花がまだ咲き続けていて、そして秋風がそよいで、風に揺られているインゲンの花を見ると、涙を誘われるというような意味だろうと思いますね。咲き見られ、咲くのが見られるという意味ですが、咲き続けとでもしましょうか。『亡きのちもいんげんの花咲き続け秋風たてば涙誘わる』というふうにでも歌ったら、静かで気持ちが出るんじゃないでしょうか。『亡きのちもいんげんの花咲き続け秋風たてば涙誘わる』。涙とどめきなんていうのは分かりづらいですからね。『秋風たてば涙誘わる』、涙を誘われる、そんなふうに歌うと分かりいいと思います。ひっくり返して『亡きのちもいんげんの花咲き続け涙誘わる秋風立てば』となさってもいいですね。ひっくり返してもいい。『秋風立てば涙誘わる』、そんな感じにまとめれば優しいと思います。
70番。