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大西 ・・・っていますね。お亡くなりになった日に、というふうに言っているけれども、歌ではあんまり敬語って使わなくてよろしいですね。敬語を使ったために、この歌は字余りになっているでしょう? 『少女は言えり父の逝きませし日に』、10音にもなってしまってるわけね。だから、少女は言えりでそこで切れるでしょう。父の逝きませし日に、10音にもなってしまっているから、その「ませし」というような敬語を取ってしまえば、きちっとを五七五七七にいくんじゃないかな。逝きませしと敬語を使わなかったらどうなりますか。父逝きし日に、それでいいんですよ。『看護婦の道に進むとその母に少女は言えり父逝きし日に』、それで結句はちゃんと五七五七七にまとまるわけね。それでよろしいと思います。お父さんが亡くなられた、そう敬語使いたいところだけれども、字余りを多くしてまで敬語を使わなくてもいい。使えないときは使わないでいいということでよろしいと思いますね。お父さんの看病している間に看護婦さんのありがたさが分かった少女なんじゃないかな。だから少女は看護婦さんになりたいとお母さんに告げているのを見たと、心を打たれて歌っているのね。『看護婦の道に進むとその母に少女は言えり父逝きし日に』。よろしいですね。
 7番。『くしの歯の欠けるがごとく友は逝く残る人生いかん生くべき』『くしの歯の欠けるがごとく友は逝く残る人生いかん生くべき』。もう私たちの年代になると同年代の人が次々に亡くなっていきますね。その寂しさを歌っているんですね。くしの歯が欠けるようにお友達が亡くなっていく、同窓会の名簿がどんどん消されていく。そんな感じの年代になってまいりましたけれども。『残る人生いかん生くべき』、そこはどうしましょう。いかに、のほうが良さそうね。いかに生くべき。残る人生をどのように生きていったらいいのでしょうかと自分にも問い人にも問うているような、そんな感じの歌で、よろしいですね。それから、生くべきときちっと文語を使っていらっしゃる。そうすると上の句の『くしの歯の欠けるがごとく』っていうのは口語なんだね。くしの歯が欠けてしまうっていうでしょう。文語だとどうなる? 『くしの歯の欠くるがごとく』。欠けん、欠けたり、欠く、欠くるとき、欠くれども、欠け、と活用する言葉だから、もし文語で統一しようと作者思うなら、『くしの歯の欠くるがごとく友は逝く』となるわけですね。そんなふうに文語を使うということも一つのたしなみかもしれないし。今の歌は若い人など文語っていうの、あまり知らないの。だから、どんどん歌が口語化していきます。それから、旧仮名遣いも知らないの若い人は。だから、どんどん新仮名遣いの歌が増えてきますね。朝日歌壇なんかは、全国版は新仮名遣いになってしまってるんじゃないでしょうかね。埼玉版のほうは作者のした通りにしてるんです。新仮名で書いた人は新仮名、旧仮名で来た人は旧仮名のままにして、その作者を大事にしてるんですけれども、全国版のほうはみんな新仮名になってしまってるかもしれませんね。『くしの歯の欠くるがごとく友は逝く残る人生いかに生くべき』、いいですね。
 9番。『鳳仙花種のはじけし音聞きて子らの喜び秋空に飛びゆく』『鳳仙花種のはじけし音聞きて子らの喜び秋空に飛びゆく』。秋空に本当に飛んじゃったのかな、子どもたち。その通り読むとそうなるでしょ? ホウセンカが、種がはじけた音が聞こえてきて、子どもたちはその秋晴れを喜んで飛び出していったということなんだけども。秋空に飛びゆく、空に飛んだことになっちゃう。シャガールの絵みたいになっちゃうね。シャガールの絵ではみんな飛ぶでしょう? 喜んだ恋人はみんな空を飛ぶように描かれている。どう言ったらいいかな、最後のところ、秋空に飛びゆく。『鳳仙花花のはじけし音聞いて子らの喜び』。外に飛び出していったこと言ってるんじゃないかな? 空に飛んだんじゃなくてね。何かそこを作者で工夫していただくといいなと思いました。『鳳仙花種のはじけし音聞きて子らの喜び外に飛び出す』でもいいと思うんですね。外に飛び出すぐらいの言い方で。飛び出しゆきぬでもいいし。『鳳仙花種のはじけし音聞きて子らの喜び飛び出しゆきぬ』、外に飛び出す、そんな感じで秋空に飛ばないほうがいいと思う。トンボになってしまうからね。飛び出しゆきぬ、外に飛び出す。そんなところ、自分じゃなんとも思ってないんですよ、きっと。秋空の下に飛び出したつもりでいるんだけども、読んでみると飛行機になっちゃったり、トンボになっちゃったりするわけね。だから気を付けて、読んだ人がちゃんと読めるように、正しく表現することが大事だっていうことですね。それから11番行きまして。歌って難しいね、こうして見るとね。秋空に飛んだはずないのに飛んじゃったりなんかするもんね。
 11番。『今日限り勤めを辞める夫(つま)の靴心を込めてわれは磨けり』『今日限り勤めを辞める夫の靴心を込めてわれは磨けり』。定年でご主人が辞めるんですね。お辞めになる。そのご主人の靴をきょう限り、靴を磨いて送り出すのもきょう限りだわと思って、ご主人の靴を心を込めて私は磨きましたという歌ですね。これは静かで心が通っていて、いい歌なんじゃないかな。『今日限り』、あんまりご主人に辞めてもらっても困るけど、辞めてしまわれる日、最後に送り出すときの歌なんですね。『今日限り勤めを辞める夫の靴』。夫という字を、つま、と読んだりしますし、おっと、と読んでもいいし。夫の靴でもいいですよ。『今日限り勤めを辞める夫の靴心を込めてわれは磨けり』。これは、辞めるっていうところが口語になっているけれど、文語に直したらどうなる? 『今日限り勤めを辞むる』になる。文語にするならね。文語に統一したければ、『今日限り勤めを辞むる夫の靴』となる。文語にすれば。あまりこだわらないで作っていらっしゃる方はそのままでもよろしいです。いい歌ですね。
 13番。『孫に似し幼のしぐさ面白く足止めてみる五月の昼下がり』『孫に似し幼のしぐさ面白く足止めてみる五月の昼下がり』。お孫さん、離れて住んでいるのかな。だから、よその幼子が何かしているのを見て孫に似ているなと思った。そのしぐさが面白くて足を止めて見ていました、という歌ですね。ここで気が付くのはなんですか。五月の昼下がりってところかな。でも、これはどっちも取れない感じだね。どうしたらいいでしょうか。『孫に似る幼のしぐさ面白く足止めてみる』。5月の昼下がりで、のどかだったんだね、きっとね。お天気はいいし。五月の昼下がりっていうのはとっときたい気もするし。普通の歌い方だと、道を行きつつとかいうことになるんだろうな。『孫に似る幼のしぐさ面白く足止めてみる道を行きつつ』とか。道を行っていたけども途中で足を止めたと。『孫に似し幼のしぐさ面白く足止めてみる道を行きつつ』、道のほとりに、そんなような止め方になるんだけども、普通だとね。でも、この歌では五月の昼下がりときてるから、このままにしておきましょうかね。そこは作者の好きなようにして。五月の昼下がり、9音になるのか。足止めてみる五月の昼下がり、気分は出ていますね。このままにしておきましょうか。もしどうしても作者が字余りが嫌になったら、また考えてみてしまえばいいでしょうね。
 15番。『現代の解明されし月今も母には祈りの神にてありき』『現代の解明されし月今も母には祈りの神にてありき』。現代はもう月は手の届くものになってしまって、すっかりクレーターがどうなってるとか陰のほうはどうなってるとか、いろいろ解明されて分かりきってしまって。神秘の対象ではなくなったけれども、今でもお母さんにとってはお祈りをする神さまとしてお月さんが存在しています、という歌ですね。『現代の解明されし月今も母には祈りの神にてありき』。お母さんにとってはそんなようなことはどうでもよくて、今でも、お月さまは。昔は、のんのさま、と私たちは拝まされましたね、お月さんを。のんのさまって言われましたけれども。今でもお母さんにとっては、老いたお母さんにとっては、お祈りする神さまとして存在するのですという歌ですね。『現代の解明されし月今も母には祈りの神にてありき』。なかなかいいじゃありませんか。現代と古代が交錯して感じられるのね。
 それから17番。『冷えしるき朝の歩道に鮮やけきルビーのごとき柘榴こぼるる』『冷えしるき朝の歩道に鮮やけきルビーのごとき柘榴こぼるる』。冷たい秋の朝、道の上に鮮やかにルビーのような、きらきらと赤くて美しいザクロの実がこぼれていました、という歌ですね。『冷えしるき朝の歩道に鮮やけきルビーのごとき柘榴こぼるる』、いい歌ですが気になることありますか。『冷えしるき朝の歩道に鮮やけきルビーのごとき柘榴こぼるる』、気になるところは? 「き」がいっぱいあることかな。冷えしるき、鮮やけき、ルビーのごとき、ね? 形容詞の連体形の、「き」っていうのが3つ重なっている。しるき、鮮やけき、ごとき。一つぐらい外すとそう気にならなくなるんじゃないかな。『冷えしるき朝の歩道に鮮やかに』とそこしますか。「に」が2つ重なるけれども、「き」が3つあるよりいかな。『冷えしるき朝の歩道に鮮やかにルビーのごとき柘榴こぼるる』。詠んでみるとね、私が詠むと、あっと思うようなことがあるわけでしょう。あ、「き」がいっぱいあるわ、とこう思う。自分の歌を作ったとき、作り終わったときね、誰もいないようなときに見計らって、声を出して詠んでみるといい。そうすると、「き」ていうのがたくさんあるな、と自分の耳で確かめることができるのね。私は暇があるときはテープで、自分の作った文章や作った歌をテープに吹き込んでみるんです。そして聞いてみると、あっと思うようなことがあるんです。だからテープに吹き込まないまでも、耳から聞いてみるとあっと思うようなことがあるのね。この歌でも、もし、「き」が気になるなら、少しぐらい減らすことを考えてみるのもいいと思います。どこかをまた消す方法もあるかもしれませんよ。鮮やかにだけじゃなくて、例えばルビーのごときっていうのをルビーのようなとすることもあるでしょう。『ルビーのような柘榴こぼるる』。いろんな消し方があるわけで、その消すのもまた楽しみの一つなもんです。こうやったら消えたっていうふうにね、自分の歌を直す喜びもありますからね。耳で確かめて直していくということが大事だと思います。
 19番。『みやしろは朝霧の中に神さびて太刀はきてゆく巫女の緋袴』『みやしろは朝霧の中に神さびて太刀はきてゆく巫女の緋袴』。お社の中で、朝霧、何かお祭りでもあるのでしょうか。緋袴、緋のはかま、赤いはかまを着けた巫女さんが太刀をはいて歩いていきましたという歌ですね。『みやしろは朝霧の中に神さびて太刀はきてゆく巫女の緋袴』。巫女さんの緋のはかまが、印象的に朝霧の中で見えたのでしょうね。『みやしろは朝霧の中に神さびて太刀はきてゆく巫女の緋袴』。これは名詞止めだけれども、このままで落ち着いて詠めるような気がしますね、巫女の緋袴。『巫女の緋袴太刀はきてゆく』っていうとちょっと落ち着かなくなるから、この歌はこれでよろしいでしょう。お社の朝の荘厳な感じを出していて、いいと思いますね。
 それから、21番。『両親のそろいて育ちしともどちを幾たびわれはうらやみにしか』『両親のそろいて育ちしともどちを幾たびわれはうらやみにしか』。作者は両親がそろわないで育たれたんですね。だから両親がそろって何不自由なく育っていくお友達を、ともどちというのは友達ということですね、お友達を何度も私はうらやましいと思って眺めたことでした、というのですね。自分の生い立ちを語っている歌でしょう。自分は両親そろって育たなかったから、いろいろ寂しいこともあった。両親がそろって育つ人はいいなと思って、うらやみながら何度も考えたことでした、と歌って、来し方をしのんでいるんですね。両親がそろっていればよかったなと思って見ていたというんですね。なかなかいいですね。
 それから23番。『老い一人生きがいとして歩み来しこの道険しボランティアわれ』『老い一人生きがいとして歩み来しこの道険しボランティアわれ』。年を取った1人暮らしの生きがいとしてボランティアをしてきた。ボランティア活動を何かしていらした。その道もつくづくと険しく感じられる、という歌ですね。ボランティア活動などをなさっていて、なかなか立派な生き方をしていらっしゃるわけですが、時々その道も険しくなってきたことが分かる。ボランティアをしていても、その善意というものが相手に伝わらなかったり、また報いられなかったりすることも多いわけでしょうね。『老い一人生きがいとして歩み来しこの道険しボランティアわれ』。なかなか、ボランティア活動の苦しみを嘆いて、しっかりと歌っていますね。でもめげないで、やっぱり続けていらしていただきたいなと思います。
 それから25番。『訪れる人もなくただ籠りいて宵の厨に米二合とぐ』『訪れる人もなくただ籠りいて宵の厨に米二合とぐ』。訪ねてくれる人もないままに『ただ籠りいて』、ただこもっているままに、夜になって、明日のお米をとぐのでしょうか。1人暮らしでお米は2合しか炊かない、そんな暮らしがよく出ていますね。『訪れる人もなくただ籠りいて宵の厨に米二合とぐ』、私と同じですね。私は2合といで2日で食べるの。だから割合に小食なんですよね。その割に太ってるでしょう。そこで訪れる人もなくっていう、訪れるは口語ね。文語だったらどうなる。訪るる人もなく、文語だったらね。『訪るる人もなくただ籠りいて宵の厨に米二合とぐ』、何となく身につまされて読みました。
 それから、27番。『連れ添わば厨辺(くりやべ)に立つ日もあらん生活(たつき)に触れざる老いのさぶしも』『連れ添わば厨辺に立つ日もあらん生活に触れざる老いのさぶしも』。さぶしっていうのは、寂しいということと同じ意味ですね。さぶしもの「も」は感動の助詞で、寂しいことだなという意味ですね。この歌は、もし人と連れ添っていたならば、仮定のことですね、もし連れ添っていたならば、厨辺に立って夫のために食事を作る日もあるだろうのに、生活に触れないで暮らしている年寄りは寂しいな、という歌ですね。もう、子どもさんと一緒に住んでるんじゃない? だから、厨に立って、お台所することもなくて、お母さんで「ご飯ですよ」って言われると、そこ行って食べるような、恵まれた暮らしをしてらっしゃる作者なんじゃないかな。だけども連れ添いが、連れ添って連れ合いがいるならば、厨に立って実際ご主人のために食事の支度をすることもあるだろうけれども、そういう生活に触れることのない、ご隠居さまの生活しているのかな。それとも相手の人がいて、あの人と連れ添ったならば、厨辺に立つ日もあるだろうのに、その相手の人の生活に触れないのが寂しいというのかな。どっちに取れますか。子どもたちと暮らしてて台所仕事を離れてしまった寂しさかな、どっちでしょう。どっちかな、作者にお返しして。『連れ添わば厨辺に立つ日もあらん生活に触れざる老いのさぶしも』。子どもたちにもう、お台所預けちゃった寂しさなのか。好きな人がいるけれども連れ添えない寂しさなのか。どっちなのでしょうね、という感じですね。
 29番。『杉木立上りつめれば光堂名もなき鳥にいざなわれゆく』『杉木立上りつめれば光堂名もなき鳥にいざなわれゆく』。これは平泉の金色堂のところですね。杉木立を上りつめるとそこに、さや堂の中に光堂がありますね。その光堂目指して登っていった、その場面。名もない、名も知らない鳥に誘われるようにその辺りを歩きました、というのですね。『杉木立上りつめれば光堂名もなき鳥にいざなわれゆく』。旅の旅情というのかな、そういうものを出していると思います。『上りつめれば』、これも口語ね。もし文語なら、『上りつむれば』になります、文語ならね。口語でよければそのまま。『杉木立上りつめれば光堂名もなき鳥にいざなわれゆく』。いざなう、は誘うということと同じね。誘うというと3音しかないけれども、いざなう、というと4音になるでしょう、いざなう。それで、誘うでは字が足りないときなど、いざなう、という言葉を使うわけですね。両方を使いこなしていけばいいと思います。
 31番。『山裾の間に在りし落陽は今美しく回りて沈む』『山裾の間に在りし落陽は今美しく回りて沈む』。山裾の間に日が落ちようとして、夕日がくるめいている、その様子ですね。『今美しく回りて』、くるめくように、くるくるっと夕日が回る感じがして沈んでいく、その様子を描いています。『山裾の間に在りし落陽は今美しく回りて沈む』。落陽、夕日ですね、夕日のこと。夕日としてしまうと字が足りない。夕日ということを、夕つ日とも言うわね。「つ」を入れて、夕つ日。「つ」は平仮名で、夕つ日は。『山裾の間に在りし夕つ日は今美しく回りて沈む』。どちらがいいか、作者に考えていただいて。落陽と漢字でいうのが好きか、夕つ日というふうに日本語で言うほうがいいか、作者にお任せしましょうね。
 それから33番。『黄泉路の子旅安かれと馬作る茄子苗ひともと朝市に買う』『黄泉路の子旅安かれと馬作る茄子苗ひともと朝市に買う』。お盆になると黄泉路から子どもが帰ってくる。その子どもの旅が安らかであるように乗り物のナスの馬を作る。その馬を作るためのナスを1本、朝市で買ってきました、という歌ですね。ナスを植える時期に、お盆のことを考えて馬を作るためのナスの苗を買った、という歌ですね。『黄泉路の子旅安かれと馬作る茄子苗ひともと朝市に買う』。そんなにたくさんはいらない、そのお盆のための、馬を作るためのナス苗だから、ただ1本だけれども買ってきました、という歌ですね。これもお盆の前の、子どもを亡くした親御さんの気持ちが出ていますね。ナスを手作りで、八百屋さんから買わないでナスの馬を作ろうとしている。そんな気持ちだと思います。
 35番。『進みしと思いたくなき老眼の眼鏡上げ下げしては拭いぬ』『進みしと思いたくなき老眼の眼鏡上げ下げしては拭いぬ』。眼鏡の度が合わなくなったのか、よく見えない。そんな状態がしばしばありますが、老眼が進んだと思いたくないので、老眼鏡を上げたり下げたりして、汚れているせいかしらなんて思ったりして、また拭いてみたりしたというのですね。老眼っていうのはどんどん進みますね、私は今3つ目なんですけれども。『進みしと思いたくなき老眼の眼鏡上げ下げしては拭いぬ』。老眼鏡が合わなくなったときの、やりどころのない気持ちというか、そんなものが出ていると思いますね。『進みしと思いたくなき老眼の眼鏡上げ下げしては拭いぬ』、よろしいですね。
 37番。『夕映えは次第に薄れ天を突く連峰黒々と移ろいゆけり』『夕映えは次第に薄れ天を突く連峰黒々と移ろいゆけり』。どこか大きな山のある場所で歌われていますが、夕方の光が次第に薄くなってきて、天を突くようにそびえている峰々が、黒々と色を移していったというのですね。移ろう、というのは、移るという字の延言と言いまして同じ言葉なんですね。移るということと同じ。移りてゆけりということと同じですが、移ろう、というふうに文学的に言っていらっしゃるんですね。移りてゆけりでも同じです。『夕映えは次第に薄れ天を突く連峰黒々と移ろいゆけり』。景色の歌としたら、しっかり風景の歌われた歌ですね。
 それから、39番。『薪宴のやぶ蚊いぶしも済みしと聞く満月の夜の羽衣の野を』、羽衣の、「の」を入れると調子がいいかしら、『満月の夜の羽衣の野を』。『薪宴のやぶ蚊いぶしも済みしと聞く満月の夜の羽衣の野を』。鎌倉の薪能を歌ったという注釈ですね。まず、やぶ蚊をいぶしてからでないと、羽衣の薪能もできない。で、その薪宴のやぶ蚊・・・。