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「短歌講座」
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昭和59年10月19日
③A
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大西 掬うということは、人間や何かを救うことと同じ語源なんですけれども、その掬い寄せるようにね、あるべき姿というか優しいほうに掬い寄せるようにして歌ってあげると、このやもめの奥さんも救われるんじゃないかな。作者は同情して歌っているんですよ。炎熱の日なのに、炎暑の日なのに、スズメを追って一生懸命働いていてかわいそうだなと思っているんだけれども、歌われてみると、ひどく残酷にありのままを突き放して歌っているように見えるでしょ。それを少しこう、優しく見てあげたらどうだろうね。
そこのところで写実の大切さになるんですけれども、ありのままを描けばいいかっていうと、そんなものでもないですね。描くときに掬い上げるように、掬うような形に詠んであげる。優しい心で歌うということがね、大切なことのように私は思う。
例えば、『炎暑の日も稲田の雀追いており寡婦なる友は忙しげに見ゆ』とかね、なんかして優しく歌ってあげる。寡婦と突き放さないで自分との関係が分かるように歌ってあげるということでないと、寡婦っていうものは独立した、あるようで突き放されて、私も寡婦だから言うのかな。ちょっとね、同情した感じ、情けを掛ける、心を込めて歌ってあげるっていうことが大事かもしれないかな。そんなことを感じます。
きょう、これでよろしいでしょうか。25分も超過してしまった。ごめんなさい。もうそろそろ主婦に戻って、お買いものして帰らなければいけないのではないでしょうか。時間を超過してしまって、申し訳ありませんでした。きょうはこれで終わります。どうも。
一同 ありがとうございました。
(了)